「心不可得」(しんふかとく)の意味:心は掴むことができない。しかし実践できる。
「過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得」という禅問答からの禅語です。過去心不可得だけが用いられる場合が多いですが、大意は心不可得にあります。
読み方と意味
読み方 は「しん、ふかとく」です。
意味
心を手に取ることを不可能であるということ。つまり、心を詳細に理解することはできないということ。心の分析というのは難しいし、自分や人の心を気にしづぎてもしょうがない。けど心は大事だよね、というところが難しいところ。
解説
この考え方は、余白の機能というものを想起させます。デザインにおける余白は情報伝達の量という点では無駄なスペースです。しかし、効果的な情報伝達という点では、意味があります。余白を使ったデザインには訴求力があります。
余白だけ単独で意味がない
一方で余白は余白だけでは意味を成しません。伝えるべき何かを引き立てる存在が余白です。色々伝えるべきことはるけれども、すこし余白を取って余裕を持たせてあげた方がデザインは効果的になります。むしろ、大胆に余白を取って上げた方がよいこともあります。
伝えたいことを詰め込み過ぎると情報過多で効果が薄れます。多少とも余裕が必要ということです。
心というのは、人間における余白(余裕)のようなもの
心というのも、デザインにおける余白のように、それ自体では手に取ることができないけれども、人間全体にとっては重要なことと考えることができます。つまり心というのは人間における余白、余裕と置き換えた方がよいかもしれません。
人間の動物的側面は生存や生殖の活動ということになりますが、しかしそれだけでは人間らしいとは言えません。心が必要です。少し余裕が必要です。余裕とは心そのものです。しかし、心は何かと問われれば、手に取って説明することはできません。
実践編
心=余白、余裕、ゆとりです。動物的な活動から、精神的活動がそれにあたります。心=余裕は、物質的充実・経済的充実・時間的余裕とは必ずしも一致しません。具体的な心ある生活はすぐに実践可能です。
花のある生活
ただ、花を1輪挿して、机の上に置くだけです。買ってくればお金がかかります。土手に行って詰んでくればお金はかかりません。花を1輪挿したところで机の機能は変わりありません。食卓におけば、むしろ少しスペースは減るかもしれません。しかし、余裕が生まれます。生活の余裕、心のある暮らしは実に簡単に実現できます。
清潔な暮らし
自室を掃除しましょう。自室が大変なら机の上だけでもよいです、今すぐに。どれほど忙しくてもほんの1分、或いは5分の掃除は可能です。この掃除が自分生活に余白(余裕)を与え、生活を豊かにします。掃除はお金がかかりません。道具があった方がよいですが、なくてもできます。清潔な環境で暮らすことは最上の喜びであり、最低限度の暮らしだと思いますが、基本的には自分がやるべきことです。お手伝いさんによってもらう、家人にやってもらうでもよいですが、それが自立した人間の暮らしと言えるでしょうか。
お手伝いさんを雇うのは相当のお金が必要です。雇えるならご飯も作ってもらうとよいでしょうか。3食作ってもらって、掃除もしてもらって、何も自分はすることがない。このような状況は理想でしょうか。このような状況は現実にあり、サービス付き高齢者向け住宅にあります。昔でいう老人ホームです。願うべき理想は、自分で掃除、自分で料理、自立した生活であり、それができるように人間は育てられてきているはずです。
周囲を信頼した暮らし
周囲に信頼させることは、周り次第です。もちろん自分の立ち振る舞いで周囲の対応が変わって来るのですが、一義的には信頼されるかどうかは自分でどうこうできることではありません。徹底自力の宗教である禅では、“自分”を中心に考えます。信頼はされるものでなく、するものであると考えます。これはすぐにできます。
周りの人を尊敬し、立派にそれぞれやっていると、会う人は皆師匠であると考えます。まずは快活にあいさつすることから始めましょう。だまされたらどうしようとか、私の周りの人は大したことがないなどと考えず、絶対的な信頼を周囲に寄せます。それができるのは強い自己信頼が前提になります。
心は実践できる
心は手に取ることができますせんが、このように食卓の花、清潔な暮らし、快活な挨拶など、ちょっとしたことに見出すことができ、それを実現できます。 出典では、 過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得 と言うことを冒頭述べました。
過去を思ったり、今日やることに頭がいっぱいになったり、未来を心配したりという心は意味がないと考えます。ただ、心の余裕を持って、何か実践してみることが心の体現になります。手には取れないけど、実践はできるのが「心」です。