「殺人刀 活人剣」の意味:自分の振り回す刀に気づいているか

読み方

せつにんとう・かつにんけん

さつじんとう・かつじんけん

意味

人を殺す刀剣で、人を活かすこともできる。

禅における指導の戒めとされる。

禅道では禅のはたらきを刀剣に例えるため、禅そのものも人を活かしも殺しもするというようにも理解できる。

解説

ここでいう刀剣は、本当の刀剣でないことは明らかであり、指導や禅を刀剣とも、目に見えない小さなことを刀剣とも理解できます。

つまり、誰しもが人を活かしも殺しもする刀剣を持っているということです。

少しの配慮、声がけで、人は救われることがあるし、その逆もあるということです。

小さな力が、人を活かしも殺しもする

一人の人間の力は大したものではありませんが、一人の人間を励ましたりがっかりさせるには十分すぎる力を持っています。

それを自覚し、人を活かす方にその力を使う、そのようにありたいものです。

監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

編集部コラム「死の魅力」

白隠の掛物「死」。賛に「若し人是に徹すれば 真の大丈夫と名づく」。死に切れない人が多い。死なくして生がない。生を求めると、生が分からなくなる。生を求めるなら、反対側の死を求めていったほうが、逆に生がよく見えるしよく分かる。そしてよく生きれる。

でも別によく生きるために、死を臨むわけでもない。ただ、生きているのだから、死を臨むのがよいともいえるのだろうか。不思議なもので、死んでいる人に人は魅力を感じる。もう死に切ってしまっている人に。これは本当の死人のことを言っているわけではないが、もう俺は死んだようなもの、別に誰ともない、というような心持ちの人は肚が座っていて、人を惹きつけるということがよくある。大樹のごとく有象無象の動物、昆虫、植物を携えて悠々と静かに生きる。ふてくされたような、開き直ったような心持ちと違いないように思える。かくいう話の流れから、私は死んでしまおうと思っている。

白隠曰く、「若い衆や 死ぬがいやなら 今死にやれ 一たび死ねば もふ死なぬぞや」とも。