「教外別伝」(きょうげべつでん)の意味:心を空っぽにして門を叩こう、食らいつこう。教科書を否定する禅語

きょうげべつでん、と読みます。

悟りは、言葉や文字で伝えることができない、という意味です。

不立文字と並んで使われることが多いです。

名門の違い

大切なことは、教科書や授業などで教えられていくとは限らないということは、悟りに限らずあり得ることかもしれません。名門と呼ばれるところや、名伯楽と呼ばれる人から多くの傑出した人物が現れたりしますが、そういうところに秘伝の書があるわけではなく、具体的にどのような違いがあるのか分かりませんが、物事への取り組み方や考え方など言語化できないレベルの基本的な部分に違いがあるのかもしれません。

門を叩け

いずれにしても、質問して回答を得ることや何かを読んで得ることの効力を限定的に捉えるのが、この教外別伝の考え方です。何かを得たいならば、そこに行ってみてやってみること、寝食を共にしてその集団と一体となって黙々とやっているうちに、大切なことを体得していくものだと考えるわけです。

まとめ : 考えずに食らいついていく

何かをやり遂げたいなら、どうこう考えずに、よいとされるところに行って、無心で取り組めという考え方です。いわゆる修行です。小理屈をいわずに言われるがままにやってみるのもよいものです。


監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。禅語解説の記事執筆やオンライン座禅会を開催しています。

コラム:禅のプロパガンダ

プロパガンダとは一般的に広報と訳されるが、広報の一般的な英訳はPublic Relationsで、今プロパガンダという言葉を使うひとは少ない。プロパガンダはpropagateが語源とされ、それは繁殖されることであり、広報的な意味での使われ方の端緒は、カトリック教会の布教政策とされている。このプロパガンダについて、禅のプロパガンダというテーマを設定した場合、それは成立するのだろうか。考えてみると、幾つかの困難にすぐに直面する。

一つは、禅のプロパガンダの基本方針が、不立文字・教外別伝であることである。不立文字とはすなわち、重要な教えは言葉にできず、教外別伝とは重要なことは教本に書き記すことができるようなものではなく、人から人へと伝えていくものである、と考えることである。プロパンガンダの初手は、何をどのように伝えるべきかということであり、この場合に伝えるべきことが"ない"ということになり、本やおそらく映像、音声などあらゆるメディアにおいてそれは不可能とするだろうから、まずもって布教は不能ということになってしまう。

では、いかにしてそれは継承されるのだろうか。それは修行によって体得することによって得られるということになり、特に禅の場合には座禅によってそれを得られるということになる。したがって、布教においてはそのものを伝えることはできないが、そのものを得る方法や場は提供できるということになる。

したがって、これをもって布教と呼んでよいのか、かなり微妙な様相であるが、布教とした場合でも消極的な布教ということになる。しかも、この人に伝えるという行為を是としていない部分があり、「識羞」という禅語があるように悟った者が人を導くのごときは差し出がましい恥ずかしいこと、という前提がある。お釈迦様にあっても恥ずかしながらやっている、ということである。よって、禅のプロパガンダという概念は相当程度成立しづらい。しかし、それは継承され続けている。ではなぜそれは継承され続けているのか。このことが禅のプロパガンダの研究事項になるだろう。

参考文献:「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)

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