無礙(むげ)の意味:さまたげるものがない状態を示す禅語。自分自身を不自由にしているものとは何か

禅語「無礙」とは

難解な禅語、「無礙」(むげ)を考えてみたいと思います。そっけなく扱うことの意味で「ムゲにする」といいますが、この場合の漢字は「無下」でまったく意味が異なります。「礙」が見慣れない漢字なだけに、直感的に理解しづらいところが無礙の難解さの所以です。では、まず「礙」の意味から探っていきましょう。

「礙」=さまたげるもの

無礙の礙という字はあまり使わない漢字ですが、「さまたげるもの」という意味です。無碍と書く場合もありますが碍も同じ意味で、いずれの場合も「さまたげるものがない、自由自在」という意味になります。

この自由自在の境地は禅の目指す理想の状態の一つですが、これはもちろん、やりたい放題で人に迷惑かけ放題ということではありません。自分自身を不自由にしているものから解放されている状態で、その不自由にしているものは何かということ、すなわち無礙の”礙”の部分がポイントになります。

何にさまたげられていると仏教は考えるのか

  • こうしなければならないという常識や因習
  • 失敗したらどうしようという恐れ
  • 人に何か言われるのではないかという躊躇
  • こうしておけばよかったというような後悔

上記のように自分の考えや行動を束縛するものに人は捕らわれがちです。このような状態では「無礙」とはいえません。しかし、では伸び伸びと自由気ままにやっている状態がよいのかというと、それはそれで、何かに捕らわれている可能性があります。それはどのようなものでしょうか。

さまたげているものは、自分

自分を不自由にしているのは自分

先ほどとは反対に、一見ポジティブにみえる思考にも「さまたげるもの」がいろいろあります。何かに怯えることも何かに希望も見出すことも、ある種さまたげられている状態ということになります。

  • こうなったら、自分は得をするだろう/楽をできるだろうという打算的思考
  • こういうふうに人から思われたいと願う自己愛
  •  あの人のようになりたいという羨望
  • 遠い未来に理想が叶うというような現実を軽視した妄想

いずれの場合も結局のところ、さまたげているものの根源は、”自分のこころ”にあると考えるのが仏教の基本的思想です。「自分の自由をさまたげているものは自分である」という事実に徹底的に向き合い、”自力”での解決を目指すのが禅のアプローチです。自分の問題解決に、「人は関係ない」ということに気づき、受け入れられただけでも、随分と心の平静は得られます。

高度に思索的な「無礙」は具象化できるか

精神論、自己啓発論としては以上の検討でいいのですが、日常実践を志す我々としてはもう一歩前にその検討を進めたいものです。ここでは、一枚の芸術作品をヒントに「無礙」の具体的実践を目指したいと思います。

無礙の状態を表現する

明治の大美術家である岡倉天心は、ある時その高弟である横山大観に「無我」を描けと命じます。岡倉天心は「茶の本」や「アジアは一なり」の言葉で有名な東洋思想家であり、世界的な芸術論者であり、美術指導者です。

無我は無礙とは違いますが、我々は先に、礙(さまたげるもの)が自分自身の心にあることを確認しました。つまり、私心のない状態であり、無心と無我とも言い換えることができると思います。では、明治を代表する芸術家である横山大観は「無我」をどのように表現したのでしょうか。

こんなさまでは、天心も大観も納得しない

悟り臭きは悟りにあらず

普通に考えれば、悟りの境地にあるといわんばかりのお釈迦様を描きたくなるものです。しかし、それではまだまだ捕らわれていると大観は考えました。本当に捕らわれれいないとはどういうことか、不安がなく、打算がなく、後悔もなく、希望もない姿です。いかにも悟り切った表情というのは、この二人にはまだまだ悟りの境地と言えなかったのでしょう。禅では「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」といって、悟っている風の態度を嫌いますが、この徹底追及の二人は、いわゆる”風”に留まらない境地をひたすらに目指します。

衝撃的ともいえる、辿りついた無礙の姿

大観の傑作「無我」の意味とは

衝撃の一枚です。立派なお釈迦様でも修行を積まれたお坊さんでもなく、ただ童子(子ども)が突っ立っている姿を持って無我である、と大観は描きました。髪は誰かに結ってもらったのか、しかしぼさぼさですが気にするふうでもありません。むろん、どう見られたいとも思っていないからです。着物も同様に随分大きいものを着さされて引きづって歩いていますが、別に裾が汚れてしまうといった懸念もありません。誰かに構ってもらいたいという風でもなく、ただ何かを見つめているようです。ぼんやりと見つめていて、関心をもって見入っているというわけでもありません。

無礙とも無我とも考えず、悟りたいとか悟っているということもなくただ立っている童子に、その境地を見出した大観の傑作です。

子どもというごく短かな存在にそれを見出したところに大観の洞察の鋭さがあります。高尚な聖職者である必要はなく、無礙は少なくとも子供のころには実現できていたという視点は痛快であり、強烈です。しかし実際にはこの考え方は禅の大切にする”本来”そのものであり、その”本来”は自分のなかに宿っているという禅の基本思想を見事に表現しています。「この身すなわち仏なり」が禅宗の基本であり最終地点ですが、この基本かつ最重要原則から、人は年を重ねるごとに離れていってしまいがちであるということです。知識や経験によって賢くなっていくわけですが、むしろそれが”さまたげるもの”になってしまうという気づきをこの絵は教えてくれます。

芸術の奥深さを大観は教えてくれますし、その精神性や思想性の厚みや深みを感じます。岡倉天心という稀代の芸術思想家の期待に十全に応えた大観。素晴らしい師弟合作の作品とも言えます。

茶道で用いるならば

茶掛けのお軸として用いるならば

見てきたように「無礙」は非常に抽象度が高く思索的な言葉であるため、茶掛けとしてして用いるにはそれなりの度量が必要です。はっきり言って、不向きな禅語といえます。しかし主客で「無礙」に向き合える席が持てたなら、この上ない茶席と言えるでしょう。

すこし理解しやすく、本質を薄める意味合いにはなりますが、「自由自在、気兼ねなくやりたいのでご批評無用」との意味合いで用いてもよいかと思います。茶道の経験のないお客さまをまねいて「本日は無礙。点前作法を気にしないので、自由にのびのび楽しんでください。」との言葉を添えて用いてもよいかと思います。もちろん含意としては「そのように何も知らずに子供のようにやることが、本来・そして究極に私たちが目指すところだ」ということになります。

ご銘・揮ごうとして用いるならば

ご銘・揮ごうとしても難解な禅語は不向きと考えますが、「何の恐れもいらないが、同時に何の打算も持たずに無心でやれよ」と励ます一語として用いてもよいかと思います。逆にその高度な哲学性を鑑みて、思想や哲学を好む人との関係性のなかで、この語を用いてもよいかと思います。

季節を考える

上記のように「無礙」に季節性はありません。無は冬を連想させますか、冬に用いても構いませんが、大観の絵をヒントに考えると、誕生や子供の時分ということで、立春や春先の季節がよいかと思います。何も知らずに飛び込んでいく入学・入社のシーズンや、入門に際して「その初々しい初心こそ本来」「初心忘るべからず」の一念を込めて用いるのもよいでしょう。

日常実践の無礙

「無礙」の日常実践は色々考えられそうですが、含意の抽象度が高いため、ついつい精神論になってしまいます。

  • 常識にとらわれるな!
  • 失敗を恐れるな!
  • 世間の評判を気にするな!
  • いつまでもくよくよ後悔するな!
  • 打算で物事を考えるな!
  • 自己中心的に考えるな!
  •  他人をうらやましいと思うな!

こういうことではなくて、具体的に何をするかを考えるのが日常実践の禅です。「無礙」をどのように体現するのか、ここでは3つの方法を考えてみたいと思います。

ぼーとする

「無礙」の境地は、ぼーっと突っ立ている子どものような境地でした。であれば、それを実践するまでです。何も考えずに、ぼーっとしてみましょう。「ぼーっとする」ことは、大人の世界では”やってはならないこと”に分類されるものですが、そのようなことを忘れて思いっきり、ぼーっとしてみましょう。 

 

 

 

 

「ぼーっとしている」姿というのも結構カッコいいものだと思います。一人、落ち込むとも景色を眺めるともなく、ただぼーっとしてみてください。最高の「無礙」の実践です。逆に「無礙」を実践している人がいたら(ぼーっとしている人がいたら)、ぜひそのままそっとしておいてあげるようにしましょう。

動物たちもぼーっとしている

 

 

 

 

 

山川草木悉皆成仏といって、仏教は人間だけでなく、山も川も草木も仏さま(あるべき姿)だと考えます。いわずもがな動物たちも同様です。つまり、人間だけを特別扱いしないというところに仏教の特長があります。上の写真のようにみてると動物たちも時にボーっとしていたりしますよね。退屈なのではなくとても幸せな時間、無礙の時間なのかもしれません。人間の場合と同様、見かけたら放っておいてあげましょう。

座禅:目的はない、これ自体が目的

ボーとする状態とある種同じことが、座禅の状態です。何もしないでただ座ります。岡倉天心や横山大観からすると、今一歩ということになってしまうかもしれませんが、一つの「無礙」の状態のあり方だとは思います。

恐怖がない:笑顔

大観の無我の境地からすると、屈託の笑顔は今一歩至っていないということにはなるかと思いますが、まったく無条件の笑顔というのには、まずまず及第点がもらえるのではないでしょうか。

まとめにかえて

無礙の境地は、大観の絵から「ぼんやりすること」や「ぼーっとすること」に近いのではないかと推察し、その実践を考えてみました。こういう休憩時間(アイドルタイム)は機械の連続運転でも人間の連続労働でも必要ですよね。自分が自分をやっていくうえでも、車が走り続けると壊れてしまうので時々休憩させてあげるように、自分をぼーっと休ませることに意味があるのかもしれません。

天心も大観も、無礙それ自体を宗教哲学上の理想のあり方があると考えてそれを追求しましたが、ぼーっとする時間には爆発的な活動力のための休憩という点で意義を見出す、プラグマティックな意味の導出でもよいと思いますし、その方が生活実践という点で実践に移しやすいことと思います。あなたなりの「無礙」を実践し、その方法をぜひ共有してください。

無礙の時間
無礙の境地は水面のように無限の深みを持つ