無着(むじゃく)


着は執着、すなわち執着するなと。勿嫌底法(嫌う底の法なし)である。茶道にあっては、"お好み"の世界である。道具への"こだわり"、一味違うといったことに面白さを感じる文化という側面もある。お好みは、設計と訳すべきとの藤森氏の指摘は妥当だと思うので、好みといってしまうと好き好んだといった風に捉えられて誤解を生みかねない。お好みといった場合には好んでいるのではなく、設計をしているのである。話は脱線したが、いちいちこだわったようなお茶はよくないということになる。道具はいつも有り合わせにせよ、ということである。なければ、見立て、もどき、やつしで対応しろと。日常実践にして生活芸術である茶道にあっては、生活のなかでいちいちこだわって立ち止まってはいられない。どうでもよいのだと。しかしそうでありながら、その有り合わせをお道具拝見と、いちいち見られていちいち聞かれたのではたまらない。無着の一言で吹き飛ばしたい作法である。まあその辺りも執着するところがあるがゆえの愚痴ということだろうが。己が愚痴の闇路なりか。唯一子だ有るべきと主張できそうな清潔さ、掃除についてもやり過ぎはよからず、ということどうやらなりそうである。過ぎたるは及ばざるがごとしと。着は執着、すなわち執着するなと。勿嫌底法(嫌う底の法なし)である。茶道にあっては、"お好み"の世界である。道具への"こだわり"、一味違うといったことに面白さを感じる文化という側面もある。お好みは、設計と訳すべきとの藤森氏の指摘は妥当だと思うので、好みといってしまうと好き好んだといった風に捉えられて誤解を生みかねない。お好みといった場合には好んでいるのではなく、設計をしているのである。話は脱線したが、いちいちこだわったようなお茶はよくないということになる。道具はいつも有り合わせにせよ、ということである。なければ、見立て、もどき、やつしで対応しろと。日常実践にして生活芸術である茶道にあっては、生活のなかでいちいちこだわって立ち止まってはいられない。どうでもよいのだと。しかしそうでありながら、その有り合わせをお道具拝見と、いちいち見られていちいち聞かれたのではたまらない。無着の一言で吹き飛ばしたい作法である。まあその辺りも執着するところがあるがゆえの愚痴ということだろうが。己が愚痴の闇路なりか。唯一子だ有るべきと主張できそうな清潔さ、掃除についてもやり過ぎはよからず、ということどうやらなりそうである。過ぎたるは及ばざるがごとしと。