「且座喫茶」(しゃざきっさ)の意味:人生の理不尽、恥、義憤、悲しみ。すべて静かに飲み干し味わおうという禅語

「しゃざきっさ」と読みます。

意味は「ひとまず座ってお茶をお上がり」です。

何を言いたいのか

禅は、言葉を軽視するので、禅問答は実に短い言葉のやり取りです。しかし、その禅問答もやり取りが続くと長くなります。そういう時の一言がこれです。

“おしゃべりは止めて、やることをやろう”

何も言わずに、ただお茶を飲むことに集中すること。我々は何をするにつけても、色々と理由・理屈をつけたり、時に不平・不満を言ったりします。人と議論をしたり、やらない言い訳を考えたり、どうでもいい理屈が溢れてきてしまうことがあります。

心に響く禅語

お茶を出されたら、ただ静かに味わって美味しくいただくだけです。お茶の由来も、茶碗の由来も、身分も関係なく、ただお茶を飲むことだけが本質です。ただそれだけをやればよいのに、言葉や理屈がついついついてきます。 

且座喫茶はこれらの小理屈を停止して、本質のみを静かに行うことへの集中を促す言葉です。

ただ〇〇するだけ

ただ○○するだけなのに、人の視線を気にしたり、世間体を気にしたり、自分の損得を気にしたり、他のことを考えたり、人はわざわざ面倒で間違った、うるさい世界を自分で作ってしまいます。

朝5時に起きるなら、朝5時に起きるだけです。起きる理由も、今日の体調も、天気も気分も関係なく、ただ起きればよいのですが、それができません。 人にあったら、快活に挨拶をし、朝ご飯をこしらえて、ただ食べるだけです。そういう一日を過ごしたいものです。

実践しよう!つまり小理屈を言うな

つまり、且座喫茶というのは、余計なことを考えるな、話すなという意味です。世間話も小理屈も一切やめて、静かにやることをやれと言っています.

ただそれだけをする、ただそのものを見ることは簡単ではなく、勇気が必要です。現実を直視し、それを静かに受け入れる必要があります。 

思考実験:静かな茶室にて

厳かな茶室で、複雑な作法でお茶を出されたらどうでしょうか。「点前・作法を知らないので、、」と言い訳のようなことを言わないこと、言わないまでもおどおどしないで出されたお茶を楽しく美味しくいただけるか、度量が必要です。

自分が作法を知らないこと、相手に失礼にならないか、人にどう思われるだろうか、そういうことを考えずに、「ただお茶をいただこう」と開き直る勇気と、確固たる自信がないとお茶を味わえません。

現実を飲み干そう

人間は生きていれば、受け入れづらい現実や不合理に常に直面します。「何でこんな厳かな茶室でお茶を出されるのか」、準備できていない、恥をかいてしまうというような事態です。実際には納得いかない仕事を引き受けることになったり、人間関係の不義理に腹が立ったり、突然の最愛の人の死に直面したりと色々あります。

納得いかない仕事に愚痴を言ったり、理不尽なことを言う人と口論したり、死別に直面して気がめいって鬱になってしまったり、というのは且座喫茶の態度・心持ちではありません。ただ仕事をするのみ、人間関係は友好的に済ますのみ、死別においてはただ弔いのみです。

まとめ

どうせやるなら、ごちゃごちゃ言わずにやることをやれ、楽しんでやれという激励が且座喫茶の意味です。納得いかない、決まりが悪い、なんで自分ばっかり、などと思わずに、そういう目の前のお茶(人生のいろいろな出来事)を飲み込んで味わえばよいという禅語です。

美味しく静かに味わって、うるさくしゃべり立てるなという大人の態度を勧奨しています。「自分は言い訳をしない。ただやることを静かにやろう」と決心できればよいですし、そういう決心が心にある人の生き方は、涼しげで魅力あるふうで、禅者そのものと言えます。


監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

編集部コラム「茶道の心得」

茶道は、死の覚悟を持って臨むのがよいと以前に述べた。では具体的にどのようにそれをするのか。今日にあって、そのような覚悟で臨む場合、相手の死を想定することは不謹慎だろうから、自分の死を想定すのがよいだろう。今日にも死ぬ覚悟である。実際に死ぬ可能性がある人は少ないだろうが、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なりの精神で日々を生きている方には難しくない作業だろう。これができれば、いかに亭主として人をもてなすとしても、茶道に明るくない人が客に回るとしても点前・作法に終始せずに臨むことができる。今日夕に死ぬ私にとって、点前・作法は尊重しつつも最重要なことではないから。また、他人の点前・作法をどうこう言うことも、気にする人もいなくなるだろう。なぜなら私は今晩を待たずに死ぬのだから。

点前・作法を知らずに茶席に入るのは怖いかもしれないが、いかなる達人も流派が異なれば初心者であり、ここにオールマイティの神は存在しないのであり、しかし我々は詰まらないことを気にせずに茶席三昧の境地に在りたいものである。しからば、死ぬしかないのであり、死ねたならある程度のどうしようは払しょくされるだろう。今日死ぬあなたは、極力の清潔さを心がけることになるだろう。衣服は、いつもながらの平服でもよいだろうし、しかし少し特別なものを着てその時に臨む人が多いだろう。その人の心持でよいのだ。特別なものであっても、茶室の全精神がそれに集中するようなものは避けるだろう。もちろん、衣服に特別な思いを持って生きてきた人は別だ。正解はない。最後の茶席で、服の話をする人は少ないだろう。むしろ、対峙するその人のど真ん中に全霊を集中するだろう。最も精神的な和みや、敬意はこのような覚悟によってはじめて起こるだろう。このとき、点前・作法のうんぬんを言う人は、衣服の話をするのことと同じくらい現れないだろう。最後の一服を思い出して、お点前が滞りなく正しかった、とはならないだろう。そんなことはどうでもよいのだ。

死の覚悟があったとき、人は大切な人とお茶を飲むくらいのことしかやることがない気もしている。なぜなら茶道は生活芸術だから、特別な場であると同時に日常的な平素の場であるから、人生の特殊たる死とまともに対峙し平静を保てる人は、平時の出来事のうちに親しい人と時間を過ごしたいのである。特別な旅に出るとか、一緒にゴルフをして遊ぶとか、派手な宴会を行うとか選択肢は数限りないが、特に何ともなくお茶を一緒に飲むというのがよさそうである。ただ、向き合って話をするというのも意外とつらい。特に話すこともないからだ。互いに万感溢れつつも、そのうちの一つを取り出して話すことはしたくないし、むしろ静かにお茶でも飲むことの方が、その万感のすべてに浸れるというわけだ。日常作業といっても一緒に掃除、洗濯するのもおかしいし、散歩というのも少しつらい。向き合って話すほどでもないが、やはり会話が必要になる。

ということでこのような心持で臨みながらも、流派の作法や服装のいちいち、道具のうんぬんを言ってくる人がいたら、静かにやり過ごすのみである。死ねていない不達者が、餓鬼のごとく朦朧と叫び歩いているのだから、触らぬ神に祟りなしである。道具の話があっても悪くはないだろうが、どうだろうか。自らの最期に道具の話をしたいだろうか。或いは親しい人の最期にあって。そんな世間話がかえってよいということはあるかもしれない。ただ、ここにきてなぜ墨蹟が第一とされるのか、が明確になるのであろう。どこぞの誰が作った茶碗か、だれが削り出した茶杓は、もはやこの覚悟が全ての塵芥のごとき雑念を洗い流してくれるから、きっとどうでもよくなってしまうだろう。墨蹟の書き手もおよそ洗い流されることになるだろうが、最後墨蹟のその一語、その含意は互いの心に残るかもしれない。それでも互いの親交以上のものなるとはなかなか思えないが、互いが仏道を熱心に歩む人たちであったなら、その墨蹟の意を互いに味わい、その墨蹟が互いの精神世界を橋渡して最期にして一層通じ合った親交が実現することだろう。行く人が見送る人の仏道を後押しするのだ。

そしてそれは多くの場合、どちらが行く人で見送る人かが分からない状態だから、一層綯い交ぜの親交となり、複雑にして高次の出来事ながら、それが大変に静かななかで起きるという美しさとなるのである。例えば、百花為誰開(百花誰がために開く)とあったなら、何とも味わい深い最期である。とくに言葉は要らないだろう。服や点前の話にはならないだろう。もちろん、服は枯淡で点前はまったく滞るところなく円滑で美しいほうが、最期の儀式を司る神官としてはふさわしいだろう。円滑ながらも点前に終始する主人ならば、これは台無しである。それならば、不作法ながらも、それに臆面も呈さず何とも思わず、ただ厚くもてなすの一点に集中していれば、主客いずれが夕に倒れるとも実によい茶席だったということになるだろう。