「着衣喫飯」(じゃくえ きっぱん)の意味:ほとんどの人の幸せを確定させる魔法の言葉

読み方と意味

じゃくえきっぱん、と読みます。

意味は服を着ること、ごはんを食べること。

意味

・当たり前を当たり前に行うこと、

・自分のことは自分でやること、

・最低限のことをしっかりやること、

といった意味で解釈されます。

服を着れてご飯が食べられたら、幸せってもんだろう 

という当たり前のようで当たり前でない幸せを感じるための言葉でもあります。

自分でできるということ

人は生まれたばかりであったり、病気をしたり、年を取ると、 自分で服を着れなくなり、ご飯を自分で食べられなくなってしまいます。

自分のことを自分でやることを、禅では幸せと考えます。

小さな充実感

ご飯も料理からできた方が幸せ、米栽培からできたらなお幸せ、 作らないまでも、自分の食い代くらいは自分で賄えていると心は充実します。

ご飯が食べられたらガッツポーズ

ここではあえて発展させずに、ご飯が食べられたらOK、大成功・大幸福という幸せへの到達の言葉と考えてみましょう。今日、ご飯が食べられたらガッツポーズしてしまいましょう。多いに幸せです。

例文

あまり一般的な会話ではないため、会話の中では使いづらい言葉かと思います。

  • 色々あったが、着衣喫飯。とりあえず3食事足りているわけだし、良しとしよう。
  • やることは多いが、慌てずに着衣喫飯。1つずつあり前のことを片付けていこう。
  • 特別なことは必要ない。着衣喫飯。私は大いに幸せだ。

近しい意味の禅語

一日作(な)さざれば、一日食らわず

自分のことは自分でやる、という自力の基本、自信の源となる考え方を示した禅語です。

逢茶々逢飯々(ちゃにあえばちゃ、めしにあえばめし)

お茶を出されら、お茶を飲み、ご飯を出されたら、ご飯を食べます、という意味で当たり前のことですが、含蓄のある実践志向の禅語です。(解説記事はこちらから)

まとめ

いろいろ悩みはありますが、夜寝る前には「今日もご飯を食べられた。服を着ている。大いに結構としよう」とスッキリ眠っていただきたいです。


監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。禅語解説の記事執筆やオンライン座禅会を開催しています。

コラム

思いがけずお茶のお点前をさせていただく機会を賜り、有難く思っている。さっぱりうまくはできなかったが、恥は良い刺激となり、練習を積み重ねようという気持ちになった。禅の本にも、平点前100回だ、というような記述があった。まさにその意気で毎朝取り組み始めた。

さて、茶禅一味という。茶も禅から生まれていて、目指すところは同じであると。茶道をかじる私としてはそうあって欲しいと願うし、お軸をよくよく鑑賞し、その意味を共有する茶会であってほしいと願いところである。興味深いことに千利休、井伊直弼などの大家が繰り返し述べている形式主義や珍品主義への陥穽に、茶道はよくよくは陥りがちであると思う。道具はあるもので、といいながらついつい道具茶に陥りがちなものである。

大寄せ茶会がごく一般的な茶会になっていて、本来の少人数の茶席が私的に行われる機会は少なく、余計に道具鑑賞の場としての茶会の意味合いが強まっているのかもしれない。そもそも現在の茶道のかたちは、当初以来のものである部分は意外と多い。正座という現代の定番の座り方も一般的ではなかったし、現在の家元制度の歴史もそれほど古いものではない。ご婦人茶道の歴史も同じく戦後あたりから確立したものでそれほど長い歴史を持ったものではない。逆に、陥穽の源泉として、金持ち文化としての茶道という側面があるかとは思う。

金持ち文化としての茶道は当初以来ある程度確かなことであり、決して茶道は庶民文化に始ったものではない。お茶が抹茶だけでなく、煎茶という庶民にも親しめる様式になって普及していくのは江戸時代だから、やはりこのような過程をみても少なくとも茶道における抹茶は高尚なものといえる。そういう金持ち文化としての茶道は禅らしからず、その点、禅は素朴でよろしいと勝手に思ってきた。しかし考えてみると、人々がそれぞれに自分の仕事に精を出しているときに、ひたすらに座っているというのもある種の貴族性なのではないかと思えてきた。茶禅は一味でいずれも、洗練された高尚な美的・知的志向のかたちであり、貴族文化として捉えることができるかもしれない。

個人的な感覚として日蓮のパワフルさ、俗っぽさは苦手である。しかし、ただ座って心の問題を解決するのでなく、現実の社会と対峙し、その社会のなかで解決を模索しようという姿勢や、その姿勢に基づく禅批判はおかしなものとは思えない。例えば人々はよく働くものの貧しさが続く村があったときに、禅は座れと指導するだろう。物質的な豊かさは必ずしも人々を幸福に導かないのだから、そのアプローチは間違ってはいない。

しかし、日蓮ならば、隣村との間に流れる川に橋をかけ、交易を盛んにして村を富ませようとするだろう。橋をかけるお金がなければ、政治活動によってそれを得て、何とか実現にこじつけようとするだろう。禅はおよそ山にこもるし、私は山奥に位置する禅道場が好きだ。溢れる野鳥の声、変わりやすい天候、急な坂道。素晴らしい限りだ。しかし、作務のすべてが山中の道場に集中しては、貴族の別荘になってしまうかもしれない。作務の一部で、周辺地域への何らかの奉仕作業に当てる、何かを生産してそれを周辺地域に振る舞う等の社会性があってもよいかもしれない。いかがだろうか、皆さんのご意見を賜りたい。

参考文献:「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)

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