「赤洒々」(しゃくしゃしゃ)の意味:ありのままの姿を大切にする禅語

禅語「赤洒々」の意味と使い方、そして実践について解説していきます。

読み方と意味

赤洒々は、しゃくしゃしゃと読みます。漢字を分かいすると意味が分かります。

まじりけがない。ありのまま。

水をかけてきれいに洗う。そそぐ。すすぐ。あらう。

ということで、赤洒々はそのままの姿で穢れのない様子を意味します。自分のことをよく見せようと飾り立てたり、うそ・偽りがあったりということがなく、そのままの姿で人に誠実で心地よい印象を与えるような理想の状態を意味します。

出典は

出典は碧巌録という禅宗のテキストからです。「浄躶々(じょうらら)、赤洒々として」と続く部分で、浄躶々もきれいでさっぱりとした様子を表しているので、韻を踏みながら同じような意味合いの熟語で意にが強調されています。

ありのままであること

純粋で素直な様子、駆け引きのない素朴さを禅は好みます。逆に虚飾を嫌います。シンプルなデザインがZENの特長として語られることがありますが、その哲学というのはこういう禅の根源的な価値観に基づいています。

虚飾の人たち

直接的なイメージですが、2つの写真群を見比べてみましょう。禅の考える豊かさとは精神的なものであり、経済的なものではありません。むしろモノに溢れ心が散逸している状態は貧しいと考え、わずかなモノに足るを知ることに豊かさを見出します。


嘉慶帝




エリザベス1世




エドワード7世




持統天皇

 

ありのままの人たち

仏教に限らず、哲学者・宗教者は、裸一貫で泰然自若としていたり、飄々としている姿で描かれることが多く、精神世界の豊かさに重きを置く、彼らの価値感を表出させる絵やエピソード、ひいては人物像が浮かび上がってきます。


仏陀




アリストテレス




布袋




ディオゲネス

 

この衣服にフォーカスする視点の禅語としては、「破襴衫裏盛清風」があります。身なりという外見を気にしないというのが禅の基本です。

実践してみよう

禅では、無位の真人、本来の面目(真実の自己)といった言葉で、自分そのものが仏であり、そのまま仏性を表すこととができると考えます。しかし、これでは議論が抽象的すぎで実践に移せません。自分そのものが仏であること、誠実であることを体現するという点に着目して幾つか対比する写真をみてみましょう。

誠実そうにみえるのはどちらですか

肚が座っているようにみえるのはどちらですか

心の安定を感じるのはどちらですか

真摯さを感じるのはどちらですか

虚飾(服)捨て、身体に意識を向ける

自分自身が仏であることに気付くことが、仏教の悟りの根幹です。これを読んでいる人は、自分が仏であることを知ってしまったわけですから、次はその実践です。身を飾り立てることを止めると、自分の身体、そして精神に意識が向けられていくはずです。自分の生が充実してくる瞬間です。ぜひ、その瞬間を仏らしい姿をご自身で体現してみてください。