禅語「主人公(しゅじんこう)の意味:あなたがあなたの人生の主役である。目覚めよ。
禅語「主人公」の意味を考えていきます。主人公というと、物語のメインキャラクターという意味で用いられている言葉ですが、元々は禅問答にあった言葉です。自分を大切にして、主体的に生きていくことを自分に言い聞かせるための言葉です。禅ではまず徹底的に自分と向き合うことから始まります。ゆえに主人公は禅の重要ワードと言えます。
自分が仏であることが「主人公」の本義
禅の基本テーマは「自分が仏であることに気付き、そのように実践すること」です。主人公とはこのような自分のことをいいます。この前提に立って、主人公の理解を拡大していきます。
自分が仏であるという有名な言葉はこちらをご参照ください。
次に主体性が問題になる
自分が仏であるという前提に立って、世界に対して主体的に働きかけていくことを禅では求めます。しかし、それは大がかり課題に大げさに関われといっているわけではありません。ごく小さなことでも、あくまでも自分の目線で、自分の身の丈にあったことをやっていくというのが「主人公」です。
【参考】主体性を大切にする禅語はこちらから
主人公は映画スターのように振る舞うということではない
このように自分の環境に対峙して主体的に働き掛けて、自分のものにしよう、という実に力強い実践哲学が禅の宗風です。
しかし、先ほど述べたようにその実践はごく平凡なことをやっていくということだったりします。
例を挙げてみます。
整理整頓・掃除をして部屋の本来を取り戻す
周辺環境という素材を存分に生かすために、不要なものを捨てて、部屋をキレイにして気分を一新するというのも一つの「主人公」の実践だと思います。自分の部屋を自分で使いこなせるようにするという主体的な生活世界構築の第一歩になります。
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ただ外に出て、風に吹かれる
掃除が嫌いな人は、まず外に出て、風に吹かれてみてください。風は壮大な地球の一部を体感することであり、無料でできます。自分の世界を自分のものだと改めて認識し直してください。頭ではなく、体でそう感じることが重要です。
これならだれでもできますね。
【参考】五感で感じることを大切とする禅語はこちらから
花の美しさに気付く
帰り道に花が咲いていたら、その美しさを讃えましょう。小さな感動は近くにたくさん眠っていることに気が付きます。
世界中を旅する
世界を体感するなら、旅が一番ですね。各地を放浪する雲水(修行僧)のような心境で、色々見聞してあることもいいでしょう。突き詰めると、あちこちさまよい歩くことに禅は否定的なのですが、入門者であれば全然OKだと思います。
選挙に行く・デモ活動に参加する
禅は生活であり、山中の隠居の哲学ではなく、市井の十字街頭で活かされるべきものです。つまり、禅は社会を志向していますし、社会の意思決定の場である政治活動をも厭いません。
禅は世界に関心があり、社会をよりよくしたいから、必然政治を志向する
江戸時代の白隠禅師は困窮する農民のための救済活動や政治的懇願活動を精力的にやっていますし、夢想疎石は鎌倉時代~南北朝時代~室町時代という乱世のなかで政治的に闊歩して活躍しています。禅宗は鎌倉武士の精神的支柱であり、円覚寺を開山した無学祖元はそのリーダーとも言うべき存在です。明治の今北洪川や釈宗演や昭和の山本玄峰のように近世でも政治家の参禅を受けている禅僧もいます。
つまり、
禅は政治的であっていいし、そうあるべき
ということです。
政策提言活動を訴える世界的禅僧
現代の世界的禅僧であるティク・ナット・ハンは、その著書でやはり政治的働きかけをすることの大切さを言っています。この著書では、現代人の食生活の問題を取り上げているので、食品表示や食品化合物といった問題についてでのアドボカシー活動(政策提言活動)について述べられています。
禅は山中にあるべきではない
選挙に行くこと、デモ活動に参加すること、アドボカシー活動を行うこと、すべてはあなたの自由です。山中隠居の哲学と思われがちな禅ですが、実際には生活~社会~政治の実践を志向した生きた宗教であるということです。
【参考】「禅は社会のなかで生きるべき」という禅語はこちらから
まとめにかえて
禅の基本ワードとして正しい理解が必要な「主人公」をみてきました。実践は身の回りの小さなことから、社会的なこと・政治なことまで色々考えられます。ぜひ小さなことからコツコツとやってみてください。
いつもと変わらない街並みも、走りだせばランニングコースになる。
監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
コラム:常に同調では面白くない
映画やドラマの主人公、というときの主人公。禅語では、自分の仏性と向き合った上での主体的で自由自在なる人のことをいう。とかく主人公のごとく振る舞うといえば、自己中心的な人ということで人に嫌われるときの言われ様である。映画の主人公を気取られて振る舞われては周囲は困ってしまう。脇役や黒子のような人、といえばおよそ万人の受けはよさそうである。しかし、まったくの主体性がなく、自由さのない人というのも実際には嫌なものである。
常に同調では面白くないし、特に何ともない人とは話をしていても面白くない。それぞれがそれぞれのごとく孤明歴々とありたいものである。禅ではこの主体的な生を強く尊重する。伸びやかに生き、師匠をぶっ叩いて生きるような。殺仏殺祖の世界である。別に釈尊も師匠も殺されたいわけではないが、崇め奉って無分別・無志向で追従することなかれ、ということである。逆に、仏性なき自己主張のみの主人公は駄目なわけである。まったく伸びやかに周囲と調和して生きる。理想である。それができるだろうか。簡単ではない。しかし、儒家のような強い上下関係・主従関係からはまずは自由であるべきということではないだろうか。自分自身の本来と向き合う主人公であれ、と。少し複雑で奥のある主人公がそこに立っていることになる。
参考文献:「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)
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