「洗心」(せんしん)とは:心の汚れとは何か、心を洗う作業とは何かを考える

せんしん、心を洗う。

とてもいい言葉の響きがありますが、ただの言葉で終わってしまってはもったいないです。逆に心の汚れとは何かを考えたり、どうやって洗うのかを考えることで実践に繋げます。

心の汚れとは

感情のことか

どういう心を洗わなければならないのか、怒っていたり、落胆していたり、というような感情的なものが心の汚れの1つかもしれません。しかし、汚れとは積み重なってどんどん汚れがひどくなっていくという意味で、感情は一過性のものですから、少し違うかもしれません。

知識のことか

絶学や不立文字、冷暖自知というように、知識そのものを否定する向きが禅にはあります。知識は蓄積していきますから、この点、心の汚れとして知識を考えるのはよさそうです。しかし、洗心をアンラーニングと同義でとらえることには若干違和感を覚えます。

慢心のことか

独善的な態度というのは時に増長していきますし、心の問題として捉えられているので、これは直感的にピンときます。一方で禅は自信の宗教ですから、この折り合いが実践においては難しい点になります。

どうやって洗うのか

感情という心の汚れ

静かに座禅をするのが答えとしては簡単です。何れにしても感情はすぐに落ち着くものですが、座禅をしたり、何かに集中していれば、怒りや悲しみは一層早く和らぎます。

知識という心の汚れ

これはアンラーニングするしかなく、常にこれまでに得た知識や物事の考え方を疑い、減らしていって再構築するという精神作業が必要になります。

慢心という心の汚れ

自分の小ささに気づく必要があります。これは人に感謝することで、自分が人のおかげで成り立っていることを理解することができます。日々、ありがとうございますと、人に会うたびに心がけたいものです。感謝の言葉を口にする、感謝の想いを手紙に綴るといった具体策が考えられます。

もっと具体的に洗う

掃除をします。掃除に集中すれば、高ぶった感情が静まります。自分の机や部屋、家は、自分の心そのものです。片付いている机は、自分の心が片付いている証拠です。過去の思い出、知識(書籍)、名誉も整理してしまえば、部屋も心も片付きます。減らしていくほど増えていく、ないことの豊かさというのは、禅の基底を成す考え方です。

参考:「捨て活」実践記

まとめ

清潔な心でいれば、謙虚で穏やかに人に接することができ、キレイに片付いた生活空間で暮らすことができるというのが「洗心」でした。そこからの逆算で、キレイや部屋や冷静な態度を実現することで、心を洗っていけるとよいですね。