「当処すなわち蓮華国」の意味:極楽浄土はあなたが今いるその場所である

当処(とうしょ)すなわち蓮華国(れんげこく)と読みます。今自分がいる場所が理想の地であり、極楽であるという意味の言葉です。この言葉が言いたい本質的な意味を考えていきましょう。

この言葉が言いたいこと

どこか遠い国に理想があるわけではなく、将来に理想が実現するわけでもなく、今自分がいる場所が極楽(天国)であると悟りましょうという含意があります。

この言葉が突きつける現実

今自分がいる場所は、理不尽や欺瞞、ストレスがいろいろあるかもしれないけれど、それは遠い国に行っても、将来になっても、変わらずそれは有り続けるという現実にこの言葉は立脚しています。

どうすればよいのか

現状を打開するために環境を変えることも、将来に期待することもできないなら、どうすればよいのでしょうか。今、ここが蓮華国(理想の地)だと言っていますが、とてもそうは思えないかもしれません。

禅の教え

禅は、どうしようなどと慌てず、静かに呼吸を整えろと教えます。深呼吸しながら、「どこに行ってもいつになってもどうにもならない。今の環境に極楽を見出そう」と考えます。

感謝すること

小さな感謝を積み重ねます。感謝するには、まずそのことで自分が助かっていて幸せであることに気付かなければなりません。つまり、感謝するにはまず自分が幸せだと認識しなければなりません

正しい理解こそ感謝

英語では感謝をappliciationと言いますが、他の意味として理解や認識という意味があります。ニュアンスとしては完全な理解、真価を見極めるという意味です。つまり、英語では感謝することと、理解することは同義だということです。周囲に感謝するということは、周囲を正しく認識するということになります。

感謝には先だって自分が幸せだと考えなければならないと言いましたが、それは無理やり幸せだと自分を思い込ませるということではないということです。感謝ができているとうことは、正しい認識で周囲を評価・理解できているということになります。

具体的な実践方法

まずは合掌、何かに感謝してみる

禅は肉体的な具体的行動を示唆します。まず手を合わせてみましょう。「このおかげで生きている」「ありがたい」と思えるものに手を合わせてみましょう。毎日の食事、ご先祖さま、何でも構いません。

次に唱えてみる「当処すなわち蓮華国」

感謝がいっぱいになってきたら「当処すなわち蓮華国」と唱えてみましょう。実際にそう思えてくるはずです。感謝が多ければ、自分の幸福がどんどん増していきます。

まとめ

いかがでしょうか。「ここが極楽だ」という単純な言葉でしたが、これは仏教の根本原理にあたり、実践は意外と難しいものですが、禅は実際にどうすればよいかを指し示してくれています。手を合わせて、感謝するということです。この語の対句は「この身すなわち仏なり」です。このように見てくると、よく理解できる対句かと思います。ぜひ実践してみてください。

監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。禅語解説の記事執筆やオンライン座禅会を開催しています。

コラム:日常における神聖性とは

臨済宗妙心寺派の檀家としての私にとって、私の一つの不満は、寺が遠いことであった。特に座禅会があるわけでもなく、法事の時の住職の話は仏教でも禅でもないような、それらしい道徳のような話で、白隠禅師座禅和讃を読むにつけ、その解説があるわけでもない。キリスト教における日曜のミサや、イスラム教の一日5回の礼拝、厳しいユダヤ教の戒律とそれを守る人々、といった生活のなかの宗教性が、残念ながら私の周辺で仏教にそれを見出すことはできなかった。(もちろんまったくないわけではないが、遠かった)

生活のなかの宗教というよりも、さらに踏み込んでいえば、生活実践としての宗教という側面が、その宗教の存在や伝播には欠かせない要素である。今日の我が国の仏教に携わる人々を批判する意図はない。長期的にみれば、豊穣の江戸時代を経て、明治以降から今日に至るまで我が国の仏教は受難の時代である。いつか潮目は変わるだろうが、現状は厳しい。政府が露骨に弾圧し、特定の信条を手厚く奉った戦前は置くとして、戦後は他の宗教が特段の優遇されているといった傾向はないものの、キリスト教の伸張が戦後起きていることは確かだ。しかし、それよりも重大な全体としての傾向は、著しい世俗化である。世界価値観調査という各国の価値観を比較検討する目的で実施されているアンケート調査があるが、これによれば、日本の世俗化の程度は世界でも随一である。世俗化とは逆に、つまり神的要素というのは、我が国には他国と比較すれば極端に少ないのである。こうした観点から考えれば、現状の仏教に弥縫的対応を求めても何にもならないことは明らかである。

日常に宗教があることはいけないことだろうか。在家に神聖性を認めるのは難しいのだろうか。維摩経という非常に魅力的な物語がある。維摩は在家の仏教徒で力のある釈尊の弟子だったとされている。呪文的お経でない同著は、人間くさく、愛嬌があって面白い。そして在家の進達の可能性を大いに示している点が素晴らしいと思う。私は職業人であり、出家の意思はない。(出家僧が十分に素晴らしいことを語らないこともこの意思には関係しているかもしれない。)いずれにしても専門家が素晴らしく、非専門家が素晴らしくないという短絡的な考え方はおよそ間違っている。まず、専門家は常に開かれて、非専門家とコミュニケーションしてその知識や技術を共有していくべき存在であり、専門家はまた非専門家のニーズやインサイトをよくよく把握して対話していくことが重要だ。そうでなければ、専門家は狭い世界に閉じこもり、社会の辺境に安住することにある。これは民主主義の考え方そのものともいえる。政治を政治(専門)家にまかせた禍を我々人類は長年に渡って多数経験し、むしろ非専門家、この場合住民の参画が重要であるとの見識に至っている。

裁判員制度なども同様の文脈で捉えることができる。専門裁判員によるインナーサークルを意識した判決と、素朴な感性で裁判に対峙する裁判員では、例えばその刑期の長さに違いが出ることがよく知られている。(裁判員制度の方が刑期は長い判決を下す傾向にある)専門家は、専門家の目を気にして、前例や慣行を重視して、閉じたサイクルのスパイラルに至ってしまうことがあるのだ。原子力発電政策における原子力村の存在も同じである。特定少数の官僚、企業、研究者からなるサークルが定めた良識は、サークル外からみれば良識的ではなかった。そうむしろ、在家の日常感覚や日常生活、日常実践に貴さがないだろうか。

参考文献:「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)

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