「処処全真」(しょしょぜんしん)の意:探し回らなくても、至るところに真実があるよという禅語。

処処全真

古くて難しい本を読む必要はありません。苦しい修行を積み重ねる必要もありません。遠くどこかに出かけていく必要もありません。だれか偉い人の話に聞き入る必要もありません。静かに座って心を落ち着かせよ。自分自身のなかに仏を見出せ。

There is truth everywhere

There is no need to read old, difficult books. There is no need to accumulate painful practices. There is no need to go far away from home. You don’t need to listen to some great person’s talk. Sit quietly and calm your mind. Find the Buddha within yourself.

コラム:精神衛生は物理的に保つ。日常実践としての掃除

日常実践の基点として、掃除は面白い。岡倉天心の「茶の湯」には「茶室や茶道具がいかに色あせて見えてもすべての物が全く清潔である。部屋の最も暗いすみにさえ塵ちり一本も見られない。もしあるようならばその主人は茶人とはいわれないのである。

茶人に第一必要な条件の一は掃き、ふき清め、洗うことに関する知識である、払い清めるには術を要するから。」とある。この記述は私が同著のなかでも特に好きな部分でもある。美しい文章で清潔であることの素晴らしさを説いている。「部屋へやの最も暗いすみにさえ塵ちり一本も見られない」は特によい。茶室のそぎ落とされた洗練さは、必ずしも意匠や装飾だけにとどまらない訳だ。

塵という意図しない存在を、部屋の目の届かない場所においてさえ許さないのだ。そのことで、本当の静寂さに達することができるのだ。もう一つこの記述で特筆すべきは、掃除を知識であり、術であるとしていることである。知識や術のない掃除は意味がないのである、なぜなら綺麗にならないから。作務における掃除の話に戻るが、私が心掛けている掃除の術は、日々積み重ねることであり、昨日よりキレイにすることであり、目に見えてキレイになるよう掃除をすることである。日々積み重ねるとは言うまでもないことであるが、1日7時間の掃除よりも1日1時間×7時間の掃除のほうが、現実的に実行可能でありまた成果も大きいからだ。時にまとめて時間を取って大掃除をして1時間では済まない掃除を徹底行う必要はあるが、それよりも少しずつきれいにしていく方がよい。

少しずつ汚くなっているからだ。日々同じ時間に掃除をするのはよいことだと思うが、日々同じ場所を同じように掃除することがよいことだとは思わない。部屋なり庭は、日々少しずつ乱れていくから、気づいたところを日々直していくのがよい。およそのところをいつものように掃除をするのは楽だが、それでは思考の停止であり、成果は低い。きれいにならない。それよりも気になる細部を一つずつ、毎日磨いていくのがよい。そうすれば、局所的に大幅な改善が見てとれるし、ある程度それが積み重なれば、全体としての印象の違いも目に見えるものになる。明らかにキレイになるという手応えのない掃除は意味がないし、楽しくない。

明白な美化を部分部分で積み重ねていくのが掃除の基本であろう。そうすれば、部分部分の掃除に工夫が生まれ、術が生まれ、それが身についていくのだ。摂心では毎日同じ時間に作務があり、否応なしにそれをすることになるので、このことは摂心を離れて日常生活において習慣にできることである。習慣にできれば、茶人の第一条件をクリアできる。この時に茶人とは茶の湯を楽しむ人ということだけではなく、人として生きるという意味になるはずだ。