「下載清風」(あさいせいふう)の意味:すべて捨てて爽やかに生きようという禅語
あさいせいふう、と読みます。
「捨ててしまえば、清風が感じられる」という意味です。
原文では
原文では湖の底に捨ててしまったとなっています。そうすると、清風が感じられて誰かに分けてやりたいくらいだという一句です。
何を捨てるかは書いてありません。誰に分けてあげたいかは、おそらく静風を感じられていない人たちに対してであり、そういう人は、頭がカッカしているようなことなのだろうと思います。
禅は清風が好き
禅語では度々清風という言葉が出てきます。清風は涼しい風ということですが、要するに「何も気にせずに涼しい顔をしている様子」のことでこういう様を禅ではあるべき姿と考えます。何があっても腹で静かに呼吸している、もの静かな様子です。
禅は捨てるのが好き
- 本来無一物
- 無着
- 無心
- 無我
禅では、ないことを尊びます。逆にあること、持ち物を増やすことを嫌います。
捨てるもの7選
改めて何を捨てるかを考えて見たいと思います。禅では基本的に全て捨てろと言われますが、全てでは漠として実践のとっかかりが掴めません。具体的にいくつか禅が捨てるものを挙げてみましょう。
プライド
無我の境地を禅では求めます。自立や自信は求めますが、それとプライドは違います。「自分だけは特別だ」「自分にしかできない」というような傲慢な態度や心の囚われた状態を禅では嫌います。間違った自己認識がストレスや義憤につながり、頭や心を熱くてしてしまいます。湖の底に放り投げて、涼しくいきましょう。
使っていない物
精神的なものではなく、実際のものを捨てるのも禅では重要です。「要らないもの」を持つことは理に反すると考えます。使っていないもの、不要なものは処分、いわゆる捨て活です。これらは実際に湖に捨ててはいけません(笑)。自治体のルールに従って処分してください。
捨て活はこちらに実践方法をまとめています。
虚飾
禅文化の影響を受けたデザインは洗練されてシンプルなものです。なぜなら禅は本質を考えて不要なものを付け足さないからです。服や家のしつらえ、生き方、全てにおいて整理整頓され、涼しくします。ガチャガチャした暑苦しい状態では、禅風は吹きません。
時間
過去
今を生きるのが禅です。過去の思い出や記憶には、楽しいものも誇れるもの、悲しいもの、腹の立つこと、大切にしたいものも色々あります。しかし、それらを思い出したりせずに、今日やるべきことを全力でやろうというのは禅の基本原理です。
未来
禅では徹底現在思考ですので、過去だけでなく、未来を考えません。将来の夢も、将来の不安も考えず、一生懸命今日できることを全うします。
食べ過ぎ・添加物
余計なことをしない禅文化は食にも現れます。動物を殺してまで食べなくても良いので、菜食になります。生きていける分だけ食べればよいので、過食になりません。不要なものは摂りませんので、添加物などで味を整えず、そのものの滋味を味わいます。
社会的地位
禅の理想の姿は、乞食だったりします。悟った禅僧が乞食として生きるエピソードはたくさんあります。半裸で街を徘徊する布袋さんは、禅の理想の姿とされます。社会的には最も卑しい身分に真理を見出します。自分の地位や名誉で頭がいっぱいなるような暑苦しさを嫌い、半裸で物乞いをする方がよほどに心が囚われておらず、涼やかというわけです。
生へのこだわり
城の掃除をしていた家臣が突然に主人に切腹を命じられたとき、家臣のあり方として「分かりました。道具を片付けきます。で、いつですか」と何も慌てず、受け答えができたら真の禅者だというエピソードがあります。自分の命にすら執着がなく、自分の死に直面していても涼しい顔をしています。自分の命をすでに放り投げてしまっている状態です。
まとめ
実際には捨てるものは、人それぞれあると思います。その全ての正解で、究極は布袋さんの姿であることを見てきました。振る舞いや横顔に清風が起こるように、色々捨てて見ましょう。具体的にモノを捨てていくのは実践しやすいです。
つまりモノを捨てる作業は、過去の思い出を捨てたり、過去の成功や名誉を捨てたり、こだわりを捨てることになるからです。物理的に捨てることで、精神的な捨てる作業ができていきます。ぜひ、実践して見てください。
参考:「捨て活」のススメ。始め方とやり方、そしてその効果とは!?
監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
参考文献:「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)
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