【検証】笑顔はいらないのか:真剣な眼差しと打ち解けた笑顔、どちらの表情がよいか対決。

笑顔の魅力はよく語られますが、真剣な眼差しもカッコイイと言われたりしますよね。真剣な眼差しも、人好きのする笑顔もどちらも魅力があるかと思います。それぞれの見た目の印象から見比べてみましょう。

2つの表情を見比べてみる

どちらの顔が好きですか?

下の画像は、「so i asked them to smile.」という世界中の人々の素顔と笑顔の写真を撮り続けているJay Weinstein氏の写真+αです。テーマとしては笑顔の方がいいよね、という前提があるように思いますが、私は正直、シラフの顔(左側)の方が好きという印象を受けました。

真剣な眼差し

真剣に何かに取り組んでいる人の内省的な感性

微笑んだ眼差し

会話を含め、人と何かをするとき外向的心持ち






それぞれの表情のいいところ

真面目な顔の方がいいと先ほど言いましたが、笑っている方の顔の方が、もし自分が話しかけたときに対応してくれる顔としてはホッとする感じがします。大雑把にいうと、1人のときは真面目な顔、誰かといるときは笑った顔ということになるのでしょうか。

表情筋の緊張した真剣な眼差し

  • その人そのものが見えてくる感じがする
  • 素の美しさ、そのものの魅力が際立つ
  • 真剣な表情としての魅力がある
  • 内面的な部分がそのまま出ているように感じられる

表情筋がゆるんだ微笑んだ眼差し

  • 話しかけやすい感じがある
  • 話しかけたとき、こんな表情だと安心するという顔。
  • 心が外を向いている感じがする
  • 人が好き、人とつながりたいという気持ちを感じる






しかし、一人で何かをするときは真剣に、人と話をするときは笑顔で、という切り分け方になるかというとそうでありませんね。どのような仕事も相手があることですから、その人のことをを考えていかに喜んでもらうかということを考えて、笑顔の心持ちで取り組む必要もありますね。逆に会話のような相手がある場面でも、真剣な面持ちで話をする必要があるときもありますね。

素顔と笑顔のマイナスの側面は?

素顔は正直でその人そのもの、誠実な印象を与えますが、反面何となくとっつきづらい印象も与えてしまいます。笑顔はほっとさせる平和的なムードを作りますが、反面何となく人を油断させてだますのではないか、真面目に考えているのだろうか、上辺だけなのではないかという印象も与えてしまいます。

素顔:真剣な眼差し

  • 緊張感があって、気難しい印象を与える
  •  自己完結していて、すべて事足りている印象で、話しかけたり、何かを一緒にやろうという気分にさせない

笑顔:微笑んだ眼差し

  • 人に媚びたような雰囲気にも捉えられ、怪しい印象を与える
  • 深い思考や深慮を感じない






結論:両面ともその人!どちらもステキである!

素顔も笑顔もその人そのものですよね。ずっと真剣というのも疲れますし、ずっと笑顔というのもどうかと思います。真剣で張り付けめていたり、笑顔でリラックスしていたり、1人のなかにもいろいろな側面があるからその人の魅力があるのだと思います。1人のなかに多様性があって、多面性でいろいろな要素があるから深みがあるのだと思います。1人の人をあの人は真面目だ、いつも笑顔だとするのはあまりに単調で乱暴な見方ですし、真剣な顔の方がいい、いつも笑顔の方がいいというのも雑な処世術のような感じで軽薄ですね。

素顔と笑顔だけでもないはず。どんなときも全力・全開で!

実際には真剣な顔と笑顔の2種類だけではなくて、喜怒哀楽というように人にはいろいろな感情があって、それを顔が表現していたり、顔の表情が感情に影響を与えたりしていますよね。いろいろな感情があるから人生は豊かなのだし、いろいろな表情があるからその人が魅力的に輝くのだと思います。

瞬間瞬間、全力で生きる。楽しいときは全力で楽しむ、悲しいときは全力で悲しむ。このような態度を三昧の境地といったりします。仕事の時は仕事に集中、友達とのおしゃべりのときにはおしゃべりに集中、他のことは考えないといった状態を意味します。とてもすがすがしい、気持ちのいい状態です。全力はZen力です。

表情は豊かな方がいい!表情筋トレーニング

表情筋トレーニングについては以前にこちらにまとめました。主に笑顔の練習ですが、柔軟に動く筋力が鍛えられれば、どんあ顔もできるようになるはずです。

もう一つ結論:他者の色々も受け入れる

一即多、多即一:自分もいろいろ、人も色々。

一即多、多即一といって、1つのものはたくさんのものに分離して、しかしすべてのものは一つであるという仏教の基本的な世界観があります。一即多は、いっしょくたといって何でもひとまとめてしてしまう意味で使われますが、ここでは異なる意味で考えます。

1人の人には多面性があり、さまざまな感情や考え方を持っていて、時に裏表があると捉えられるとネガティブな印象ですが、しかし喜怒哀楽、人生には春夏秋冬があり、雨が降ったり晴れの日があったりするわけですからとても自然なことです。そうしてこういったさまざまな側面が1人の人間としてその人の体に一応収まっているわけですから多即一となります。

世界は多義的でありながら、同時に一つでもある。

一人の人を硬直的な単一的な存在として捉える個人主義に対して、一人の人にはさまざまな側面があるという考え方を分人思想といったりします。これについてはまたの機会にお話ししたいと思いますが、ごく当たり前の人間の姿、世界のあり方を「一即多、多即一」は示しているといえます。

キュウリも色々なキュウリがあり、そうしてキュウリ以外にもニンジンがあり、ニンジンもそれぞれ色々なかたちをしていますが、全体としては野菜として素晴らしい。野菜はどれも体によくてありがたいけれど、よくよく見ればキュウリの一つ一つ形が違う。そんな感じです。

すべての多面性を受け入れる

自分の多面性、人の多面性を受け入れる。自分はこうだとか、あの人はこうだとか決めつけること、レッテル張りは簡単ですが、正しい認識ではありません。ずっと一緒にいる親しい人にも、自分自身にも今日新たな側面の発見ができるはずです。そしてそれはストレスではなく、喜びであるはずです。