百花為誰開(ひゃっかたがためにひらく)の意味:何のためでもなく、ただ無心でやり切る
禅語「百花為誰開」の意味について解説です。
花は誰のために咲いているのか。
禅問答のような問いかけですが、いわゆる反語で答えはもちろん「花は誰のために咲いているのではない」ということになります。
出典
出典 碧巌録 第五則「雪峰尽大地」です。
碧巌録では、「百花春至為誰開」(百花春至って誰が為にか開く )となっています。
しかし禅語は省くことを好みますから、「春至って」を取ってしまって、百花為誰開として用いることが多いです。
読み方
色々な読み方がありますが、1番が最も一般的かと思います。
- ひゃっかたがためにひらく
- ひゃっかたがためにかひらく
- ひゃっかだれがためにひらく
- ひゃっかだれのためにさく
4番のような口語自由訳で読んでも、まったく問題ありません。
意味が取れることが大切です。
意味
花満開の場面に出くわして、おもわず感嘆の声が出そうになることがあります。
この語は、そうした花の美しさに注目するのではなく、
「こんなにキレイな花々は、だれにために咲いているのだろう」という、
いわば禅問答のような一言です。
もちろん答えは、「誰のために咲いているわけでもない」です。
つい、「~のために」とやっていないか
何かのためにやるのではなく、誰かのためにやるのではなく、ただ無心で精一杯やり切るという精神です。
「何かのために」やることは、そのことを考える分だけ、余計なことをしていると考えます。
- 誰かのためになるから
- ひ自分のためになるから
- 将来のために~
- 家族のために~
- 社会のために貢献する
こうした一見よさそうにみえる「~のために」をズバッと切り捨てる潔さは、禅の特長と言えます。
バラは、ただ全力でバラをやっている
これは禅とよく似た思想を持つ、エマーソンの言葉です。
バラがあるがままに咲いている。
咲きこぼれるバラを見ていると自分が恥ずかしくなる。
よく見れば花びらが欠けたり、少し萎れていたりと色々だけれども、
どのバラも、他のバラを気にかけたりはしない。
バラには勇気と自信があふれており、
もはや勇気とか自信といった言葉さえ感じさせないほどだ。
ただ、花が花をしている。ただ無心に、何も考えずに全力で花をやっている。
こういう計らいのない姿を禅は理想とします。
実際の様子を考えてみよう
話が「花」や抽象論のままだと、実際にやることを考えづらいと思います。
そこで、具体的な様子を思い浮かべてみることにしましょう。
子どもはみんな出来ている
例えば、子供のころは皆それができていたのだと思います。
自意識とか、社会的な視線ということなしに、ただそのことをやっていました。
ありのままの姿というのが禅の理想です。
スポーツをしているとき
集中しきった様子というのは、魅力的です。
花が花をやっているように、スポーツ選手が競技に集中していたり、アーティストが創作に集中していたりする様子です。
あなたもあなたをやり切れと禅は促します。
完全にそのものになりきる
有名な「弓と禅」の一説です。
どのように弓を射るかという技術論ではなく、矢になれという禅ならではの考え方です。
あらゆるものは一体であること、言葉は不要であること、こうした考え方を昇華した言葉として、分かりやすいのではないかと思います。
「花」を用いた禅語
「花」は禅語では度々用いられます。
基本的には「人の生き方」になぞらえたものがほとんどです。
文脈によって色々な生き方を教えてくれますので、それぞれ楽しんでいただければと思います。
- 花看半開(はなは はんかいをみる)
- 桂花露香(けいかはつゆもかんばし)
- 柳緑花紅(やなぎはみどり はなはくれない)
- 落花随流水(らっか りゅうすいにしたがう)
- 梅花和雪香 (ばいかゆきにわしてかんばし)
- 花知鳥待花(はなとりをしり とりはなをまつ)
- 三冬枯木花(さんとう こぼくのはな)
まとめにかえて:今日実現しよう
以上、「百花為誰開」の意味を考えてきました。
最後にいつものように今日の実践を想定してみましょう。
誰のためにもやっているともない、そのものになり切った姿
これを今日あなたが体現できるか、言葉が言葉だけで終わってしまっては禅ではありません。
実際に自分がそのようにやってみること、これが大事です。
ぜひ、あなたが花のようになれる瞬間を作ってみてください。
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
参考文献:「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)
画像の一部:https://pixabay.com/
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もっと短い禅語
禅語は基本的に短いものが多く、しかしながら意味が深いのが特徴です。
突き詰めると、たった一字でも味わい深い意味が生じるのが禅の世界です。
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- 「一」:一とは自分自身のこと
- 「風」:目に見えない、とどまらないもの
- 「月」:禅では悟りの喩え
- 「夢」:一切は夢という現実
- 「無」:無を強調するのは禅の特長
- 「道」:道とはすなわち禅の道
- 「雪」:禅は冬の宗教
- 「心」:何はなくとも心が大切と考えるのが禅
- 「坐」:座禅が“禅”の基本。しかし執着はしない。
- 「雲」:消え去る雲に捕らわれるな
- 「山」:静寂にして不動
- 「花」:何も考えずに生き抜く美しさ
- 「茶」:日常生活のメタファー(たとえ)
- 「水」:老荘の影響を受けて水は良きもの。川を意味する。
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編集部コラム
野山の花が咲き誇る。それは誰のためでも自分のためでもない。確かに種の保存という理由を理由として挙げることはできるだろうが、それは後付けの理由で、むしろなんの目的も狙いもなく、ただただ咲いていると。それは全体としては壮観の限りである。
花には花の都合もあるし、その花びら一つひとつにも、葉の一葉一葉にも、それぞれ事情がある。それぞれに根があり、根は地面に文字通り根差しているが、その周りには幾多の虫や微生物が暮らしている。花は風に吹かれるし、陽に照らされる。それぞれの花にそれぞれの周辺が広がっている。そしてそれぞれの花が折り重なって、複雑な協調が育まれ、我々の眼前に広がっている。
大変な生の重なりであり、そのいちいちを詳らかに見てみれば、自然の闘争の集合であり、生の喧噪に溢れかえっているともいえる。しかし、一方で心静かに向き合ってみれば、実に静かな限りである。それぞれの構成要素もいちいち静かに佇んでいるし、総体としても静かな限り、風に吹かれて花が揺れようとも、風も含めた全体は何も動いていない静であり、寂然そのもの、死ともとれる涼やかさ。百どころか幾千、億兆の多は、すなわち一のごとく、またその一は多のごとくあって、捉えように捉えようがない。ただ、野山に花が咲き誇っているだけだ。