「知足」(ちそく)の意味::満たされていることを知ること。満たされない人を餓鬼という
知足は、「ちそく」と読みますが、「足るを知る」と呼んでもよいかと思います。意味合いとしては、「ほどほどで満足せよ」という解釈が一般的です。つまり、「多くのものは100点満点とはいかないから、ほどほどのところで十分だと思うことが幸せになる道だ」ということになります。妥協を促す言葉とも取れますし、慎ましさを促す言葉とも取れます。ここでは禅の美意識という点でも考察してみたいと思います。
禅の美学:Less is More
十分でなくてもよいのではないか、という考え方は、発展的に十分でない方がむしろいいという積極的不十分容認論につながっていきます。多くを求めてきたけれども、少ない方がむしろいいという考え方です。これは禅の考えの基底を成す部分でもなります。具体的にはどのようなものになるのかみてみましょう。
不十分なさまが美しい:雲のない満月でなくていい
「月も雲間のなきは嫌にて候」という珠光の言葉のように、完璧な均衡というものを必ずしも求めない美意識というものがあります。菅原道真の「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」とは違う、詫びさびの情緒です。満月でなくとも、雲に隠れていようとも、それでいいじゃないか、むしろそれがいいというのが知足です。
100点の満月でなければ満足できないのであれば、1年中ほとんどは不満で不幸せは日々です。雲に隠れて、また欠けている月を楽しめるなら、1年中毎日幸せです。物理的な不十分さの容認は、精神的な充足の拡大につながるという、仏教の心髄とも禅の本質といえる思想の基底をなす考え方です。
「知足」という考え方の本質
不十分で満足するという考え方は、中途半端に妥協するということではありません。むしろ、少ないほどいいという発展的な思想の拡張にその魅力があります。
実例を考えてみる:少ない方が豊かなケース
「少なくてもいい」はさらに発展して、「少ない方がいい」というラディカルな思考に至ります。「無一物中無尽蔵」という言葉もあるように、減っていくほど無限に広がるという考え方です。例えば、こんなことが考えられます。
断捨離:10冊のアルバムより、1枚の机上の写真立て
たくさんのアルバムが山積みで何年みられていないのなら、そのうちの一枚を抜き取って写真立てに飾った方が思い出を大切にしていることになるかもしれません。大切な思い出は、思い出さなくては思い出とは言えませんね。少数の写真を丁寧に飾っている人ほど、思い出を大切にしているとも言えます。
少食主義:たくさんのごちそうより、一杯のごはん
いっぱい食べることと、深く味わうことは時に背反します。いっぱい食べて深く味わうこともできますが、一つのおにぎりを味わって食べることと、たくさんのおにぎりを腹いっぱい食べるのではやはり味わい方は異なります。知足の考え方に基づけば、1個でも事足りる、腹八分目で十分、多くを貪るよりも少量を感謝して味わって食べようということになります。
“飽食は貧しく、少食は贅沢である”と気づくことができるかが、「知足」という言葉の理解度そのものです。
大勢の同窓会より、親友とのカフェ談義
たくさんの友人たちとの食事会も楽しいですが、理解のある友人1人にカフェで相談に乗ってもらうということも必要なことがあるかと思います。両方あればいいですが、ただ友だちの数を増やそうとすることには意味がありません。食事会の人数が20人、50人、100人と増えていくほど、話せる人と時間は減っていきます。10人、5人、2人と減っていくほど、深い話ができるということですね。まさにLess is Moreです。
シンプルな方が伝わるデザインの力
花の美しさをどちらの写真にもありますが、1輪のこれから咲く花には情緒を一層感じます。ホワイトスペース(白場)がつくる1輪の花への集中と、余裕のある雰囲気によるものです。少ない方が豊かである(Less is More)と気づかされますし、少ない方が贅沢であり、実際高級感のあるデザインになっていきます。
少ない言葉の威力
伝えたいことがあるときに、百冊の本を書いても伝わらないものをあります。たった一言のメッセージでも、心に残り続ける言葉もあります。多くを語るより、ほんの少しでいいのではないかというのが禅の考え方です。禅の修行を続けた松尾芭蕉は、俳句の樹立者として知られています。ごく短文で豊かな世界を表現するのが俳句の世界です。有名な「古池や 蛙飛び込む 水の音」。実は禅問答に由来する一句といわれています。
茶道での実践を志向する
「何はなくともよい」が知足の本懐です。「今日ここで幸せになる」が禅の本懐であり、この二つは同義です。茶席に際して、道具や点前で慌てる必要はないということです。あるもので済ませて、点前もそれなりでよいのです。本質は客人のもてなしであり、この本質を忘れ、完璧な道具組みに心を砕くこと、点前のあれこれに執着することは、知足の反対、すなわち餓鬼の道です。これに陥らないことが、禅を基礎に精神文化として成立した茶道の目指すところでしたよね。
道具にこだわらない席に臨んで
より少ないものでおもてなしをすることは、心細い感じがして不安になります。つい道具のあれこれを工夫したくなります。しかし、茶道を精神実践として取り組むならば、道具はあるもので揃え、「知足」の軸を掛ければそれで終わりです。それをするには度胸が必要であり、精神修養そのものに取り組むことになります。わずかに茶菓子を1つ手作りすれば、それでよいのです。その菓子作りだけでも大仕事であり、まつわる話題も溢れてきます。Less is Moreを実践しましょう。
点前作法を気にしない席でに臨んで
形式的な点前作法も、大胆に捨て去ってしまってもよいかもしれません。そういう席で、「点前すらもなくても、もてなすこころさえあれば事足りる」という本質にアプローチするための開き直りの宣言として「知足」。大いによいことと思います。
「知足」が求める覚悟
これでいいと開き直ることは簡単ではありません。禅では肚を決めるといいいますが、そういう肚の決まった潔い心づもりが亭主にあれば、自然と気持ちの良い茶席になることと思います。
日常実践を志向する
豊富さは、物理的な豊富さというよりも”味わい深さ”のような意味ということに気づきます。味わい深さは、マインドフルネスの訳として用いる人もいます。マインドフルネスは、歩く一歩一歩や、呼吸の一呼吸一呼吸をじっくり味わいます。早いというよりはゆっくり、数を追うというよりは、少量でもしっかりやるという考え方になります。
少々で満足するという精神活動の言葉として「知足」は捉えることができますが、より実践的に、物理的な実践方法を考えてみたいと思います。
モノを減らしていく
いわゆる断捨離の世界ですね。ちらかっているモノ、使っていないものを整理してみることは一つの「知足」の実践です。もっと少なくても十分生活していけるはずです。多いことが生活の窮屈さや騒々しさを生み、少ないことがやるべきことへの集中につながることはよくあります。
次の食事はリンゴ1つにする
リンゴを味わって食べてみてください。リンゴの栄養をすべて自分のものにしてください。こういわれたらたくさんのリンゴを食べますか。1つのリンゴをゆっくり時間をかけて食べるという楽しみ方もあると思います。より多くを食べること、これを食事の楽しみにしてしまっては、まさに「餓鬼」そのものです。
より多くのリンゴを食べることには限界がありますが、1つのリンゴを完全に味わい尽くそうと思えば、無限の楽しみ方が出てきます。さあ、次の食事はリンゴ1つにして、さっそく生活実践してみましょう。
何もしないでみる
何にもしない、というのはかえってむずかしく、人間に最後に残された自律的な活動が”呼吸”です。呼吸は無意識にも行うので、半自律的な活動ですが、これだけに集中しようというのが座禅です。一切を忘れてしまっても、満足の心境を得ることすなわち「知足」は可能であり、それを自覚する活動として、究極の「知足」実践方法として座禅を位置付けることができます。上にみたような実践を踏まえて、「ないほうがいいんだ」という確信を持って座禅すると、心の平静を得るという効果はバツグンです。何もしない贅沢さは、お金で変えるものではなく、誰でもすぐに実践できるものだということです。
まとめにかえて
いかがでしたでしょうか。たった二字の「知足」にも大きな味わいがありましたね。まさに多くは不要であるということができます。読み流さずに、ぜひ実践してみてください。