禅語「工夫」:トライアンドエラーを繰り返せ、失敗してもいい、試行錯誤を促す

工夫

意味

あれこれと解決方法を試してみること。試行錯誤のプロセス。

禅の考え方

工夫することは、禅ではよいことと考えます。答えのあるものはなく、最初からうまく行くことははなかなかないからです。

どうやればいいのか、手をこまねいているのでなく、何かやってみること、これを重要と考えます。

考えて、実際にやってみること、ここまで含めて工夫です。

考えているだけでは工夫ではない

どうするべきか考えて、実際試してみるまでやって工夫です。

考えているだけでは工夫ではありません。

考えすぎない

もう一度試してみる。工夫は重ねるもの

 一度考えてやってみても、おそらくうまくは行かないものです。

そこで一度目の工夫を踏まえて、もう一度考え直して再度やってみます。

このもう一度やること、さらに何度も試してみること、このプロセスを禅は重視します。

工夫するといいことがある

考えて実際にためしみることは苦しい作業ではなく、楽しいプロセスです。

頭を使って考えて、実際に身体を動かして試してみることは、まさに創作や創造の過程です。

何度も試してみることで、楽しさは倍増していきます。

継続できる、成果につながる

楽しい試行錯誤は繰り返すことも楽しいですから、継続します。継続は力なりで、成果につながります。

実際に解決すれば一番の成果ですし、解決しなくても試行錯誤のプロセスは大きなノウハウ、経験になります。

失敗の継続が成功をもたらす

失敗を恐れなくなる

何度も失敗して最後成功するというストーリーがよく描かれますが、これは苦労の過程⇒幸せという単純なレトリックが用いられているだけで、実際にはそうとは限りません。

楽しい過程⇒うまく行ったり行かなかったり、というのが現実で、多くの時間は最初の試行錯誤の時間にありますから、この時間が充実して楽しければ、事の成否はそれほど重要でなくなります。

苦労の過程⇒失敗という不幸な結果、というシナリオを恐れる必要がなくなります。

まとめ:早く失敗しよう

英語のビジネスシーンではFail fast(早く失敗せよ)という言葉があります。

どうせ一回でうまく行かないし、何度も失敗しなければならないので、それならさっさと早く失敗してしませというわけです。

そうでないと、うまく行かないかもしれないとあれこれ悩んで、何もやらない=失敗しないという状況になります。

Fail Fast

失敗によって学習ができますが、何もやらないと何も学びがありません。

何もやらないことは小さな失敗はせずに済みますが、何もやらない状態は、何度も失敗を繰り返している人と比べると、大きな差になり、大きな失敗を犯しているということになります。

監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

編集部コラム「実験精神」

”実験”という言葉を書いていて、エマーソンのことを思い出した。エマーソンの実験精神に富んだひとで、「」といっている。この実験精神の源泉は、自己信頼である。エマーソンは徹底的に自分を信頼する。「」なかなか強烈である。私は芳賀幸四郎の”主人公”に係る言説を触れたとき、エマーソンのことを思い出した。禅はなかなか世俗の話に行かない。日常性に乏しい。もちろん実際には日常の作務を大切にしろだとか、動中の静ということが言われるが、今一歩日常生活との対峙、社会問題との軋轢といったことに乏しい気がしている。しかし、自己信頼から実験精神が導かれるなら、主人公論から挑戦の意欲が導けないだろうか。およそ禅は意欲とか、そういうものを軽視するから、この試みは失敗するのかもしれないが、ここは一つ自分を信頼して、それに挑戦してみたいものだ。

エマーソンは19世紀後半のアメリカの哲学者、詩人だが、彼の影響を受けた一人がパースである。パースの思想はウイリアム・ジェームズのプラグマティズム論に引き継がれるかたちで一端を覗かせ、デューイに至って社会実践に至ったわけだが、豊穣の20世紀のアメリカの

思想的根底はおそらくこのパースの思想によるものと後世は物語るのではないかと思う。鬼のような哲学者というのは、パースのことでないかと思う。修羅そのものだ。彼の哲学上、論理学上の業績は計り知れないほど大きいので、一言では言えないが、一つにはアブダクションという仮説推論という方法である。これは決定的に創造的な推論、実験的志向を促す論理手法であり、米国のプラグマティズム、もっと具体的に言えば今日世界をけん引するアメリカのIT産業の基礎を支えるソフトウェアの開発手法であるリーンスタートアップ手法につながるものである。
論理とは一般的に2種類で、演繹と機能である。演繹は規則性から推論するから相当程度の正しさが得られる。帰納は事例の積み上げだから、演繹よりは強度が落ちるが、地道に積み重ねる強さがある。もちろん、法則性から導く演繹法には及ばない。しかし、ここでふと思う。それほど強い演繹法は何のためにあるのかと。規則性が分かっているなら、もはや自明であり、子どもでも機械でも導くことは容易である。機能はその点異なって、やや機械的に導かれない要素があるが、しかし事例の積み重ねである点、事務的でる。創造的ではない。

演繹
1、常に松は緑である。(規則)
2、あの木は松である。(事例)
3、ゆえに、あの木は緑である(結果)

→1の時点でわかってたじゃん、という話になる。

帰納

1、あの木は松である(事例)
2、あの木は緑である(結果)
3、ゆえに、松は常に緑である(規則)

→なかなか大胆な結論である。しかし、規則は私たちの生活に意味をなさない。当座、眼前が重要である。

仮説1、常に松は緑である。(規則)
2、あの木は緑である(結果)
3、ゆえに、あの木は松である(事例)

→少ない情報から、あの木が松かもしれないことが推察された。その仮説こそが、生きる上では大事になる。

仮説推論は、論理的強さに乏しい。隙がある。しかし、大胆な仮説であり、創造的である。現実に対峙する力を持つ。生きる勇気を与える論理手法である。

演繹

1、座禅は幸せになれる(規則)
2、私は座禅をする(事例)
3、ゆえに、私は幸せになれる(結果)

→1の時点でさっさと座れ!

帰納
1、私は座禅をする(事例)
2、私は幸せになれる(結果)
3、ゆえに、座禅は幸せになれる(規則)

→そんな一般論より、自分のことを考えてはどうか

仮説
1、座禅は幸せになれる(規則)
2、私は幸せになれる(結果)
3、ゆえに、私は座禅をする(事例)

仮設推論は、新鮮な生を与えてくれる。