「雲静日月正」の意味
困ったなら空を見上げよ。今日の幸せに気づけよ
(くもしずかにして、にちげつただし)
禅語「雲静日月正」(くもしずかにして にちげつただし)は、特別なことは何もない穏やかな日を味わう言葉です。
日・月となっていますので、昼間のイメージでも夜のイメージでも問題ありません。
太陽と穏やかな雲、月と穏やかな雲、いずれにしても単なるよくある風景に幸せを見出そうという禅語の典型の一つです。
読み方
「雲静日月正」は、「もしずかにして にちげつただし」と読みます。
禅語では音読みするものも多くありますが、この語は「うんせいにちげつせい」と漢語読みすることはほとんどありません。
出典
南宋末の禅僧、虚堂智愚の語録集『虚堂録』からです。
この詩自体が虚堂の作であるかどうかは定かでありません。
しかし、虚堂録という正統な書物に基づく言葉として、この語はよく使われています。
雲静日月正 (くもしずかにして にちげつただし)
雪晴天地春 (ゆきはれて てんちはるなり)
意味
詩句の意味はそのままに、
今年もいつもどおり春がやってきた!!
という意味です。
禅語としてこの「雲静日月正」を用いる場合は、意味が変わってきます。
禅語「雲静日月正」の意味
風がおだやかで、雲が静かに流れているさまというごくごく当たり前の風景に、“素晴らしさ”を見出します。
風は穏やかで、太陽の光を受けた草木は今日もわずかに成長を遂げている。
天変地異も異常気象もない。
同様に子供たちも順調に成長している。
家事や仕事も順調にこなすから、やった分だけははかどっている。
政治も何とかやっているし、社会全体として経済もまずまずよく動いている。
当たり前のことが起きているさまに、喜びと感動を感じるという視点が、禅では度々出てきます。
次節で紹介しますように、こういう想いを込めて使われる禅語がいくつもあります。
季節の句を超えて
このように、平時の幸せを楽しむ禅語のため、先の対句「雲静日月正 雪晴天地春」でも、より当たり前の日常風景である「雲静日月正」が取り上げられているようです。
「雪晴天地春」もめでたいですが、一年に一度の本当に晴々とした季節の句になってします。
禅語では比喩として季節や自然を用いるため、ただ季節や自然を愛でるというのとは違います。
近しい禅語
同様に、自然をみて感じて、幸せを実感するという禅語を紹介します。
山呼万歳声(やまよぶ ばんざいのこえ)
山が喜んでいるように思える瞬間とは。何でもない景色でも人によって見え方が違います。世界が楽しくなる禅語。
澗水松風悉説法(かんすいしょうふう ことごとくほうをとく)
水が松が法を説いている。五感を自然で洗い流そうという禅語。スマホ時間を減らしましょう。
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当たり前の日常を喜ぶコトバ
このように当たり前の日常に喜びを見出せたときに発する楽しい言葉が禅にはあります。
也太奇!(やたいき)です。
ぜひ、日常に幸せを発見して使ってみてください。
他にもあります!当たりまえを喜ぶ禅語
- 無事(ぶじ)
- 無事是貴人(ぶじこれきにん)
- 日々是好日(にちにちこれこうじつ)
- 安閑無事(あんかんぶじ)
- 好事不如無(こうじなきにしかず)
- 至道無難(しどうぶなん)
感謝と幸せの言葉
この語に出てくるモノは3つ、雲、日、月です。
空を見上げれば、いつでもあるものです。
ありふれた雲、日、月をみて、その静かさや正しい動きに喜びを感じられるなら、その人はほぼ毎日幸せでしょう。
困ったら、迷ったら、空を見上げればよいだけです。これほど簡単なことはありません。
当たり前の日常を喜ぶコトバ
逆に特殊なこと、特別なことに価値や喜びを見出すなら、幸せは時々しか訪れてくれません。
めでたい日が時々あるのか、毎日をめでたい日にするか、これは心の問題と言えます。
実際には空を見上げず、人に迷い、金を数え、不幸せに陥ってしまう人がいます。
どのように生きるのかは自分次第であると、徹底自力の宗教である禅はあなたに迫ります。
まとめ
ここまで、実に穏やかな言葉「雲静日月正」をみてきました。
愉快に過ごすか、悲しく過ごすか、同じ空をみても人それぞれです。
どうぞ、今日も良き日をお過ごしください。
引用・参考文献:
- 「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)
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- 「pixabay」
監修者:「日常実践の禅」編集部