「今、ここ」とは:マルチタスクを止めよう!1点に集中して、スマホながら禁止!悩みを吹き飛ばす言葉
禅の基底を成す言葉に「今、ここ」があります。意味は説明するまでもありませんが、あえて捕捉するなら「今、ここでできることをやり切ろう」という意味になります。
なぜ、「今、ここ」が大切なのか
禅の考える「今、ここ」は幾つか特徴があります。そのポイントを押さえると実践がしやすく、実践の効果も大きくなります。
禅の考える「今、ここでできること」はかなり短期間
例えば、あなたは高校生だとしたら、「卒業後の進路を進路を考えず、今の高校生活を頑張ろう」でもよいですが、もっと短い時間軸で、「今日の宿題はやり切ろう」「今、この授業に集中しよう」と考えます。
未来という妄想を断ち切る
つまり、この言葉は今、この瞬間の実践を求めています。逆にそうならないケースを恐れています。そうならないケースとは、色々考えて何もやらないで過ごすというパターンです。
例えば先ほどの高校生の例で、次のようなことに思いを巡らせることを避けようとします。
・「この勉強をして何の意味があるんだろう」
・「卒業後の進路がどうなるのだろう」
・「この授業を真面目に聞いてもテストの点が上がるとは限らない」
こういうことを考えず、まず今できることをやろうよと禅では考えます。結果として
・今日の宿題をやらずに済ます
・授業が耳に入ってこない
といった事態にならないようにしようというわけです。色々考えている人より、色々気になりつつもきっちり宿題・授業をやっている人の方がよほどに有意義と考えます。
刹那を生きる
禅は今の一瞬への集中を促しますが、これは今がよければ何をやってもよいという自暴自棄な態度ではなく、むしろ一瞬一瞬を大切にする密度の濃い人生を送る言葉です。
未来だけでなく、過去も捨て去る
今できること、やるべきことに集中することは、すなわち未来の思慮だけでなく、過去のことも考えないということになります。未来も過去も妄想であるとして、そういう妄想に捕らわれないようにするという考え方です。
思考停止ということ?
夢中になって何かをやっている状態、いわゆる「無」の状態とも言えます。ただ授業を聞くことに熱心なだけでは、思考停止であり、妄信・盲進ではないかとも思われるかもしれません。
しかしそうではなく、次のように考え実践します。
日常実勢を志向する、三昧の境地とは
すっかりそれに集中にしてやり切ることを三昧(ざんまい)と言ったりもします。勉強に没頭する状態は勉強三昧です。ただ勉強ばかりしていてはよくありませんから、勉強が終れば次のことで三昧になります。部活三昧、おしゃべり三昧、お菓子三昧、リラックス三昧、Youtube三昧、何でもその瞬間のことをやり切ろうというのが禅の教えです。
マルチタスクを止めよ
禅の無の境地とは、ぼけーとしていて上の空というものとは異なります。こっちもやりながら、あっちもやるというようないわゆるマルチタスクを嫌います。1つのことをやり切れていないからです。
ですので、こっちを終わらせたら、あっちをやるというマルチタスクはOKです。存分にやり切れないといけないわけで、禅では「それをやり切る」から「そのもの成りきる」ことまでも求めます。そのくらいの三昧、集中を求められます。
ながら禁止
したがって、何かをしながら、別なことをするということが許されません。しかし、よくしがちです。例えば、
・ラジオを聴きながら勉強する
・テレビをみながら歯を磨く
・スマホをみながら歩く
・スマホをみながら食べる
・スマホをみながら人の話を聞く
スマホながらが多くなってしまいましたが、色々生活改善できるポイントは多くあるかと思います。
まとめ
いかがでしたでしょうか。夢中になって集中してやることはとても気持ちのよいものです。無の境地は、ながらをせずに歯を磨くことでも得られます。ぜひ、生活実践してみてください。