「不立文字」(ふりゅうもんじ)の意味:言葉で伝えられないし、言葉で理解できないものがたくさんあるという禅語
不立文字はふりゅうもんじと読みます。
禅の基底をなす言葉で、「文字は役に立たない」という意味になります。すなわち、ひたすら体験・体得せよということになります。逆に人に教えるにも幾ら説いても無駄だ、ということになります。
素晴らしい知恵や考え方を書き残すことができない
禅は経典をある意味否定しているということであり、真理は人から人へ体験によって伝承していくものだと考えます。素晴らしい知恵や考え方を書き残すことができないのでしょうか。書き残したものによってそれを知ることができないのでしょうか。検証してみましょう。
言葉で伝えづらいもの
時に話しても分からないものというのに突き当ります。なんでも話さなくても分かることがあるのに、不思議です。何を言っても分かりあえない人というのもいますし、誰とも共有できない事情や感情というのもあるものです。では、言葉では誰とも共有できないこととは具体的にどんなことがあるのでしょう。
例えば、自転車の乗り方
自転車に乗れない人は全人口の1%ほどいるそうです。99%の方は自転車に乗れるということですが、自転車に乗れるという方はその方法を乗れない1%の人に説明してみてください。
文章にしてみてもいいですし、口頭でも構いません。片足をペダルに載せて、ペダル載せた足でペダルを踏みこみながら反対の足で地面を蹴り出してスタートを切ります。そうして、今度は地面を蹴った足もペダルに載せて、そのペダルが・・・。なかなか大変ですね。図示してもいいですが、やはり大変ですね。
練習すればいいから、となってしまうのが通常ですし、その方が早いし親切です。
不立文字が否定するもの
人に話して理解してもらえるという考え
人に話すことで理解してもらえないものもかなりあるということですが、しかし一方で人は話して理解してもらおうと努力したり、話して理解してもらえないことに落胆したります。話しせば理解してもらえるという考え方の前提があるからです。しかし、実際にはそんなことはないと戒めるのが不立文字です。徹底自力の宗教である禅では、人に理解してもらえるというような甘い考えを認めません。
つまり、自分自身の問題は自分固有の問題であり、その状況を理解できる人も解決できる人も自分以上の適任者はいないという事実と向き合わなければなりません。
人の成功体験(または失敗体験)から何かを学ぼうとする
人から言葉や文章で教えてもらったことを禅では軽視します。例えば、乾屎橛、絶学といった禅語にその思想が現れています。
逆に自分が試行錯誤して掴んでいくプロセスを、禅では非常に重視します。(例えば、工夫、楽亦在其中)
本や映画に影響を受ける
映画や小説はフィクションが多く、ノンフィクションであっても必ずしもそのまま事実の通りということではありません。制作者の意図があって、こう感じてほしいという制作者は考えて作ります。仮に事実であったとしてもあなたとは本来関係のないものです。あなたの解にはまったくなりません。私にとって示唆に富むないようだったと考えるなら、勘違いであり、方向を間違え始めてしまったということになります。
まとめ
教科書や人のアドバイスからの学びを否定する「不立文字」という考え方は厳しい教えてではありますが、自分なりにやっていくことを大切にしてくれる人生を愉快にする言葉でもあります。第三者視点でどうこうというような評論家的態度、一般的にはこうすればよいというような客観的態度を厳しく否定し、失敗しながらも自分なりに考えてやっていくことの貴さを徹底擁護してくれるのが禅であり、不立文字です。
今日の実践を期待しています。
監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。禅語解説の記事執筆やオンライン座禅会を開催しています。
コラム:文字は偉いのか
茶道では、掛物、つまり掛け軸に頭を下げる文化がある。書いた偉い人とその言葉に頭を下げるということである。なかなか日本的でよい?そうだろうか。およそ茶席では書いた人がどのような人なのか、またその言葉がどのような意味なのか、深く掘り下げるような話をすることはあまりないし、およそそのことが十分に理解できているとも思えない。さらに掛け軸の書には、字の巧拙よりも誰が書いたかが重要という文化がある。上手な書道の先生よりも、名寺の管長の字を有難がるということである。
私は、言葉の意味を理解しているのかも怪しい僧侶の、特に心のこもっている様子もない書がありがたいとは思わない。上手な字、しかも何度も書いて書き上げた渾身の一筆の方が有難いと思う。いい加減な字で、字の大小がバラバラだったり、中心がずれていたり、大きさのバランスが悪かったり、書き直せばよいのにと思うことがある。これを大切にする、大枚を叩いて入手するとは不思議な文化だ。特に書き直しもしない、走り書きの一筆のバランスの悪いものを、味だとか風情だとか言って有難がるのは、酔狂に思える。酔狂どころか狂気である。そのものに対する美しさを感じる感性が異常をきたしてしまっている。書き手の精神を掴む素直な感性が欠如してしまっている。何やら偉そうな人を貴ぶという、間違った社会的感性に支配されてしまっている。
私は、茶席の軸は、主人が自分で書くのがよいと思っている。主人は自分で書くからその意味をよく知ろうとするし、その意味を客人と共有しようとするだろう。客人も主人自ら書いた字の意味をしろうとするし、そのひと手間を有難く思うことだろう。別に客人はそれに頭を下げる必要はない。茶道具のなかで軸は最も重視するのは、小堀遠州をはじめほとんどの識者の共通認識であるし、それはよいことだと思う。字を書いて、それに親しむというのはなかなか面白い習俗ではないだろうか。イスラム圏ではカリグラフィー、すなわち文字を美術的に表装する建築や美術品の様式があるが、茶道における書はすこし形は違うが、素晴らしい文化である。
しかしそれが、つまらない価値観に支配され、その貴い文化を堕落させてしまっては残念この上ない。何代目の某氏が書いた物だから有難い、高かった、意味はよく知りませんが、というのでは困る。何十万も何百万も払って掛けるお軸が本当に素晴らしいのだろうか。主人の一筆に期待したい。もちろん美術品としてその価値があるものもあるだろうが、精神文化を経済化し、私的親交の場でそれを飾ってどうするものだろうか。それよりも半日かけて、語り合いたい、もしくは共有したい禅語を主人に全力で書いてもらえたら、これは素晴らしいことだろう。私は頭を深く下げることだろう。軸を基点に、茶席の世界はもっともっと深くできると思っている。他の茶道具は、おいそれと作ることはできないし、専門家が作ったものを調達すればよいし、持っているものがすでにあればそれを使えばよい。親にもらった、友達にもらった、百均で買った、何でもよいではないか。いずれも面白い因縁であるし、作や銘などの一般的な文脈よりも、主人独自の文脈に興味がある。
そしてそのことが尊いと思う。書は他の道具と比べれば、表装はさておき簡単に作ることができる。そう、そもそも書は道具ではないのかもしれない。使うものではないから。字の巧拙を言う人もあるかもしれないが、そんなことよりと、私は思う。ならば書きたい字を上手な人に、書道の先生に頼むのもよいだろう。しかし、客人がまともな人であれば、主人が何度も失敗して書いた、しかしながら巧くない字に真のもてなしを感じ、その字の意味を楽しみ、主客の心の交流に喜びを感じ感謝するだろう。もしそのようなことがよく行われるようになれば、茶席の準備の第一が掛け軸になり、それを書くことになるだろう。
道具を選ぶこと、茶や菓子を準備すること、点前の滞りなさに万全を期すことなど、およそ二義的なものに心を捕らわれず、より書の持つ精神的な世界の準備に充実をみることになるだろう。およそ今上げたような事柄は、表面的で自分の関与する度合いが小さい。茶を育て、詰むというところからやるとか、菓子を作るところからやるというなら話は別であるが、そういう人は少ないだろう。
茶事において料理を自らするのが本来で、これは先の事柄よりもはるかに貴い。道具屋に行って道具を調達するよりも、八百屋に行って、或いは山や畑に行って食材を調達し、ひと手間かけて客人を想い料理をするというのがよろしいことは万人の一致する見解だろう。そしてそれにも増して掛物は大切だろう。自らの手がどのようにその茶席のために動いたのか、掃除などもそうであるが、その動いた手の量が、すなわち茶席の立派さである。美しい部屋、主人の書、主人の料理、ぜひ伺いたい茶席である
<参考文献>
「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)
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