「不住青霄裏」(せいしょうりにとどまらず):得たものにこだわらず、青空のように自由に!

読み方と意味

青霄裏(せいしょうり)に(住)とどまらず、と読みます。

意味

青霄は青空、大空のことで、ここでは師匠の教えを受けて得られた境地のことを指します。

その境地は大空のように爽快なわけですが、その師匠の教えをさらに超えた場所を目指すとこの句では言っています。

師匠の教えを受けて、それを超えていけば、大空をも突き抜ける境地を目指すという覚悟の一語です。

出典

臨済録です。臨済が行脚している途中で、身を寄せた寺の住職に、臨済の有力な師匠にどんな教えを受けたかと聞かれたときに臨済から出てきた一語です。臨済は、「師匠の教えはすべて忘れてしまった。」といってこの語を添えています。この状況を理解できれば、この語の理解が容易になります。

近い言葉として

守破離(しゅはり)と似た言葉です。守破離は、師匠の教えを忠実にも受け継ぐ「守」、それ以外の流派、分野にも足を伸ばして身に着ける「破」、独自の一派を成し遂げる「離」で、この語は「守」に留まらず、「破」・「離」まで至ることを勧奨しています。

師匠の教え、伝統をどう捉えるか

禅では、教科書のような何か書いてある文字よりは、師匠の元で体験的に学ぶことを圧倒的に重視します。その上で、そうした「教え」よりも、自分の体験や感覚、体得をさらに重視します。

同じ大意の禅語

書いてある文字よりも体験的教育を重視することは、教外別伝、不立文字などの語に現されます。教外別伝とは、お経では本当のことを伝えられないという意味です。不立文字とは、言葉は役に立たないという意味です。

自分の感覚を重視する

人の教えよりも自分自身の体得を重視することは、乾屎橛、冷暖自知、自明灯などの語に現されます。乾屎橛とは、人の教えとはそれが仏さまであっても犬のクソのようなものという意味です。冷暖自知とは、例えば熱湯の熱さをどう聞かされても触れてみること以上の理解は得られないという意味です。自明灯とは、自分自身の光で世界を照らせと言っています。

安住の地に留まらない

一つのやり方、体系を得たとして、そこに固執せずに前に進むというのがこの語です。大空というこれ以上ないと思われる自由を手にいれてもなお、そこをも突き抜ける覚悟を示す言葉です。

実践する

禅語は具象的ですから、ここでは具体的に大空を取り上げています。ですから実際に大空を見上げながら、「青霄裏(せいしょうり)に(住)とどまらず」と言ってみましょう。そうして、今ある安泰をも顧みずに前に進むぞと自分自身に誓ってみましょう。

言葉として人に対して用いるならば、以下のような使い方になります

贈る言葉、決意の言葉として

不住青霄裏 学生生活の学びを糧として、しかしそれに安住せず、社会人として一から頑張りたい

意味からすると、弟子が師匠に、生徒が先生に伝える使い方が本来ではあります。

不住青霄裏 よく学んだが、道はどこまでも続く。さらに励め

しかし、逆に師匠が弟子に贈る言葉でも構いません。

不住青霄裏 前へ進むのみ

原典に立ち返るとある程度のことができるようになったときに、それを人に言われたことに応じて謙遜と覚悟を示す言葉として使うのもよいです。

まとめ

一つの場所に留まれば、仲間も増えますし、経済的にも富みますし、名誉を得られます。しかし、禅ではいわゆる乞食風情で一つの場所に留まらない雲水(うんすい)のような生き方をよしとするところがあります。大空を突き抜けるほどの力を得るには、得たものにこだわらない、むしろ捨てていくという禅宗らしい清々しさが、青空という暗喩とあいまって、見事に表現された禅語です。ぜひ真意を掴んで、実際に使う・実際にやってみることをしてみてください。