泥仏不渡水 神光照天地の意味「大切なのはモノではない」

(でいぶつどろをわたらず しんこうてんちをてらす)

「泥仏不渡水 神光照天地」はそれぞれ単独に使われることの方が多い禅語です。

泥仏不渡水は「金仏不渡炉」 「木仏不渡火」と合わせて趙州の三転語として知られている偶像崇拝を否定した言葉です。

さらにこの3つをまとめる言葉として「真仏坐屋裏」があります。神光照天地は、泥仏不渡水のいわば解説に出てくる言葉です。

読み方

「でいぶつ みずをわたらず、しんこうてんちをてらす」と読みます。

泥仏不渡水は、もう2つの言葉と合わせて趙州(じょうしゅう)の三転語として用いられます。

もう2つの言葉とはこちらです。

  • 金仏不渡炉
    (こんぶつ ろをわたらず)
  • 木仏不渡火
    (きぶつ ひをわたらず)

この3転語をまとめあげる言葉もあります。

  • 真仏坐屋裏
    (しんぶつ おくりにざす)

ということでこれらをまとめて解説していきます。

出典

『碧巌録』に収録されています。

碧巌録は禅問答(公案)をまとめた宋代の禅書です。

全部で100則ある中の第96則にこの語はあります。

禅語の出典経路

禅語の出典にはいくつかのパターンがありますが、「泥仏不渡水 神光照天地」は正当な禅の教本に由来する生粋の禅語といえます。

  1. 禅書に由来するもの
  2. 詩句から取り出したもの
  3. 故事成語から取り出したもの
ただし、この後見ていくように引用する節のなかで、最も重要な要素を成す言葉ではない点、注意が必要です。

ことわざ「木仏金仏石仏」

似たような言葉を用いたことわざに「木仏金仏石仏」(きぶつかなぶついしぼとけ)がありますが意味はまったくことなります。融通が利かない人や情に流されない人を例えて用いられます。

泥仏不渡水

まずはこちらからご確認ください。

読み下し文

趙州、衆に示して云く、

金仏 炉を渡らず、木仏 火を渡らず、泥仏 水を渡らず

此の三転語を挙示し了って、末後、却って云く、

真佛 屋裏に坐す。

意味

趙州が弟子たちに言った。

金属性の仏像は炉で溶けてしまう。木製の仏像は火にかければ燃えてしまう。

土で作った仏像は水のなかで溶けてしまう

この3つの例えば話を言い放って話は終わり、最後に振り返って言ったことは

真の仏は家の中に座っている!!

趙州は唐代の名僧です。その趙州が弟子たちに問いかけている場面です。

意味を確認していきましょう。

仏は燃えたら消えてしまうのか

金属性であろうと木製であろうと、仏像はすべて燃えてしまうと言っています。

趙州が弟子たちに言いたいことは

そうなったら仏というものはこの世から消えてなくなってしまうのか?

ということです。

POINT

趙州の答え

答えはもちろん、

木仏が燃えようとも泥仏が溶けようとも、仏の教えはなくならない

偶像崇拝が端的に否定されています。

仏とはどこにいるのか

それでは、本当の仏とはどこにいるのか?ということが問題になります。

趙州は

家の中に座っている

と答えています。

家のなかとは?

端的にいえば、家で座禅をしているあなた自身だということです。

あるいは心の中にいると捉えても構いませんが、せっかく「屋裏に坐す」と具象表現をしているので、

座禅をしているおまえが仏なんだぞ

とズバリ答えていると捉えるのが禅の解釈です。

例え話のあとで、ズバリそのものを指したところに趙州の本懐があります。

趙州の本懐

泥仏不渡水・金仏不渡炉 ・木仏不渡火の3転語はあくまで前段で、本旨は真仏坐屋裏ということになります。

前段か本論か

そのため、禅者のあいだでは「真仏坐屋裏」を重んじて用いる人も多くいます。

神光照天地

ここまでで泥仏不渡水は出てきましたが、まだ神光照天地が出てきていません。

「泥仏不渡水 神光照天地」がセットで使われる出典を見ていきます。

出典

同じく碧巌録96則の頌(じゅ、本則に添えられた詩句)にあります。

読み下し文

泥仏は水を渡らず

神光、天地を照す

雪に立つこと如し

未だ休めざれば、何人か雕偽せざらん。

意味

泥の仏は水に溶けてしまう。

「神光」はこの世界に光をもたらしてくれたが

その神光が、雪の中立ち尽くして達磨に弟子入りをお願いしたというその姿こそが仏だ。

今も変わらず、誰をもあざむかない。

神光は、達磨大師の弟子の名前です。

神光は人の名前

神光は達磨大師の弟子「神光(しんこう)」について、次のように語っています。

神光の敬けんな姿は、仏そのものである。

仏像のようなモノに向かってはいけない

という意味で使われています。

神光は幼名

神光は幼名で、通常は慧可(えか)と呼ばれます。 達磨大師から数えて二代目ということで二祖慧可と呼ばれたりもします。

神光は「ひかり」を意味するものではないが、

時に茶掛けに使われる「神光照天地」ですが、用い方としては、「ありがたい太陽の光が大地を照らす」というような意味合いで使われているかと思います。

神光をひかりと捉えるなら「確たる覚悟」の光

達磨は面壁九年と呼ばれる壁に向かって座禅をし続けていて、弟子を取らずにいました。

神光は最後自分の腕をもぎ取って達磨に差し出して弟子入りを承服してもらったという壮絶なエピソードがあります。

達磨一代で途絶えていたかもしれない

この神光の強い覚悟の気持ちがなければ、達磨の教えはそのまま一代で途絶えていたと考え、禅者は達磨同様、神光(二祖慧可)を大切な存在と考えています。

神光の強い覚悟の気持ちが、その後の禅の興隆につながりました。

総括

結局全部で5つの言葉が登場しました。

混乱しないように整理してみます。

  1. 「泥仏不渡水」、「金仏不渡炉」、「木仏不渡火」は偶像崇拝忌避の言葉
  2. 「真仏坐屋裏」は、自分自身を仏と諭す言葉
  3. 「神光照天地」は、強い信念が活路を見出すという言葉

大きく3つの文脈に分けて理解することができました。

一番大切

「真仏坐屋裏」が最重要

 「泥仏不渡水 神光照天地」の解説でしたが、一番重要なのはやはり「真仏坐屋裏です。

「座禅をしているおまえが仏なんだぞ」を正面から捉えて、実際やってみていただきたく思っております。

ぜひリモート自宅座禅会にいらしてください。

まとめ

以上、禅語「泥仏不渡水 神光照天地」の意味を確認してきました。

モノで考えず、自分自身の心で考える言葉として、使ってみていただければと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

今日も良き日をお過ごしください。

監修者:「日常実践の禅」編集部 
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

引用・参考文献:
・『一行物』(芳賀幸四郎、淡交社)
画像の一部:
・「pixabay
・「photoAC

編集部コラム

仏教の大切にするものが仏像であったながら、仏像がすべて破壊されたとき、仏教はすべてを失ってしまうことになります。実際にそのようなことがあっても、仏教はなくならないはずです。より大切なものがあるからです。仏像も大切ですが、それ以上に大切なことがあると仏教は考えます。

では、本当に大切なものは何でしょうか。それは「あなた自身が仏であるということに気付き、そのように生きる」ことです。徹底した日常実践、生活における体現を禅では目指していきます。その手段として、仏像を大切にする、ということも時にあるかもしれません。しかし、この実践のごく一部でしかなく、必須要件ではありません。仏像は燃えてしまっても、何も困ることはないという高い精神性への回帰をこの語は促しています。

どのように実践するか

仏像を毎日拝むことも一つの実践かもしれませんが、禅は自分自身が仏になることを心がける宗教ですから、仏像を拝むことよりも、仏像のように自分も座禅をして少しばかりでも時間を過ごしてみる方がはるかに重要と考えます。あちこち出かけて行って大寺院を散策してみることやそこで御朱印をもらうこともよいけれど、自宅を清掃して清潔に暮す方がより重要、自宅(自分)を疎かにするな(真仏屋裏に坐す)と考えます。

迷い、悩んだときに

何かに思い悩んだりしたときに、この言葉は役に立つかもしれません。燃やしてなくなってしまうものに動揺する必要はないからです。物理的なモノに関する悩みからは一旦開放されます。そんなことはどうでもいい、そんな気持ちの煩いが意外と色々あるものです。多くの買い物、消費活動はこの範疇かもしれません。

捨て活にあたって

家の片付けにあたって、捨てるべきかどうか判断しかねる場面があるかと思いますが、この語は捨てる勇気を与えてくれます。「それがなくなっても本当に大切なものはなくならない。何を捨てても残るもの・なくならないものが一番大切なもの」だと、片付いた部屋と、心の平静を与えてくれるからです。

捨て活の実践レポートはこちらをご覧ください。

それでも何も困らない

「木仏は火で燃えてしまう」に、「それでも何も困らない」という下の句をつけてあげると本来の意味に辿りつくことができます。つまり、 

木仏は火で燃えてしまう。それでも何も困らない。

仏像を拝むよりも、あなたが仏であってほしいと仏教は願っている。

仏像を拝むよりも仏像のように座禅をして欲しいと禅は願っている。 

ということになります。モノに関心を向けずに、自分の心の平静と実践に注力して欲しいということです。ぜひ体現してみてください。