思無邪の意味「いけないことは考えない」
「邪」の解釈が儒教と禅では少し異なります
(おもいよこしまなし)
本日は「思無邪」を取り上げます。
孔子の短い言葉ですが、禅でもこの言葉は度々用いられます。
しかし、儒教と禅宗では少し解釈が異なります。
この辺りをてがかりに、禅語「思無邪」を掘り下げていきます。
読み方と意味
「思い、邪(よこしま)なし」と読みます。
「よくないことを考えない」という格言・箴言にするにしてあまりに当然すぎる言葉です。
ゆえに、かえって類する言葉というのが洋と東西を問わずなかなか見当たりません。
出典
出典は論語の為政編です。つまり、禅語ではありません。
しかし、時に茶掛けなどにも使われます。
子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。
(子曰わく、詩三百、一言以ってすれば之を蔽う、曰わく思い邪無し。)論語「為政編」
(意味)
あらゆる教養をひとことで表すなら、「考えることにおかしいところがない」ということに尽きる。
この「おかしいところ」の部分が、邪(よこしま)です。
邪:
(よこしま)とは何か
では、邪(よこしま)とは何でしょうか。
これは儒教と禅では違ってきます。
つまり、儒教の言葉である「思無邪」ですが、禅では違う意味で使うということになります。
大意としては、「考えることにおかしいところがない」でよいので、儒教の方が直感的な理解に近い意味になります。
禅はもう少し深い解釈を行います。
それでは2つの考え方を順に見ていき、その違いを明らかにして行きましょう。
儒家の考える邪
儒教の考える邪(よこしま)を考える上では、逆に儒教の考える“良い”思いを考えるのが早いと思います。
儒教にはいわゆる五常と呼ばれる美徳があります。
儒教の考える“良い”思い、五常
儒教らしく、人との関係性が前提になっている点がこの五常の共通点です。
- 仁:人を思いやること、仁義。
- 義:人として通すべき筋、義理。
- 礼:立場の違いをわきまえること、礼儀。
- 智:適切な判断を下すための知識、知性。
- 信:人や組織を信じ抜くこと、信頼。
高潔な理想のようで、世俗的で処世的とも言えるのが儒教の特徴の1つです。
儒教の考える邪(よこしま)
儒教の考える邪(よこしま)は、五常の考え方の逆を考えればよいということになります。
- 人の気持ちをないがしろにする
- 義理を軽んじる
- 自分や相手の立場を大切にしない
- 適切な判断を下す知識を欠く
- 人や組織に不信感を持つ
こうしてみると、孔子の言っている理想の人が、いわゆるの人格者と呼ばれるような立派な人であることが分かってきます。
それでは次に禅の邪(よこしま)を見ていきましょう。
禅の考える邪(よこしま)
禅はまず儒教のように対人関係や社会的関係性を重視する前の状態から考えます。
まず、自分というものが何なのかということを起点とします。
結論としては、「自分が仏である」と確信すること(悟ること)が仏教の核心なのですが、そのようにある人がしない邪(よこしま)は、儒教のそれとは必然的に変わってきます。
ここでも逆に禅の考えてよいことから考えて行くことで、禅の邪(よこしま)を明らかにしていきます。
禅が考えてよいこと
基本的に禅は何も考えないことを最上とします。すなわち、無心の状態です。
無心で何かに取り組んでいる状態を「三昧(ざんまい)」と呼びますが、こういう状態が理想です。
ゆえに何かを考えている状態というのは、無心よりも劣ります。
そのなかで考えていいことがあるとすれば、「今やっていること」だけということになります。
今やっていないことは、すべて邪(よこしま)と考えます。
今やっていないことを考えることは全て妄想と呼んで嫌います。
マインドフルネスと同じ
マインドフルネスという言葉がアメリカから入ってきて流布しています。
ご覧いただければ分かるように、意味としては同じことです。
マインドフルネス(Wikipedia)
マインドフルネス(英: mindfulness)とは、現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程である。
訓練を通じて発達させることができるとされる。
つまり、「思無邪」=「莫妄想」=「マインドフルネス」です。
マインドフルネスは平易な日本語を当てて考えると分かりやすい言葉です。
いい訳語としては、
- 心を込める
- 味わう
といった日本語を当てるのがよいと思います。
つまり、心を込めて何かをする、何かをすることを存分に味って行うことがマインドフルネスです。
禅は一歩進んで、「考えない」を目指す
禅は「考えるところにおかしいところがない」からさらに進んで「考えない」を目指します。
何も考えていないのが最強
何も考えないという理想は、赤洒々といった言葉で言い表されたりします。
赤は赤ちゃんの赤と同じで、そのままの状態のことです。
無邪気という言葉がありますが、つまり「何も考えないこと」=無邪気≒思無邪と言えます。
まったくてらいのない、ありのままの姿というのを大切にします。
そのものがそのままであることは美しいと考えます。
時間を考えてない
今に集中するという点では「じこん」という言葉もあります。
つまり禅の考える「思無邪」は、今への集中ということでもあります。
未来を不安に思うこと、過去にとらわれること、これらは邪(よこしま)と禅では考えます。
言葉はなくていい
禅は知識を否定し、言葉を軽視します。
禅は自分を起点に考え、自分の感覚や体幹を重視します。
逆に知識や他人のアドバイスを軽視します。
すなわち、論語の原文では、「思無邪」は詩三百という知識の集大成を表わす言葉でした。
禅は詩三百もまた、邪(よこしま)と考えるということになります。
学ばない禅語
言葉は要らない
何も学ばない
儒教と禅は相入れないのか
ここまで見てきたように、儒教と禅では「思無邪」の意味がだいぶ違っていました。
しかし、これらの一致を見ることができます。
ポイントは儒教が人間関係の処世術であるのに対して、禅は仏教という宗教であり、生きかたそのものというよりベーシックな思想であるという点です。
つまり、禅はOSであり、儒教はソフトウェアのように使うことで両立が可能です。
儒教は人間関係に心を込める
禅の「思無邪」はマインドフルネスとほぼ同義であることを見てきました。
そして、マインドフルネスは「心を込めること」であり、「存分に味わうこと」でした。
それでは、人間関係を心を込めて行うこと・存分に味わうことについて考えてみましょう。
- 人を思いやり、仁義を大切にする
- 人として筋を通すこと、義理人情
- 立場の違いをわきまえて、礼節のある振る舞いをする
- 適切な判断を下すための知識を身につけ、知性を磨くこと
- 人や組織を信じ抜くこと、信頼し信頼を得ること
禅は自分から出発しますが、他者を軽んじるわけではありません。
自分が仏であると確信すること(悟ること)が仏教の本懐であり、禅もその一派だからです。
人間関係を心を込めて存分に味わうこと、思うところ邪(よこしま)なく行うことは、儒教の意味と一致することをこのようにみることができます。
儒教は、人間関係に特化したマインドフルネスとみることができます。
思無邪の練習方法
心を込めて何かを行うこと、これが思無邪の実践方法になります。
最小単位の行動を心を込めて行うのが練習方法としてはよいです。
座禅は心を込めて呼吸に集中するという、極めて基礎的な行動を丁寧に行う作業です。
これが禅が座禅を重んじる理由です。
心を込めて呼吸する=座禅
禅では瞑想でなく、座禅をします。
座禅は瞑想と違い、目を閉じず、ただ呼吸と姿勢維持に集中することです。
つまり、座禅は「心を込めて何かを行うこと」「存分に味わうこと」の最小の行動です。
座禅が心を込めて行う行動とは、呼吸です。
- 心を込めて呼吸をすること
- 吸って吐くこと存分に味わうこと
をすることで、思無邪なあり方、マインドフルネスな生きかたのクセをつけるような訓練方法と捉えることができます。
座禅のときにもう一つ心を込めること
呼吸と合わせて、仏らしい姿勢維持に心を込め、それを存分に味わってみましょう。
心を込めてリンゴを食べる
ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンは、興味深い提案をしています。
それは、目の前のリンゴを心を込めて存分に味わって食べようというものです。
さあ、皆さんでしたらどのように召し上がりますか。
具体的な方法
当然ですが、テレビを見ながら、スマホを見ながらということはありません。
人と話しながらということもしません。その方法を紹介いたします。
心を込めてリンゴを食べる
⓵ 心を落ち着け、ようやく大切に手にとります。
② リンゴの重さ、肌ざわり、色、香りを感じます。
③ ゆっくりと噛んでみます。よく噛んでそれがなくなるまで噛み続けます。
④ 栄養が体に浸透していくことを想像します。
⑤ リンゴを作ってくれた生産者、リンゴを育んだ太陽・風・雨を想像します。
⑥ 多くの生物の死骸が腐敗してできた土によってリンゴが栄養を得て育ったことを想像します。
⑦ この栄養を受けて自分が精一杯活動し、世界や宇宙に力を還元していくことを想像します。
ほんの5−10分のリンゴを食べ切るまでの時間ですが、実に充実した体験を味わうことができます。
Youtubeを観ながら食べたのとでは、全く異なる体験であることがお分かりいただけるかと思います。
実際にリンゴを食べてみて!
この文章を読むだけでなく、実際にリンゴをこのように食べてみていただければと思います。
ただ、リンゴを1つ用意して、静かに食べるだけの時間です。
お金では買えない、最高の贅沢な体験ができると思います。
素晴らしいものとはこういうものかと気づき、素晴らしい生き方とはこういうものだと思えることと思います。
まとめ
この体験を他のことに生かして行ってください。
人間関係もリンゴを味わうように、仕事も歯を磨くことも、歩くことも。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
参考文献:
・「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)
・「味わう生き方」(ティク・ナット・ハン、木楽舎)
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