一以貫之の意味「一とは自分のこと。これを貫き通す」
(いちいかんし、いちをもってこれをつらぬく)
「一以貫之」の意味をみていきます。
元々孔子は「思いやりをもって生きること」の意図で使っています。
一般には「一つのことをやり遂げること」の意味で使われることもあります。
禅語としては、「仏である”私”自信を貫き通せ」という意味になります。
読み方
いっしかんし、と読みます。
いちをもってこれをつらぬく、と訓読みしてもOKです。
出典
『論語』「里仁」です。
禅語には幾つかパターンがあります。
- 禅問答に由来するもの
- 詩句から取り出したもの
- 故事成語から取り出したもの
2,3の場合は、元が禅の文脈ではないため、元の意味を離れて用いることになります。
一以貫之は、3のパターンということになります。
そのため、元々の意味で、禅語としての意味の両方を見ていくことにします。
原文
(読み下し文)
子曰く、参よ、吾が道は一以て之を貫く
曽子曰く、唯。
子出ず。門人問うて曰く、何の謂いぞや。
曽子曰く、夫子の道は、忠恕のみ。
(意味)
孔子「曽子、私の道は一以貫之だ」
曽子「はい」
孔子が退出。
他の弟子から「“一”とはどういう意味ですか」
曽子「まごころからの思いやりである」
意味
論語では、「一以貫之」と孔子が大衆の前で一言告げて、聴衆はちんぷんかんぷんとなります。
この「一」が何だか分からないわけです。
そこで孔子の弟子の曽子が意味を教えてくれています。
論語における意味「まごころからの思いやり」
「一」とは「忠恕」であると。
忠恕とは、“まごころからの思いやり”です。
つまり、「一以貫之」とは、「思いやりをもって人と接すること、これを生涯続けること」という意味ということになります。
人間関係の哲学である儒教らしい導きです。
よく用いられる意味「一つの思いを曲げずに貫き通すこと」
字の雰囲気で、「一つの思いを曲げずに貫き通すこと」という意味で用いられることがあります。
しかし、先に確認したとおり、「一」は忠恕であると明確に原典に書いてあります。
「一つの思いを曲げずに貫き通すこと」では、「一」の意味が多義的で何でもよいということになってしまいます。
したがって、この意味の捉え方はいわゆる私訳(主観的な現代語訳)ということになります。
この方が圧倒的に使える範囲は広がりますから、この使い方もよいのではないかと思います。
禅で用いられる意味
禅の文脈での解釈は、明治時代の禅僧今北洪川によるものを参照してみましょう。
今北洪川は儒学を若くして収めて私塾を開いていました、その後に禅宗に転じて円覚寺の管長を務めるなどした明治屈指の臨済宗の禅僧です。
優れた儒家から傑出した禅僧に転じたという経歴から、信頼に足る解釈を得ることができます。
「一以貫之」に関する洪川の解説は、大著「禅海一瀾」の第4則にあります。
(原文)
一とは数の義に非ず。凡そ道の体(本体)たるや、甚だ言い難し。其の作たるや、亦測られず。
故に敷いて唱えて一と言うのみ。余、嘗て学者に問う。
一とは是れ何者ぞ、四大に非ず、五蘊に非ず。
歴然として爾が鼻腔裏に現在す。
若し道い得て諦当ならば、爾に許す、一貫を見ることを。
「一」は自分自身
「歴然として爾が鼻腔裏に現在す」と、おまえ自身であると言っています。
状況としては臨済が弟子たちに「君たち自信が仏だ」と言っている状況に似ています。
仏としての自分自身、つまり禅語でいうと「主人公」であり「本来の面目」であり、「天上天下唯我独尊」たる私です。
「自分自身というものを貫く」、これが「一以貫之」の禅的解釈です。
ちなみに洪川は、儒家から禅宗に転じたものの、こうした儒教の言葉の引用からも分かるとおり、儒教にまったく否定的というわけではありません。
禅の核心「自分」と向き合う禅語はこちらから
同じ意味で「一」を用いた禅語
禅では実際「一」を自分自身として表現することがよくあります。
- 万法帰一
- 一即一切一切即一
- 天得一以清
他にも、比喩を交えて「一」という自分を表わす禅語が色々あります。
一般的な意味でもぐっと深まる
「一」という語は自分自身でないとしても、よく用いられます。
私訳として片づけましたが、この「一」に着目しても意味は深まるかと思います。
これらの禅語を通じて、「一」の重みが伝わってくるかと思います。
- 常行一直心
- 三界唯一心
- 別是一壷天
- 一念三千
- 一期一会
まとめ
以上、「一以貫之」の意味を、儒学という元々の意味、一般的な意味、禅の意味で確認してきました。
「一」を「仏としての自分自身」という強い意味を持つ禅的解釈に触れる良い機会となったなら幸いです。
本日も良き日をお過ごしください。
おまけ
同じく儒教の言葉を禅的に解釈して用いられる「思無邪」も見てみてください。
引用・参考文献:
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- 「pixabay」
監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
編集部コラム:松尾芭蕉の「一」
松尾芭蕉は、俳句を文学にまで高めた俳諧師として知られていますが、長らく禅修行をし、仏頂禅師に参禅していた熱心な禅者という側面もあります。
有名な「古池や 蛙飛こむ 水のおと」については、禅研究の泰斗である鈴木大拙が著書『禅と日本文化』で論考しています。
ここでは、松尾芭蕉の『笈の小文』の(序)を引用します。
「西行の和歌における、宋祇の連歌における、
雪舟の絵における、利休の茶における、
其の貫道する物は一なり。」
これは「一以貫之」の「一」のことを言っているのではありませんが、同じ一である、つまり「本来の自分」のことを言っているのが芳賀幸四郎です。
雪舟も利休も芭蕉もみな禅の影響を強く受けている人たちです。
芭蕉のように「禅」を実践してみようという人はこちらを参考にしてみてください。