「白雲起峰頂」(はくうん ほうちょうにおこる)の意味とは:衒い(てらい)のない様子の魅力を謳う
読み方とイメージ
白雲(はくうん)、峰頂(ほうちょう)に起こる、と読みます。
白い雲が山の山頂に現れている様子です。
含意
面白い風景ですが、雲も山も意図するところは何もありません。
無作為、無心です。
いわゆる、衒い(てらい)がない、「外連」(けれん)がない、あざとさがない様子です。
子どもの頃はそういうことが誰でもできていたのだと思います。
いわゆるわざとらしさのようなものがない状態です。
思索のないさま
衒いとは、
・ことさらに才能や知識をひけらかす。実際以上によく見せかけること
外連とは、
・見た目本位の奇抜さを狙った演出
です。
あざとさとは、
・抜け目がなく貪欲
・小利口で、思慮が浅い
これらがまったくない様子を山頂にかかった雲に重ねてみているのがこの語です。
没頭しているさま
特に見られているという意識のない人のさまは魅力があります。
没頭している様子です。
禅では花が花として、花を全うしている様子を大切にします。(柳緑花紅)
この時、花はそうしようとも思わずにやっているところがポイントです。
集中してやり切りつつ、そのことすらも忘れてしまうような無心の状態です。
近しい意味の禅語
濟其美(そのびをなす)
伝統の形式を次代に継承していくことという意味から派生して、そのものの本質的な特質・良さ・魅力を引き出すという意味合いが強調されて用いられます。
(解説記事はこちらから)
赤洒々(しゃくしゃしゃ)
そのままの姿で穢れのない様子を示す禅語です。ありのままを美しさと捉え、理想と考えます。
(解説記事はこちらから)
如是(にょぜ)
「かくのごとし、このとおり」という禅語。(解説記事はこちらから)
実践編
山頂に現れた雲は、まったく何のてらいもありません。
- 全力で何かに打ち込んで集中する
- てらいのない笑顔(さっぱりとした)
- けれんみのない文章(飾り立てたところのない)
といったところが目指すところになります。
逆にやってはいけないことはこんなことです。
- 見栄を張って自己顕示が強い
- 鼻に掛けた態度
- 人目を気にして集中できてない
- 目先の事でこざかしい
まとめ
無心で取り組んでいる姿は美しいものです。集中しつつ、そのことを意識しなくなるような状態、
簡単ではありませんが、誰しもまったく経験がない状態ではないかと思います。時を忘れて、何かに取り組んでみてください。
監修者:「日常実践の禅」編集部日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。禅語解説の記事執筆やオンライン座禅会を開催しています。
コラム:
茶道具に関して、およそ道具に係る文脈は道具茶に陥りがちであるから、十分に慎重さが求められるが、それでも品よくまとまった道具はよいと思う。主人がよいと思ったものが素朴に表れているのがよい。
珍品主義と並ぶ、茶道の二大陥穽が形式主義であるが、およそ形式や慣習に則り、定型的に季節感など取り入れたり、文脈が過多であったりするのは、うんざりである。平板な道具に、一点だけいわくつきの物があればそれで充分である。書が第一だろうが、道具もいちいち作やら銘やらを珍重するのは何の意味があるのだろうか。道具そのものをみることができないとき、そうした周辺文脈の雑念ですがって道具をみることになる。
そのものを自らの心で迫らなければならない。銘をいちいち打つのも、打つ方の感性としていやらしいものだ。柳宗悦が強く主張する民芸の美しさには、大いに賛同するところがある。民芸には銘などないし、私の作品だのごとき、おぞましい私心がない。ルネサンス芸術の美術家たちが、名のない職人として創作にあたっていたように、作り手は私を捨てて、一切の望みを捨てて創作に挑んでいるときに素晴らしいものができる。私が作ったと作り手が言うのも、使い手が聞くのも、こうした民芸や工芸文化からみれば著しい退化である。
柳は民芸品の美しさに源泉を、いいものを作ってやろうといった心がなく、上手くできないという悩みもなく、ただ日々の単調な(しかし熟練した)仕事における退屈や鬱屈、墳りのなかの作業に置いている。ダンテの地獄の門には、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」とある。銘打つ作り手は、地獄の門を通る前段階にある。死ねていないのだ。
死人の仕事には無なのか空なのか、詫び寂びなのか、そうした美が表れる。この時その美は、私たちが生来持っているものそのものであり、それに対する親しみとでもいうものである。すなわちそれは死である。私たちは死ななければならない。そう、まずは布団の上で。
<参考文献>「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)
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