「活祖」(かっそ)とは:生き仏という意味。一体どこにいるのか。あなたが生き仏になる!?

読み方と意味

「かっそ」と読みます。生きている仏様という意味です。一般には成仏(仏に成る)というと死ぬことを意味しますから、生きている仏というのは矛盾する言葉のように感じます。生きている仏とはどういうことなのでしょうか。

何を伝えたい言葉なのか

仏教は本来、死んで仏になるのではなく、生きている間に仏になることを目指す宗教です。生きている間に仏になれなかったから、可哀そうだから死んで仏になったことにしてあげようということで、お寺でお坊さんが成仏させてあげるということから、「死ぬこと=成仏」という通説が形成されています。

だから本来は、立派に仏のように生きた人を、死んで成仏させてあげる(仏にしてあげる)必要などはありません。お寺のお坊さんも本来は生きている人々を成仏させること(感化して仏のように生きさせること)に専心すべきですが、実際にはお葬式・仏事で何やらそれらしいことをすることに終始しがちです。

元々の仏教にもお経にもお葬式の作法や死者への弔いなどはありません。「今日、いかに生きるのか」が仏教、そして禅の基本テーマです。

生きている仏とは、あなた自身のこと

生きている仏の仏とは、いわゆるの仏さま(釈尊)のことを指しているわけではありません。誰しもが生きてるうちに仏に成れると説くのが仏教ですから、生きている仏とは、全人類誰しもということになります。もっといえば、生きている仏には全員成れますというよりは、仏とは生きているあなたが今日なるべきですと仏教は説きます。まさに仏の教え、仏教です。

古ぼけた仏像は、本当の仏ではない

どのように実践するか

生きているうちに自分が仏になることが「活祖」の本義であることが分かりました。では、どのように生きているうちに仏になればよいでしょうか。禅の教えは簡潔であり、「座禅しなさい」ということになります。菩提樹の下で座禅して悟った釈尊と同じ体験をあなたもすればよいというのは禅の考え方です。

幽香山梅蔭禅寺の説明が端的ですので、参考にしてみてください。

宗教とは

絶対的なものを信仰、体得にすることにより、自分自身の中に永遠なる希望と光明と心の安らぎを見出してゆく教えを「宗教」と呼びます。

仏教とは

釈尊がご自身で実行してご自分で体験されたその絶対的なものを、すべての人々がそのまま信仰、体得できる方法を教えたものを「仏教」と呼びます。仏教ではこの絶対的なものとは、すべての人が皆持っている本来清浄な自分の心であると教えます。

禅宗とは

坐禅をして心身を統一することにより、この本来清浄な自分の心を自身で体得、承知する宗旨を禅宗と呼びます。

座禅とは

静坐して、身体を整え、呼吸を整え、心を整え、同時に数息観あるいは公案に精神を統一して、心の本体に立ち返り、本来清浄な自分の心を自覚する方法を座禅と呼びます。

座禅以外の仏になる道

座禅だけが仏に成る道ではないと禅では考えます。むしろ座禅ではなく、日常のなかで仏になることを重要と考えます。具体的な方法を幾つかお示しします。

・「~しながら××する」をしない

・意識して呼吸する

・よく噛んでご飯を食べる

・背筋を伸ばし、腰を立てる(立腰)

・足の裏を意識して歩く

いずれも、座禅でやることを日常に延長していくような作業です。つまり、座禅の方が容易で、日常実践の方が困難であり、座禅以上に日常実践できれば価値があると考えます。

いつでも仏になれるが、いつでも仏でなくなり得る

だれしもが活祖にいつでもなれるわけですが、逆を言うとだれでもいつでも活祖で亡くなってしまう可能性があります。昨日はよかったけど今日は駄目、先ほどはよかったけれど、今は駄目といったことがあり得ます。ゆえに常に「今に集中する」ことを禅は説きます。

まとめ

いかがでしょうか。活祖(かっそ)の意味と実践について実践についてみてきました。意味は生きている仏ということでしたが、大昔に生きていた釈尊のことではなくその本義は、「今、あなたが仏になれ」という強烈なものでした。太古の仏さまを想う懐古主義的なものではなく、現在進行形のフレッシュな思想、そして何より自分自身の胸に突き刺してくる血の通った仏教の本質を現した言葉です。禅はその実践を座禅や日常生活に見出すことを最後に確認しました。ぜひ、実践してすぐに活祖になってください。

”私自身”こそが仏であると気づけるか