鐘楼上念讃(しょうろうのうえにねんさんす)の意味を考える

薬山は野菜くずと麦くずを煮て空腹を満たし、牛小屋で修行した。大伽藍で大いに成就するなら、大大伽藍でも建てればよかろう、てなものである。大燈国師は20年の乞食生活、橋の下で暮らしたとの話である。鐘楼上念讃 牀脚下種菜ともいう。仏殿がなければ鐘撞堂で唱えろ、畑なければ床下に種をまけと。立派な建造物も、広大な田畑も要らぬと。

本来無一物も掲げるなら、野菜くずでよいし、牛小屋で上等、橋の下とどちらがよいかは本人の好みに任せる、くらいになるはずである。そしてその徹底は、薬山惟儼、大燈国師、そのほかにもみることができる。今、禅寺を歩けばそのような寺や僧あろうだろうが、物を大切する僧も少なくない。立派な輸入車に乗って、これは私のこだわり、物を大切にしましょうと説いている。何であろうか。俗僧は取り合わないとして、しかし先の壮絶な徹底をみたとき、茶禅一味の茶道の方はどうだろうか。乞食宗旦がその筆頭か。村田珠光も金持ち茶道の身分ではなかった。江戸と明治の端境期の家元もパトロンの大名連中が消失し、大いに苦労したと聞く。しかし、大祖の千利休はじめ、茶道創成期における武家連中を大いにモノとしての茶道という基礎を築いていかれたような気がする。今日の茶会にあっても、大いに道具茶道、武骨な禅の風情、野菜くず煮に牛小屋の情緒はひとかけらもない。寝食を大切にしない薬山、大燈に禅道なしとの反撃もできそうである。茶味に大いにかけるという白隠の墨蹟を掛けようという茶人はまず少ない。よほど感覚がずれている人だろう。白隠本人が茶を好んでいないし、茶掛けをまったく想定していない、一寸の繊細さも残さない圧倒的な書は、これをいかに茶席に収めるかというのは一つの今日的茶道の課題として設定、広く共有してもよいのではないだろうか。白隠の描いた大燈の軸など、まったくどう掛けてよいものか分からない。牛小屋に掛けて、藁を引き、野菜くずを煮こんで一服差し上げるくらいでなければ収まらない。そして、この命題は茶禅一味の本質に係る問題なのではないかと思う。

いつの間にか、村田珠光の経済的不遇における創意や、そうはいっても利休にあった禅的な詫びた道具の創出、宗旦の乞食一徹の生きざまは、今日茶道に親しむ多くの人たちが忘れかけてしまったものである。忘れていれば思い出せばよいが、覚えてもいないのかもしれない。時の流れは少しずつ少しづつ、道具茶へと、姫茶道への触れて、もはや本来を失っているかもしれないという危機感を投げかけたならば、今日の茶人はどのようにこれを打ち返すだろうか。いやいやそんなことはない、一服差し上げようと剛毅に切り返す茶人が幾人いるだろうか。いるならばぜひお目にかかりたいものだし、ぜひ一服いただきたいものである。姫宗和とは、宗和流始祖の金森宗和の華麗で貴族的な茶道を称したものであるが、茶道全体が今日姫宗和になっていないだろうか。いかに白隠を掛けますかな。