禅語「黙雷」(もくらい)の意味:雷のように恐ろしい沈黙がある。沈黙ほど多弁なものはない。

今北洪川の黙雷という軸を拝見した。ネットで調べた限りだが、洪川には武田黙雷という弟子がいたようである。建仁寺の管長を務めている。しかし、黙雷はもう少し調べてみると、淵黙雷声(へんもくらいせい)とあってそこから来ているのだろうか。釈迦が弟子に問われて、沈黙のままだったが、それが雷のようだったと。語りの虚しさと、無言の激しさということであろうか。今北洪川もそうだったのだろうか。話してくれないと分からないという気もするし、我々の日常生活では少なくともそうである。あまり多くをしゃべるなともしつけられるが、自分が困っていることがあるならそれをしっかり伝えなさいとも教えられる。自分の考えを適切に伝えるアサーティブアクションも大事だよね、と。自己主張も是とする文化もある。しかし、ここではそうではなくて言葉で伝えられないものもあるということなのだろうか。それならばそれで分かるが、しかしそれならばそう言ってくれ、とも思う。自分で体得せよということが、雷のごとしだったのか、体得する内容が雷のごとしなのかもわからない。甚だ不親切、言葉足らずで、これが禅語の特徴ともいえなくない。或いは、皮肉を言えば、この言葉足らずさが雷のごとしなのだろうか。しかし、どうあれこういう沈黙をよしとする文化は珍しいのではないだろうか。その沈黙に雷を聞くなど。ソクラテスは弁明している。よく話をしている。参禅文化も弁証法的で言葉に頼っているところがあると思うが、そこへきて不立文字とくるから混乱である。

 

もっと素朴に押し黙った人に畏敬を感じ、そのさまにけたたましい音を感じるとか、涼しい顔で黙った人に壮絶な内面を感じるといった風にも読めるか。この場合、ただ怒りを押し殺しているとなってはつまらない。しかし、普通に読めばそうなる気もする。仮にまったくの沈黙に、壮大な奥深さを感じるということであれば、雷でははくもっと別の語があったのではないだろうか。雷より壮大な山とか海でもよい気もするが、そうすると音が聞こえてこない。風も音があるが、しかし雷ほどはっきりした音ではない。寺の鐘の音でもよいが、凄まじい雷雨の迫力はない。そのような消去法で雷が消極的に選択されたのではないだろうか。要するに沈黙に宇宙の深遠さそのすべてを感じるということだろうか。しかし、それができたなら問うた人もずいぶんと達した人ということになる気がする。といすると、雷を聞いたのは誰だろうか。高弟たちだろうか。聞いた人には親切に教えてあげずその雷も聞こえず、弟子はその意を察してそれを聞いたということだろうか。ずいぶんと無慈悲で味のない話になってしまう。

 

であれば、雷は本人が聞いていたというのはどうだろうか。あれこれと問う人の声に、雷雨を感じていた。聞く方は必死である。嵐のなかにあるような、嵐そのものであるような大変な状況である。その人に凄まじい自然現象を感じ、過ぎ去ってくれと思ったわけではあるまいが、これを受け止めて何とかしようと押し黙ってその雷を聞いていた。ある問いに応えるのは、雷雨を受けとめ格闘するがごとし難儀であると。これとは全く別に、言葉はむなしいからとにかく修行しろ・行動しろと取る人や、部下の管理には沈黙をよろしく使え、と取る人もあるようである。しかし、ここではむしろ、お前自身雷雨のごとく生きているぞと、それは静かに受け止められているぞと呼んだ方が深く面白みがあるように思う。ご意見を賜りたい。