「東山水上行」(とうざんすいじょうこう)の意味:山が川を上っていくとは!?
一見不可解な禅語ですが、自由な禅の宗風を現す楽しい禅語です。それでは読み方からみていきましょう。
「東山水上行」の読み方
東山(とうざん)水上行(すいじょうこう)が漢詩風で禅味がありますが、
または東山(とうざん)、水上(すいじょう)を行くの方が日本語としてピンと来るかもしれません。好みの問題です。
東の山が水の上を行く、ですと趣きには欠けますが、分かりやすさは一番あるかと思います。
この禅語の意味
東山は固有名詞ではないとのことで、どこかの山が水の上を登っていくさまを表現しています。本来、山から川が流れ出ているところ、その川を山が登っていくといっているわけですから、まったくデタラメな様子ということになります。あまりの荒唐無稽なさまに、絶句してしまうことと思います。
人を呆れさせるような一語ですが、ここに禅の基本的な考え方である、相対的な尺度を徹底して退ける思想が現れています。つまり、禅の根本に立てば、上も下もあるのかどうか分からない、勝手に人々が作った尺度に過ぎないと考えます。川の上り・下りなんて問題ではないわけです。さらには山と川の違いもよく分からなくなってきます。ただ、大地がでこぼととしていて、その低いところを雨水が集まって流れているだけで、どこから山ともどこから川とも本来はありません。遠くから見ればすべて山の一部のようにもみえますし、川は水がなくなれば山の一部のようでもあります。逆に雨で山が崩れれば山もなくなってしまいますし、地底の変化や火山で山ができたり、消えることもありそうです。
ここまで言っても山が川を上っていくまでは行かないような気もします。しかし、「必ず山から川が流れる」というような言葉で小さく固定された世界の辺境さからの解放という眼目が禅にはあり、そういう世界観をこの一語は表しています。
山が川を上っていくという強烈な非常識をぶつけてはっとさせておいて、「いや待て、自分の思考もこのように何かに捕らわれていないか。世界はそのように硬直的で不自由ではないぞ」と気づかせてくれるわけです。
それにしても強烈な視覚的表現でありながら、このように説明してもにわかに納得できない点において、この禅語があまり用いられることなく、マイナーな地位に甘んじている原因かと思います。意味も色々な解釈がありますが、思い切って、
常識に捕らわれるな
小さな思い込みの世界に安住するな
現状を勢いよく打破せよ
といったところでせっかくの視覚表現をそのまま活かして理解するのがよいかと思います。すこし
拡大解釈した意味も考察してみます。
相対的な現実世界は、絶対ではないという励ましの言葉として
我々の日常世界は、山と川は別々なものであり、上下も左右もあります。しかし、こうした相対世界は、絶対的なものではないと仏教では考えます。相対世界に着かれてしまった人の気持ちをほぐす言葉して、「東山水上行」を使ってもよいかと思います。
つまり、
- 大学なんてどっちでもいい
- 会社の人事評価なんて関係ない
- 背の高い・低いなんて関係ない
- 肌の色も民族も関係ない
- アイツに何と言われようとも関係ない
こんな感じで日常を乗り切る自己啓発や気分転換の言葉として捉えてもよいかと思います。爽やかな気分が得られたならば、それは何ものにもとらわれない自由な禅の宗風そのものです。決して卑近な禅語解釈ではありません。
いかなる天変地異もあり得るという戒めの言葉として
我々の日常世界では山と川は別々の存在で、山が川を上ることはあり得ませんが、地球規模の歴史としてみれば、山も川もあるとき誕生したものであり、また山も川も地続きであり、山も川も長い年月のなかで刻々と姿を変えています。時に土砂崩れ、鉄砲水、噴火などの転変地位によって、低かった場所が高くなったり、あったはずの丘が崩れ去ってしまったりします。
大地震等を振り返りつつ防災意識を高める言葉として、また登山や川遊びなどの自然環境で余暇を過ごす際の警句として、用いてもよいかと思います。
この禅語の使い方
上記の意味に基づくながら、一つの励ましの言葉として、自分自身に対して、人に対して用いるのがよいかと思います。
ビジネスシーンで
「業界の古い慣習や会社の従来のやり方に捕らわれず、東山水上を行くのごとく、山が川を上っていくようなこれまでにない大胆な仮説で新事業に取り組んで欲しい」
友人を励まして
「極めて斬新な作品だから、かえって受賞を逃したのかもしれない。東山水上行といった感じの斬新さが奇異に受け取られたかもしれないが、私にはむしろ自然な感性で、鋭い表現にはいい印象しかなかったよ。」
山・海に遊びに行くときに
「東山水上行で、自然には我々の常識は通用しない。何が起こるとも分からない。子どもからは目を離さずに、安全第一で行こう。」
東山水上行と近しい禅語
禅語にはびっくりするような奇抜な表現のものが色々あります。意味は東山水上行とは異なるものもありますが、参考として挙げてみます。
一口吸盡西江水
一口 ( いっく ) に 吸尽 ( きゅうじん ) す 西江 ( せいこう ) の 水 ( みず )。川の水を一口で飲み干してしまうそうです。そんなことができるはずがありません。さて、その真意とは?
小魚呑大魚
小魚(しょうぎょ)大魚(たいぎょ)を呑む。小さな小魚が、大きな魚を飲み込んでしまう。大きさによってはぎりぎりあり得そうですが、基本的には大きな魚が小さな魚を食べるものです。不思議な光景といえます。
半升鐺内煮山川
半升(はんしょう)の鐺内(とうない)に、山川(さんせん)を煮る。半升の鍋で、山やら川やらを煮てしまうそうです。これはできそうにありませんが、何とも禅らしい視覚的表現です。この鍋の味わいはどんなものか、また別ページで解説したいと思います。
一粒粟中蔵世界
一粒(いちりゅう)の粟中(ぞくちゅう)に世界を蔵(ぞう)す。一粒の粟(あわ)の中に世界を閉じ込めてしまうという、上の半升鐺内煮山川の上の句にあたります。
鉢盂裏走馬
鉢盂裏(はつうり)に馬を走らす。茶碗のなかで馬を走らせる。到底あり得ない光景ですが、鍋で山や川を煮たり、山が川を上っていく禅の世界に慣れてくると、そのさまの楽しさを味わえるようになってきます。
毛呑巨海芥納須弥
毛(もう)は巨海(こかい)を呑(の)み、芥(け)は須弥(しゅみ)を納(い)る。1本の毛が大海を飲み込み、小さな芥子の実(小さな粒の例え)に須弥山(大きな山の例え)が納まる。まったく不思議な世界です。
まとめ
とても不思議な世界に思えますが、その不思議を聞いた人に強く印象づけることがこうした禅語の狙いにはあります。ハッとさせておいて、なぜ自分がハッとしたのか、その原因に気づかせる狙いがあります。おかしいなと思えたなら、半分理解できたも同然です。その上でもう半分理解できると、この不思議な世界が楽しくなり、だんだんと不思議でなくなっていくかと思います。そういうことを極力理屈ではなく、直感や体験によって掴むこと、このことが禅が大切にしていることになります。
せっかく視覚的に表現された世界ですし、想像しながら、そうしてこの語を用いながら、日常実践してみていただければと思います。