「小陰は山に隠れ、大陰は市に隠れる」の意味:真の禅は日常生活のなかにある

意味

「隠」ことは悪いことをして隠れるのではなく、すでに達しているその境涯を「隠す」ということ。見せびらかさずに隠すのだけれど、それをどこで行うか、山中にこもるのか、市井に生きるのかの優先順位をつけた言葉です。いわゆる禅者のイメージは山中に一人こもるような生活を送る人ですが、それは次点で、もっと上がいるというわけです。

あるべき生き方の順位付け

山中で静かに冷静さを保って暮らすことは用意であるけれど、本当の禅者ならば町中でそれをやってのけ、その方がよほどに価値があるとこの言葉は言っています。町中とは実際の繁華街のことを言っているわけではなく、家族や仕事がある日常生活、近所付き合い、友達付き合いのある平凡な環境のことを言っています。あらゆるしがらみを断ち切って、仙人のような達観に至ることもいいけれど、それを通常の生活のなかでできたならば、その方が素晴らしいし、それを目指すべきだという考え方です。

山中を一人生生きれば、心の平静は得られる

思想的背景

しかし、市井を生きながらもそれは可能

禅は、インドで生まれた仏教が中国に渡って世俗・処世の要素をまとって日本に入ってきました。インド時代に形成された高次の形而上学的検討が、中国に入って、「それは何の役に立つのか」という実利的風土とあいまって、思想・テキスト重視から実践・体感への転換が図られ、独特な洗練された宗教体系に昇華され、これが日本に伝わってきました。日本に伝わってきた鎌倉時代から政治・経済界との結びつきが強い、一見生活臭の薄い宗教ですが、実際には実践的な世俗的宗教と言えます。今日本にある禅はこの流れのなかで、日常対峙を基本テーマにしており、この言葉もその考えを多分に汲んだものと言えます。

どう考えろと言っているのか

この言葉は、「いつか山中で静かに穏やかに暮したい」という幻想を断ち切り、「今日、この生活空間のなかでよき悟りを得るべし」と力強く今・ここの実践を説く、禅の本質そのものを現した言葉です。日常の雑事、周囲の小言・愚痴、どうにもならない理不尽やフラストレーション、こういうものは本来ないものであり、正しくないものなので遠ざけるべしではなく、こうした娑婆のど真ん中で山中にいるようにゆったりと呼吸し、焦らずに一つ一つ全力で片付けていこう、そうして今日一日の充実を図ろうという励ましの言葉です。

できていない人に向けられている

なんだ、そんなことはすでにできている。そういう人もいるかと思います。そうであるならば、まったく結構、どうするものでもありません。そうではない人に向けて、そうやって生きている人がたくさんいるのだよと諭す言葉でもあります。市井の喧騒のなかで、会社の理不尽のなかで、家庭の賑わいのなかで、山中にいるかのような悠然を得てみてください。禅はまず、呼吸から、姿勢から、掃除から。誰でも今できる方法を示してくれています。