「清光無何処」(せいこういずれのところにかなからん)の意味:清き光はどこにあるのか、至るところにあるではないか。刮目せよという禅語

清光無何処の意味と実践

意味と出典

清光無何処は「せいこういずれのところにかなからん」と読みます。虛堂録には上の句があって、「此夜一輪満、清光何處無です。上の句は「このよいちりんみちて」です。

続けて訓読みすると、「この夜一輪満ちて、清光いずれの所にかなからん」となります。一輪は月のことです。

意訳すると「今夜は満月、この光はすべてを照らしている」ということになります。いずれのこところにかなからんは、どこにもないという意味ではなく、「どこにもないだろうか、いや至るところにある」という意味になります。

虛堂録は虛堂智愚という禅僧の語録集で、虛堂は一休が私淑した宋代の禅僧です。

月は悟りの境地や真理を意味する

円相は月であり悟りを意味する

月は悟りの境地や真理の暗喩(メタファー)として、禅宗では用いられます。円相は最も分かりやすい用いられ方ですが、禅画や座禅和讃のお経でも用いられる例えで、このことを知っていると禅文化鑑賞がより楽しくなります。

さて、このことを踏まえて「今夜は満月、この光はすべてを照らしている」を読み直してみると、大意としては、「今この瞬間にも世界は真理の光に照らされている。その光は、あらゆる人、あらゆる物を照らしている」となります。

どんな場所にも、人は仏になれる

どんなに過酷な環境にあっても、仏の境地、心の安寧、慈悲の精神は可能であるし、その芽は心のなかにある!と断言するのが精神世界を重視する禅の教えです。

暴力が横行する世界にあっても


貧しさの中にあっても


絶望の最中にあっても

極端な境地でなくても、人は仏になれる

逆に困難な状況や特殊な環境、厳しい修行が必要というわけでもありません。どんな場所でもということは、平凡ないつもと変わらない日常を送る人々においてもという意味になります。

当たり前の日常にあっても


日々の生活のなかにあっても


いつもと変わらない仕事のなかにも

使い方

反語表現をそのまま英訳してみました。divineは、immaculateやsacredでもいいかもしれません。cleanやpureの方が原義に近い気もしますが、英語文化圏の人にとってはかえって分かりづらいかもしれないと考え、宗教的な意味合いの強いdivineを採りました。

同じ意味の禅語

大切なものはどこにでもある

看脚下(かんきゃっか)

足元をみよ!大切なものは足元にある。どこまでも探しに行く必要はない。(解説記事はこちらから)

真仏坐屋裏(しんぶつ、おくりにざす)

真の仏は家のなか(自分のなか)にある。どこに出かけようというのか。

明珠在掌(みょうしゅ、たなごころにあり)

光り輝く珠は、すでに手のなかにある。手探りして他を求めては、せっかくの手持ちの宝物も、手からすり落ちていくだけだ。

在眼前(がんぜんにあり)

大切なものは目の前にある。うろうろさまような。

素晴らしいものは身近にある、磨いて使え

近くにあるゴミのようなものでも、工夫して修理すれば、使えるようになります。古ぼけたものでも、磨けばピカピカに輝き出します。新しいものを探し求めることの貧しさや卑しさに気づいて、身近なものに光を与える楽しさを自分自身に置き換えて考えるという禅語です。

  • 閑古錐(かんこすい):古くて先の丸くなった錐(きり)
  • 無孔笛(むくてき):音の出ない笛
  • 沒絃琴(もつげんきん):弦のない琴
  • 破草鞋(はぞうあい):破れたわらじ

「光」は自分自身のなかにある

清光はどこにでもあるを別の観点でみると、自分のなかにあるからどこに行っても世界を明るく照らすことができるとも解釈できます。そうすると自灯明と意味が近しくなってきます。

英語でいうと

Are there places where the divine light doesn’t reach?


訳出メモ

 反語表現をそのまま英訳してみました。divineは、immaculateやsacredでもいいかもしれません。cleanやpureの方が原義に近い気もしますが、英語文化圏の人にとってはかえって分かりづらいかもしれないと考え、宗教的な意味合いの強いdivineを採りました。

実践にあたって重要なこと

月光とは弱く曇りやすい存在であること

月の見えない場所は地球上にありませんが、しかしそれが満月である夜は毎晩ではありませんし、雲に隠れてしまう夜もあります。悟りの境地はだれでもすぐに到達可能であるというのが禅の本懐ですが、しかしあっという間に失ってしまったり、見えなくなってしまうものの暗喩として月が用いられています。

「今夜」であること

上の句で「今夜」としているのは、「今、ここ」ですぐに得られるものであることを強調しているためです。悟りの境地、安心を得ることというのは、すぐにできることであり、しかし失われるのもすぐなので、継続的遂行が肝要というが「清光無何処」の示唆するところということになります。

5秒切り替えルールを実践してみる

いつでもどこでも清光に照らされるための実践として、「5秒ルール」を取り上げてみたいと思います。これはアメリカの弁護士でテレビ司会者などを務めるメル・ロビンズ氏が提唱している自己啓発ルールです。

5秒以内に始めてみよう!

5秒で仏になる

非常に単純で実行いしゃすい内容です。やろうと思ったら5秒以内になってみようというものです。掃除、読書、仕事、勉強、何でも構いません。コーヒーを飲んでから、テレビをみてからと先延ばしにしないところがポイントです。5秒以内ですから、自分に言い訳をする時間を与えない5秒という即座の行動が生活や人生を豊かにするというわけです。

5秒は続けてみる

すぐに始めるという実践

このルールにはもう一つの5秒があって、それは5秒以内に始めた後、5秒以上続けましょうというものです。例えば、筋トレしようと腕立てをすぐに始めたら、3回ないし5回くらいは腕立てができますね。5回もやっているともう少し続けようという惰性がいい意味で働くし、腹筋もやってみようとさらに続けたくなるだろうというルール設計の考え方です。

何でもいい、切り替えが上手になる

何でもいいからすぐに始めよう

このルールにはもう一つの5秒があって、それは5秒以内に始めた後、5秒以上続けましょうというものです。例えば、筋トレしようと腕立てをすぐに始めたら、3回ないし5回くらいは腕立てができますね。5回もやっているともう少し続けようという惰性がいい意味で働くし、腹筋もやってみようとさらに続けたくなるだろうというルール設計の考え方です。

実践してみよう

光増す喜び

机の周りを掃除してみましょう。かばんの中を整理してみましょう。5秒以内に、いいわけせずにやってみましょう。

小さなオシャレ

トイレに行って用を済ませましょう。洗面台で自分の顔に微笑んでみてください。あなた自身であなたを認め、許し、仏になってあげてください。さあ、トイレに時間です。

短い手紙

最近疎遠のあの人にLINE、メール、短い手紙、何でもいいので「お元気ですか」と連絡してみましょう。いたわり、心添え、ねぎらいが仏のこころです。

この身すなわち仏なり

途中例を挙げたように筋トレをしたり、セルフマッサージ、ストレッチをしてみましょう。自分自身、自分の体が仏であるというのが仏教・禅の基本で、難しい高尚な議論は基本以下のものです。

まとめ

「いつでもどこでも仏になれる」が「清光無何処」の意味でした。そして、いつでもどこでもなれるので、逆にいつでもどこでも仏でなくなってしまう可能性もあるということを確認しました。仏とは三昧の境地で、何かやっていることに集中しきっているような状態です。

本稿では5秒ルールを取り上げて、切り替えをうまくして、常に集中して何かに取り組むことを実践してみようということで考えてみました。ぜひ、5秒以内に何かを実践してみてください。暗闇の世界を照らすのは、全力で取り組むあなた自身を置いて他にありません。

自分自身の光
監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。禅語解説の記事執筆やオンライン座禅会を開催しています。

参照:

本要約チャンネル【ベストセラー】「5秒ルール 最高の結果を出す人がやっている思考・選択・行動50の習慣」を世界一わかりやすく要約してみた
(https://www.youtube.com/watch?v=lxau5DpD2q4&t=515s)

画像の一部:https://pixabay.com/