座右の銘に!心に響く漢字一文字:禅が贈る素朴で深い言葉

漢字一文字でも濃い意味の言葉がいろいろあります。

禅の世界では禅語と呼ばれる短い言葉があり、この背景には禅が無駄な装飾を嫌うことがあります。

つまり、本来長かった言葉がどんどん短く、そぎ落とされて禅語が形成されているという経緯があります。

それゆえに短く端的な言葉は禅が得意とするところです。

禅の一文字漢字がよい点

  1. 短いけれど深い意味がある
  2. 2字以上組み合わせて意味を拡張できる
  3. 自分のためになる意味を持っている

漢字一文字はとても潔く、いろいろな使い方ができます。

禅の宗旨に適いますし、漢字一字が気になっている時点であなたはZENのセンスがあるとも言えます。

一文字禅語の用途

  1. 座右の銘としてすぐに思い出せる
  2. 書道で使えばシンプルで力強い言葉になる
  3. 禅語の基本となる言葉なので、他の2字以上の禅語の理解に役立つ

このページでは約20個の一文字禅語を紹介していきます。

最後には一文字をさらにそぎ落とした究極の0文字禅語も紹介します。

それではラインナップです。

初級編:自然に禅を見出す一文字

禅は自然のものを人に見立てたり、人の生き方を見出したりします。

独特の自然の切り取り方で特徴があるので、それをまず確認しています。

「月」:禅では悟りの喩え

「月」は悟りの象徴です。

特に満月は「欠けることなく、余すところのない完全円満の姿で、真如・仏性・実相などのシンボル」とされます。(『馬祖の語録』(入矢義高、筑摩書房))

『信心銘』には「円(まどか)なること大虚に同じ 欠くること無く餘ること無し」とあります。

この「月=悟り」という公式を覚えておくと、他の禅語や禅画を理解する助けになります。

月についてはこちらのページにもまとめていますので、チェックしてみてください。

「月」は清風と組み合わせて禅味が高まる

清風払明月 明月払清風(せいふうめいげつをはらい めいげつせいふうをはらう)

「清風払名月」だけで用いられることも多い言葉です。

短い方が禅語らしい切れ味が増しますが、下の句の「明月払清風」も加わると味わいが増します。

清風は「風」の項で説明したように、こだわりなくモノに執着しない潔い生き方を意味します。

名月は「月」の項で説明したように悟りの境地を表わします。

すなわち、「さっぱりとした生き方は悟りに境地につながるし、悟りの境地に至ればこだわりやモノへの執着はなくなる」という意味です。

「明月清風共一家」も同じ意味でが、この後紹介する「水和明月流」の意味も兼ねます。

2つの意味を併せ持った禅語は珍しいです。

禅語は禅らしく、どんどんそぎ落として短くした言葉がほとんどのため、実際好んで用いられるのは、「清風払明月」や「水和明月流」です。

月白風清(げっぱくふうせい)

「月白く風清し」と訓読みしても構いません。

同様に月は悟り、風はさっぱりした心持ちのことです。

この意味合いを、9月の涼しい風を感じながら月を眺めて味わうところに禅語の醍醐味があります。

禅語は具象的な表現で高度に抽象的な意味を持つということが多くありますから、その両方が捉えて、頭と体で意味を捉えていくというのが禅語の狙うところに適います。

「月」が水面に映る様子は禅の人気テーマ

水和明月流(みずはめいげつにわしてながれる)

水は川のことです。

川の水面に映った月を表した言葉で、「川の水が名月と一緒に流れている」という意味です。

ここでの月は悟りではありません。

この語には上の句「天共白雲曉」(てんははくうんとともにあける)で、「夜明けの空は雲とともに明ける」という意味です。

すなわち、「同じ道を歩むものの天然のままな偕和の風光」と解釈するのが一般的です。(『禅語辞典』(入矢義高)、『茶席の禅語大辞典』(有馬頼底))

すなわち、「把手共行」(はしゅきょうこう、てをとってともにいく)と同じ意味で捉えます。

直接的な「把手共行」は禅味が強く、情景で例えた「水和明月流」は茶味が強めの言葉と言えます。

シーンや好みに合わせて座右の銘、茶掛けの禅語としてお使いいただけます。

水急不流月(みずきゅうにして つきをながさず)

ここでも水は川のことで、「川の流れが急だけれど水面の月は流れていかない」という当たり前のことを謳った言葉です。

読み方を「水急にして月は流れず」と間違って読むことがありますが、その場合には「水急月不流」にならなければなりません。

月が主語なのか目的語なのかの違いです。

この違いは意外と大きく含意の取り方が変わってきます。

「水急月不流(水急にして月は流れず)と間違って読むと、「川の流れは急だけれども、月(悟り)は不動である」と捉えることになります。

しかし、ここは「水急不流月」(水急にして月を流さず)で、「川は川として急な流れを作っているけれども、他のもの(この場合は月)を邪魔したりはしない」と捉えて、それぞれがそれぞれに個性を発揮しているさまを謳った一語として捉えるのが自然です。

「柳緑花紅」(やなぎはみどり はなはくれない)、孤明歴々(こみょうれきれき)、「別是一家風」(べつにこれいっかふう)、「別是一壺天」(べつにこれ いっこのてん)といった言葉と同義ということになります。

掬水月在手(みずきくすれば てにつきあり)

ここでの水は川の水でなく、そのまま手にすくった水のことで、そこに月が浮かんでいるという何とも詩的な禅語です。

実際元々の出典は禅書ではなく、于良史の詩です。

しかし禅のこころを表現した一節ということで、その後に禅宗でも度々用いられるようになったという経緯があります。

この解釈はいろいろありますが、「明珠在掌」(みょうじゅたなごころにあり)と同じ意味で捉えたいところです。

禅では「月」は悟りの喩えです。

悟りとはいかに?

禅問答で「悟りとはいかに?」と聞かれたらなら

手で水をすくってみせるという回答はよさそうです。

「明珠在掌」は「大切なものはすでに手のなかにある」という意味で扱われます。

すなわち「私自身が仏である」ことを伝える語であり、これは「一」の意味と同じことです。

「悟りとはすでに手のなかにあるものだ。すなわち自分自身が仏であるということ。このとおり、月(悟り)は手に入れてご覧にいれます」

といった解釈がかっこいい詩的文脈に沿ってよろしいかと思います。

「月」を大胆に扱う悟りの境地

月落不離天(つきおちて てんをはなれず)

月は沈んでも消えたように見えるだけで、また昇ってきます。

この語には上の句があって「水流元在海」(みずながれ もとうみあり)です。

こちらも合わせて読むと意味がよく取れます。

水は川のことで、「川がどう流れて海に必ず帰っていく」という意味です。

根源は変わらないという言葉は「一」の解説で例示する言葉でもよく示されています。

すべてが「一」に帰す

  1. 万法帰一(ばんぽうきいつ)
  2. 万法一如(ばんぽういちにょ)

こう考えると改めて「一」とは何かということになっていきます。

釣月耕雲(ちょうげつこううん)

同義の言葉で「耕雲種月」(こううんしゅげつ)という言葉もあります。

釣月耕雲は「月を釣り雲を耕す」と訓読みしてもよく、耕雲種月は「雲を耕し月を種(う)う」と読んでもよいです。

大変な努力の積み重ねを示す言葉というひどい解釈が流布していますが、実際に意味合いは大きく異なります。

詳しくはこちらをチェックしてみてください。

「風」:すがすがしい風に吹かれる

風は禅が好む言葉の一つです。

何も持たずにたださすらうだけという禅の理想と重なるため、度々用いられます。

ただ「風」で用いられる場合と、すがすがしい風「清風」として用いられる場合があります。

「風」はさっぱりとした心持ちを表わす

下載清風(あさいせいふう)

原典は『碧巌録』で、「如今抛擲西湖裏、下載清風付與誰」とあります。

荷物を積んで重たい船の上で、「荷物を湖に投げ捨てて軽くなった。清風を誰に送ろうか」という一節です。

禅では「風」はモノを持たず心の悩みを持たずにさっぱりとしたさまを示す言葉としてよく用います。

この語はそれをかなり直接的に表現しています。

「心の荷物を下ろして、心を軽やかにして清々しく」という意味です。

破襴衫裏包清風(はらんさんりにせいふうをつつむ)

襴衫(らんさん)は着物、破襴衫(はらんさん)では破れた着物ということになります。

そのようなボロボロの着物ですから、裏地すなわち破襴衫裏(はらんさんり)を縫い繕う必要があります。

綿でも入れるべきところを、ここでは清風を包むとしています。(清風を盛るとする語用もあります。)

寒々しくみすぼらしい、ひどい強がりのようにも思えます。

しかしここではただの風ではなく、「清風」です。

清風は執着のないさま・モノにこだわらない気持ちを表わす言葉です。

「着ているものが古かろうとも破れていようともそんなことは気にしない、大切なのは心である」という心意気を示した禅語です。

モノにこだわらないさまを強がりとも高圧的でもなく、実にすがすすがしくかっこよく表現しています。

「清風」系禅語は多くありますが、そのなかでも禅風と抒情性のバランスが取れた最高の一語だと思います。

穆如清風(ぼくとしてせいふうのごとし)

元々は『詩経』(大雅・民)の言葉ですが、禅でもよく用いられる言葉です。

「穆」は穏やかなさまです。

詩経で穏やかな様子を清々しい風に喩えているのは、周王朝の仲山甫(ちゅうざんほ)の政治運営のことを言っています。

禅ではもちろん、政治の話をするのに用いるのではありません。

多くの禅語同様、風を「何も持たずにさっぱりした心持ち」として用います。

禅では、モノにこだわらず何にも執着せず、穏やかなさまを表わす言葉になります。

「風」は大地を吹く

清風匝地(せいふうそうち)

「匝」が見慣れない言葉ですが、「匝(めぐ)る」と訓読みします。

したがって、「清風が地をめぐる」と読んでも構いません。

ここでの清風を同じく「捨て去った後のさっぱり感」を表わしています。

この語は『碧巌録』という禅書の第1則に出てきます。

禅宗の祖である達磨大師と武帝の有名なやり取りを踏まえて、「相憶うことを休めよ

清風匝地 何の極りかあらん」としています。

「(達磨大師のことなど)考えるな。心さっぱりとしてこの地を歩め」といったところです。

「清風満地」(せいふうちにみつ)も同義です。

千里同風(せんりどうふう)

中国後漢時代の思想家王充の書『論衡』に出てくるそうで、「天下太平のこと。広い地域にわたって同じ風が吹く意から」という意味だそうです。万里同風も同義です。

禅では少し異なる意味で用います。

離れた場所で暮らす雪峰(師匠)と玄沙(弟子)のやり取りです。

玄沙が雪峰に久しぶりに手紙を書くのですが、雪峰が手紙を開いてみると、何も書いてありません。

この手紙をみて雪峰が言った言葉が「千里同風」です。

私は全く変わりなく無事そのものです。

円如太虚で、何もお知らせすることがないのはよいことかと思います。

特に良い知らせもないのですが、好事無如というものでしょうか。

何事もなくまったく、日々是好日です。やはり至道無難なのでしょうか。

まず白紙の手紙の意味は、「無事」、「至道無難」、「円如太虚」、「好事無如」、「日々是好日」の意と理解してよいかと思います。

ここでの白紙の手紙の意味と同じ禅語

  1. 無事(ぶじ)
  2. 至道無難(みちにいたるにかたきことなし)
  3. 日々是好日(こうじなきにしかず)
  4. 好事無如(こうじなきにしかず)
  5. 日々是好日 (にちにちこれこうじつ)

この意を捉えて雪峰は「千里同風」と言いました。

いうまでもなく「天下泰平だ」という感想ではありません。

「千里離れていようとも同じ心持ちでやっているようだ。私と同様に何事もない楽しむ日々を送っているようだ。」と言っていることになります。

また、禅では「風は何も持たずにさっぱりした心持ちを示す言葉」でした。

二人は白紙の手紙でこうした清々しい心持ちを共有していたのかもしれません。

千里離れていようとも同じ心持ち

禅では不立文字といって文字を軽視しますから、そうした言葉にできない気持ちを白紙で表現したとも理解できます。

いずれにしてもここでの「風」は、気持ち・心持ちのことで、同風とは「同じ気持ち」ということになります。

千里離れていようとも同じ心持ち」というドラマチックで感傷を誘う意味合いのある言葉です。

離れて暮らすことになる友人や恋人、家族に贈りたい言葉です。

ただし、雪峰と玄沙のやり取りでは、涙ながらにというよりはほのぼのとやり取りされている点も留意していただけれると禅味がさらに増す使い方となります。

「雪」:禅は冬の宗教

「雪」は寒い冬を“逆境”と捉えて、使うことが多いです。

寒い冬の雪に負けない力を示す言葉がいくつもあります。

「雪」を用いた禅語

  1. 瑞雪満地 (ずいせつ ちにみつ)
  2. 銀椀裏盛雪(ぎんわんりにゆきをもる)
  3. 紅炉一点雪(こうろいってんのゆき)
  4. 雪晴天地春 (ゆきはれて てんちはるなり)
  5. 夏有涼風冬有雪 (なつにりょうふうあり ふゆにゆきあり)
  6. 好雪片片不落別処 (こうせつへんぺん べっしょにおちず)

禅宗では夏の暑さよりも冬の寒さを謳うことが非常に多いです。

従って、「冬」をそのまま使った言葉も多くあります。

「冬」を用いた禅語

  1. 夏炉冬扇(かろとうせん)
  2. 冬嶺秀孤松(とうれいこしょうひいづ)
  3. 三冬枯木花(さんとうこぼくのはな)
  4. 三冬無暖気(さんとうだんきなし)
  5. 三冬鉄樹満林花 (さんとうてつじゅ まんりんのはな)

「松」:禅といえば松

冬の寒さのなかでも緑美しい松と竹も禅の頻出語です。

雪と合わせて用いることもよくあります。

意味はもちろん「冬の厳しさに負けない生命力」です。

雪裏見高節(せつりにこうせつをみる)

雪裏は雪の中という意味です。

高節は常緑の針葉樹、松の枝を指します。

竹でもよいのですが、松の方が雪が積もるイメージが沸きます。

すなわち、「雪が降り積もり最中に、美しい緑を発する高い松の木を葉を見る」というのが直接の意味です。

「高節」は辞書では「堅い信念、気高い節操」と出てきます。

したがって、「厳しい逆境(寒い冬)に真価を発揮する堅い信念を仰ぎ見る」というのが含意です。

「青松多壽色」「松樹千年翠」など松の緑は長寿のシンボルでもあります。

「竹」:まっすぐであること

雪竹(せっちく)

雪に冴える緑の竹に、逆境で力を増す強さを重ねた一語です。

竹の禅語も数多くあり、「竹有上下節(たけにじょうげのふしあり」「竹密不妨流水過(たけみつにしてりゅうすいすぐるをさまたげず」など、まっすぐ伸びる竹のかたちが謳われることが多いです。

「梅」:寒さに負けない唯一の花として

松と竹とくれば梅です。

梅は最も寒い時期1-2月から花を咲かせます。

ゆえに松・竹と同様に「厳しい季節でも強い生命力」があるものとして用いられます。

松竹梅がめでたい理由、そして正月に用いられる理由がここにあります。

梅花和雪香(ばいか ゆきにわしてかんばし)

端的に冬に咲く梅のその生命力を謳った一語です。

梅は花よりもこのように香りをみることの方が多くあります。

「江路野梅香(こうろやばいかんばし」、「烟霞不遮梅香(えんかばいこうをさえぎらず)」などが梅の香りがテーマになっています。

「雲」:消え去るものとは

雲は消え去ってなくなっていくものの象徴として扱われます。

しかし、禅では消えてなくなるものは、はかなくてむなしいものとは考えません。

モノのお金も消えてなくなるもの、即物的なモノにとらわれずに本当に大切なものを大事にしようという意味で使われます。

本当に大切なものとは、もちろん仏であり、仏とはすなわち「(自分の)心」です。

「雲」はさすらう生き方を表わす

行雲流水(こううんりゅうすい)

水は川を意味し、雲が流れ川もまた流れるというのが直接の意味になります。

元々は流れるように書くべしという手紙の書き方指南に始まる言葉です。

転じて一般にはこだわらない生き方、禅の世界では何も持たずに流浪する禅僧の生き方を重ねます。

全国を行脚する修行僧を雲水と呼びますが、この呼び方の元となったのがこの語と言われています。

雲は流れて山にぶつかり雨となり、川を流れます。

川は流れて海に入り、そこで雲となり、山へと流れていきます。

このように行雲流水には一見同じにみえる循環の視点もあるように思えます。

非常に人気のある言葉で、人気の背景にはこのようないろいろな受け止め方ができることがあると思います。

臥月眠雲(がげつみんうん)

「つきにふしくもにねむる」と訓読みしてよく、その方が味わいが増します。

月や雲が見えるところで寝ている、つまり野宿かあばら小屋に寝ている様子をを示します。

粗末な一夜ないし暮らしですが、雄大に月・雲と暮らす超越的な時間でもあります。

厳しい修行の日々というよりは、自適のさすらいの生活と解する方が、苦行をよしとしない禅の宗旨に適います。

雲悠々水潺々(くもゆうゆう みずせんせん)

行雲流水と意味は同じです。

水の循環を示すような視座は消えますが、かわりに語感で心地よい自適のさまが伝わってきる言葉です。

悠々は「ゆったりと落ち着いたさま」、「潺々」は「浅い水がよどみなく流れるさま」を表わします。

雲無心出岫(くもむしんにしてしゅうをいず)

岫(しゅう)は洞穴の意ですが、ここでは谷あいと捉えた方が分かりやすいです。

雲が谷あいで形成され、風向きに従って形を変えながら山を登ったり、村へ下ったりしていきます。

まったくの無心でどうなるとも考えないこの自由自在な動き、千姿万態のさまに禅の理想を重ねた一語です。

雲冉々水漫々(くもぜんぜんみずまんまん)

冉々は「物事が徐々に行なわれるさま」、漫々は「広くはてしないさま」を表わし、雲悠々水潺々とは少し意味が変わってきます。

「雲」はさえぎるもの

「雲」は悟りをさえぎるものとして扱われることがあります。

その雲が過ぎ去った後の状態を表わすことが多いです。

雲去青山露(くもさってせいざんあらわる)

禅において山は人を表わすことがあります。

特に座禅をしている人を表わします。

ここでの雲は心を遮るものを表わしますから、この語は「雲が遠のいて山がくっきり露わになった」情景を用いて、「(座禅によって)心を遮るものがなくなって、はっきりと自分自身が明らかになった」さまを表しています。

萬里無片雲(ばんりへんうんなし)

地平線のかなたまで雲がない様子を表わす一語です。

晴天で雲がなく(心をさえぎるものがなく)、まさに「廓然無聖」(かくねんむしょう)の境地を示しています。

無山不帯雲(やまとしてくもをおびざるはなし)

心を遮る雲がない方がよいですが、雲を帯びない山(人)などないという語がこれです。

この語には上の句があって、「有水皆含月」(みずありみなつきをふくむ)です。

どんな川・湖も皆、水面に月を映すという意味です。

すなわちどんな人でも仏性(悟り)を持っているという意味です。

励ましと慰めを合わせた素晴らしい一語、『禅林類聚』第三に記されています。

ほかにもある「雲」を遮るものとする禅語

    「雲」は悟りを遮る存在であり、「その外に出る」という文脈の語が多くあります。
  1. 坐看雲起時(ざしてはみる くものおこるとき)
  2. 雲外一声雁(うんがいいっせいのかり)
  3. 雲開日影新(くもひらきにちえいあらたなり)
  4. 雲外渓声(うんがいけいせい)
  5. 雲外一閑身(うんがいいちかんしん)

「山」:静寂にして不動

山は動かないものの象徴です。不変であることを表わします。

禅では静かなものの象徴としても扱われます。

静けさはとても重要な重要で、このことは言葉の軽視・おしゃべりの忌避という禅文化につながっていきます。

人が座禅をしているさま、そのものとしても扱われます。

雨収山岳青(あめおさまってさんがくおあし)

上の句が「日出輝乾坤」(ひいでてけんこんかがやく)です。

禅では珍しく太陽が用いられています。

雨が止んで、美しい山が現れたという一語です。

「色々あったが、元よりあった素晴らしい仏性が明らかになった」という目出たい一語です。

山に対しては禅は常にポジティブな態度を採ります。

青山元不動(せいざんもとふどう)

下の句が「白雲自去来」(はくうんおのずからきょらいす)です。

すなわち、雲が行ったり来たりしているけれども、山は全く動かないという意味です。

山は不変の真理とも捉えられますし、座禅をしている私とも捉えることができます。

「山」の暮らしは静かそのもの

山静如太古(やましずかなること たいこのごとし)

北宋の詩人・唐庚(とうこう)の『醉眠』が出典です。

禅では「山」を静かで動かない存在としてよく用いますから、この一節も度々禅語として用いられます。

山靜似太古(山静にして太古に似たり)
日長如小年(日長くして小年の如し)
餘花猶可醉(余花なお酔うべし)
好鳥不妨眠(好鳥も眠を妨げず)
世味門常掩(世味には門常に掩い)
時光簟已便(時光簟に便ぐのみ)
夢中頻得句(夢中頻りに句を得たり)
拈筆又忘筌(筆を拈ればまた筌を忘る)

唐庚『醉眠』
山中無曆日(さんちゅうれきじつなし)

山の暮らしにはカレンダーは不要です。

正月も祝日も週末もありません。

暦がなくとも、体感で季節を感じることができます。

山空松子落(やまむなしくして しょうしおつ)

「花」:無心で咲く美しさ

山や川など自然を例えとして扱うことの多い禅のなかで、時に用いられるののが花です。

花は山や川と違って一つの生命として、つまり人と同じものとしていかに生きるかを伝える例えとして用いられます。

意味として花が何のてらいもなくただ咲くさまに、人が計らいなく生きることを重ねて謳うことが多いです。

「花」は無心で生きる

百花為誰開(ひゃっか たがためにひらく)
百花為誰開

「満開の花々が誰のために咲いているのか」といえば、もちろん誰のためでもないということになります。

何かのためでもなく、ただ咲くことにマインドフルネス(他を考えずに精一杯やり切りこと)を見出す一語です。

桂花露香(けいかはつゆもかんばし)

桂は木犀のことで、木犀の花は香りを楽しむ花でもあります。

その木犀についた朝露までもが香っているようだという一語です。

転じて徳をまとった人という含意で禅では用います。

落花随流水(らっか りゅうすいにしたがう)

花が落ちて川を流れていく様子で、まったく何の計らいもありません。

咲くのも無心、散るの無心です。

禅ではこのさまに人の生き方を重ねます。

「花」の生き方

花知鳥待花(はなとりをしり とりはなをまつ)

鳥を二回読む面白い言葉です。

一生懸命花をやっている花と、一生懸命鳥をやっている鳥の邂逅(かいこう)を謳っています。

それぞれがそれぞれらしくあったとき、その交わりはめでたいものです。

柳緑花紅(やなぎはみどり はなはくれない)

「りょうりょくかこう」と読みますが、訓読みも方が断然ピンときます。

風に吹かれる柳は涼しげで初夏はその緑が美しいですが、花がそのさまを競ってもしょうがありません。

花は花らしく、自分の花を咲かせるまでです。

三冬枯木花(さんとう こぼくのはな)

三冬は寒い冬で、その中の枯れ木に花が咲くという語です。

苦しい状況でもうだめかと思ったところで光が差し込むようなイメージです。

冬の雪のなかで咲く梅を謳うのと考え方は同じです。

枯木再生花(こぼくふたたびはなをしょうず)、枯木花開(こぼくはなひらく)など同義の語は幾つかあります。

花看半開(はなは はんかいをみる)

『菜根譚』の言葉ですが、禅でも時に用います。

不完全の美を表わした言葉です。

茶道で時に引用される「月も雲間のなきは嫌にて候」(珠光)や、吉田兼好の「花はさかりに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは」に通じます。

不完全・不均衡・非対称なものに自然美を見出す考え方が示されています。

花を用いた禅語はとても多いので、今後別ページで紹介していきます。

「花」を用いた禅語10選

  1. 不失花(うせざるはな)
  2. 錦上添花(きんじょうにしきをそえる)
  3. 花開蝶自来(はなひらき ちょうおのずからきたる)
  4. 白馬入蘆花(はくばろかにはいる)
  5. 山花開似錦(さんかひらいてにしきににたり)
  6. 花閑鳥自啼(はなしずかにして とりおのずからなく)
  7. 山寒花発遅(やまさむうして はなのひらことおそし)
  8. 花族々錦族々 (はなぞくぞく にしきぞくぞく)
  9. 春有百花秋有月 (はるひゃっかあり あきにつきあり)
  10. 春入千林処々花 (はるはせんりんにいる しょしょのはな)

「水」:流れ続ける川のように

水は、川や湖を意味で用いられることがあり、特に川の意味で用いられることは非常に多いです。

川の水は変化し続ける存在として、また不浄の存在として扱われます。

水を川と理解しておくと、禅語の理解が進みます。

「水」は川を表わす

水が川を表わすことが明確な禅語をみていきます。

水流元入海(みずながれてもとうみにいる)

川が流れて海に入っていく様子を示す禅語です。

「すべてが一に帰す」の意味で用います。

水声山色(すいせいさんしょく)

「川のせせらぎ、変わりゆく山の木々」というのが直接の意味で、いずれにも仏を見ることができるという含意で用いられます。

「山光水色」(さんこうすいしょく)の「水」も同じく川です。

同義の言葉に「渓声山色」(けいせいさんしょく)があります。

吸尽西江水(きゅうじんす さいこうのみず)

『馬祖語録』の「一口吸尽西江水」を省略した言葉です。

「西江の水を一口で飲んでやろう」という悟りの不思議な世界を表わした言葉です。

「水」を崇める老荘思想の影響

老子は「水」を理想のものとして度々取り上げています。

禅は、インド仏教が中国大陸に移入されたのちに形成されたため、中国思想の影響を多分に受けています。

儒家・易経の語も度々用い、特に老荘思想は禅の成立に大きな影響を与えています。

上善如水(じょうぜんみずのごとし)

良きものとは水のようであるという『老子』から取り出した言葉です。

原文からは水のどのような点が優れているかという点に関して、「水はいろいろなモノに役立ち、代替品がない。また水は下へ下へと流れて、卑しい場所に行こうとする」としています。

君子交淡如水(くんしのまじわりはあわきことみずのごとし)

『荘子』からです。

原文では、「小人之交甘若醴」(しょうにんのまじわりはあまきことれいのごとし)と続きます。

「醴」(れい)は甘い酒のことです。

つまり、水と甘い酒が対比的に用いられています。

大人の付き合いは、淡々として長く続き、小人の付き合いは甘さゆえに飽きて途絶えてしまうとまとめられています。

中級編:抽象度の高い禅の核心に迫る一文字

「一」:一とは自分自身のこと

一は禅では自分自身を表わすときに用いることがあります。

自分自身と向き合うことは禅宗以前、仏教が始まったときからの最大テーマです。

例えば臨済録には「自由」、「自信」といった言葉とともに、自分と向き合うことを促す言葉が続いています。

「一」を用いた禅の言葉を幾つか紹介します。「一」の意味が徐々に理解できてくるかと思います。

「一」(一人)からすべてが始まる

一滴潤乾坤の意味
一滴潤乾坤(いってきけんこんをうるおす)

ここでの「達磨大師」を指します。達磨はインドから中国に移り、そこで禅宗を起こしたとされる人物です。一滴潤乾坤は、「たったひとしずくが天地を潤す」という意味ですが、含意としては「達磨が中国で禅を広めた」ことを意味します。

転じてたった一人(自分)が世界を変えられるという言葉として用いることができます。

曹源一滴水(そうげんいってきすい)

大意は「一滴潤乾坤」と同じです。

一滴が達磨大師ではなく、達磨大師から数えて6代目の慧能(えのう)のことを指します。

一華開五葉(いっかごようをひらく)

同じく「一」は達磨を表わし、中国大陸で禅という花が開いたという意味で用いられます。

『少室六門集』や『六祖壇経』に記述のある言葉です。

「一」(一点)から世界へ

一花開天下春(いっかひらいて てんかのはる)

一つの花が咲いてもまだ春とは言えない気もします。

百花咲いて初めて春になるように思います。

しかし、最初の一花が咲かないと春は訪れません。

ここでの「一」は「一滴潤乾坤」「一華開五葉」と同様に達磨を意味するものではありません。

ここでの「一」はそのまま「自分自身」として捉えます。

世界の始まりに自分を置くという視点です。

自分の心の問題として、世界を考えることになります。

一点梅花藥 三千世界香(いってんばいかのずい さんぜんせかいかんばし)

「梅のつぼみ一つが全宇宙に香る」 という意味です。

これまでみてきた禅の世界観を踏まえると理解できる言葉かと思います。

「十方世界現全身」(じっぽうせかいにぜんしんをげんず)という禅語にも通じますが、「十方世界現全身」の方がより直接的な表現です。

いずれも世界中に自分自身を表現していくというパワフルでポジティブな言葉です。

道生一 一生二 二生三 三生万物(みちはいちをしょうじ いちはにをしょうじ にはさんをしょうじ さんはばんぶつをしょうず)

これは老子ですが、禅でも時に用います。

「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」と読みます。

考え方は上述と同じです。

道は禅の道であり、一を自分と捉える点は禅独自の解釈になります。

「一」にすべてが収束する

万法帰一(ばんぽうきいつ)

広がっていく視点に対して、戻ってくる視点も禅では大事にされます。

すべての法理は「一」すなわち「自分自身」という意味です。

萬法一如(ばんぽういちにょ)

「万法帰一」と同じ意味です。

如は「一切のものに通じる理法」のことで、禅では「主人公」、「本来の面目」と称したりします。

一二三四三二一(いちにさんし しさんにいち)

「四」は二回読みます。

すべては一から始まり、万物に発展するという壮大なストーリーと、あらゆるものが一に戻っていくズームインの視点を同時に現したのが、この語です。

「一二三二一」「一二三四五六七八九八七六五四三二一」でもよいとされますが、「一二三二一」ではズームアウト・ズームインのダイナミックな視点が伝わりづらく、逆に「一二三四五六七八九八七六五四三二一」では冗長に感じます。

「一二三四三二一」はそういう意味で短すぎず長すぎず、ちょうどよいのではないかと思います。

「一」(自分)にこだわる

一無位眞人(いちむいのしんにん)

やはりこれも臨済の有名な言葉です。

「無位」は「地位・名誉・財産・学歴・男女など」(円覚寺)が関係ないのがです。

真人は「本物の人」ということでいいでしょう。

「一」は一人の意味で理解せずに、「自分」と理解すると臨済の言いたいことが理解できます。

「君たち自身が仏なのだ」というのが臨済が何度も繰り返し言っていたことだからです。

釈迦が生まれてすぐに言ったという「天上天下唯我独尊」、死ぬ間際に言ったとされる「自灯明」も同じことで、常に「自分自身」から考えます。

一以貫之(いっしかんし)

「いちをもってこれをつらぬく」とも読みます。

ここでいう「一」は先ほど述べたとおり、自分のことです。

自分を貫き通すという意味です。

「夢」:一切は夢という現実

この語も禅の世界でよく用いられる言葉です。

ただし、禅では目標や将来の願望という意味で用いません。

いわゆる“夢を叶える”というときの夢ではありません。

禅の夢は、「人生など夢のようなものだ」という文脈で用います。

皮肉な言い方のようにも思えますが、冷厳な事実として受け止めて「ゆえに今日を全力で生きる」と結論するのが禅の思考回路です。

人生は「夢」。だからこそこの一瞬を大切に!

人生畢竟夢(じんせいひっきょうゆめなり)

「人生など夢のようなものだ」をそのまま表したのがこちらです。

畢竟(ひっきょう)は「つまるところ。結局」という意味です。

人生夢也 故護惜此一剎那(じんせいゆめなり ゆえにこのいちせつなをごしゃくせよ)

こちらは丁寧に「人生は夢だ」の後の、だからどうするべきかまでをまとめた言葉です。

護惜は「大切にする」、刹那は「瞬間」という意味です。

人間是非一夢中(じんかんぜひいちむのなか)

出典は良寛の「半夜」という詩です。

人間は「にんげん」と読んでもよいですが、ここでは我々の住む世俗社会のことを言っているで「じんかん」と読むのがよさそうです。

意味は、「人々の暮らす世界における是・非というのは夢のようなはかなく虛しいものだ」です。

是・非は正邪、貧富、美醜、巧拙、長短、勝敗といったものです。

こうした我々が日々普段駆られている価値判断の一切を夢だと切り捨ててしまう言葉です。

良寛はこんな歌も残しています。

いにしへを思へば夢かうつつかも夜はしぐれの雨を聞きつつ

良寛

夢と雨音という現実とのコントラストが鮮やかです。

仏教もまた「夢」

元も子もないことを言いますが、冷厳な事実と向き合うことが禅の本質です。

一切が夢、ならば今日力を全うしようと考えられるかどうかが力量です。

一切有爲法 如夢幻泡影 如露亦如電 應作如是觀

(いっさいのういのほう むげんほうようのごとし つゆのごとくまたいなづまのごとくし まさににょぜのかんをなすべし)

出典は『金鋼経』です。

一切の理屈は夢まぼろしであり、泡のように、露にように、雷のようだ。このように世の中・物事をみるべきだ

禅で使う「夢」はここが原典と言えます。

弥勒夢観音亦夢(みろくもゆめ かんのんもまたゆめ)

戦国時代から江戸初期の禅僧沢庵の辞世の句です。

『金鋼経』がベースにあることが分かります。

百年三萬六千日 (ひゃくねんさんまんろくせんにち)

弥勒観音幾是非 (みろくかんのんいくぜひ)

是亦夢非亦夢  (ぜもまたゆめ、ひもまたゆめ)

弥勒夢観音亦夢 (みろくもゆめ、かんのんもまたゆめ)

仏云応作如是観 (ほとけいわくまさににょぜのかんをなすべし)

沢庵

百年三萬六千日は、人生100年生きても36,000日程度だという李白の詩から取っています。

「是亦夢非亦夢」が抜き出されることが多いのですが、ここでは「弥勒夢観音亦夢」を取り出してみました。

仏も何も夢であるという強烈な言葉ですが、臨済以来、或いは達磨以来、先人の権威化を避けてきている歴史が禅宗や臨済禅にはあります。

沢庵の末期

自分の死後の始末についてはこのように語っています。

「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」

自分の権威化も避け、まさに沢庵自身も夢であるとすることを徹底した言葉です。

没蹤跡(もつしょうせき)
断消息(しょうそくをたつ)
白雲無根(はくうんこんなし)
清風何色(せいふう なにいろぞ)

『従容録』74則

「無」:無を強調するのは禅の特長

何もないことは素晴らしいこととされます。

一文無しでも素晴らしいのかと聞かれそうですが、実際それを素晴らしいとする語もあります。

無は禅の最大テーマの1つで、無でなくても少ないこと、数字にこだわらないことはよいとされます。

禅が強調する「ない方がいいもの」に、学ぶことがあります。

あらゆる規範や宗教は学ぶことの大切さを強調しますが、禅では学ぶことはよいことではないと考えます。

無学、無文といった禅僧もいるほどです。

「無」いことはよいこと

無着(むじゃく)

着は執着の意味です。

すなわち無着とは執着しないことを意味します。

「無住」「無所得」などの言葉のこの意味で使います。

無礙(むげ)

礙はさまたげるもののことです。

したがって、無礙はさまたげるもののない「自由自在」の境地を言います。

無事(ぶじ)

何も取り立てたことがないことを言います。

好事不如無(こうじもなきにしかず)

良いことも含めて特に何もない方がよいとするのが禅です。

わずらわしいだけと考えるためです。

まさに「無事」と整合する一語です。

無隠(むいん)

隠れていないのは大切なもののことです。

「在眼前」といって、素晴らしいものは目の前にあると考えるのが禅です。

詰まるところ、それは自分自身であるとするのが禅の宗旨です。

目指すべきところを打ち消す「無」

別無工夫(べつにくふうなし)

禅では工夫をすることを促します。

直接的には禅問答の公案に対する回答を考えることを工夫と言います。

同時に禅では日常生活を全うを求めますから、日々の生活における工夫をよしとします。

しかし、この語はそれは不要と言っています。

「工夫しよう!工夫しよう!」と凝り固まることを諫める一語です。

「無着」や「無礙」と表裏をなします。

別無聖解(べつにしょうげなし)

聖解とは悟りの境地に達して開かれているようすです。

修行をして目指すべき到達点について、そんなものはないというのがこの語です。

前項の別無工夫とともに鎌倉時代の禅僧夢窓疎石の言葉です。

「無隠」なわけですから、当然といえば当然です。

元も子もないような本質をズバリと突くのが禅だとすれば、いかにも禅らしい一語です。

モノが「無」いことを貴ぶのが禅

何も持たずに市中を徘徊する布袋さんは禅の理想像として描かれることが多い
本来無一物(ほんらいむいちぶつ)

生まれたときも死ぬときも何も持っていないというのが実際ですが、モノの執着するのが人の性(さが)です。

ここでのモノは、実際のモノだけでなく、お金・名誉・コネ・学歴・評判・実績・資産など一切を含みます。

こんなものはどうでもいいんだとハッキリ言い切るのが禅であり、この語はそれを端的に示しているため、よく用いられます。

無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうぶじんぞう)

何もないと、逆にどんどん増えていくという不思議なことを言う語です。

英語にするとLess is Moreになるのではないかと思います。

禅では量よりも質を大切にします。

例えば、ご飯の量、親交の関係など、減らしていくと一つひとつを大切にするようになり、その味わいは無限に広がっていきます。

「道」:道とはすなわち禅の道

禅で出てくる「道」は道教の道ではなく、禅の道のことを言っています。

つまり道と書けば、禅と書いているのと同じことになります。

道が用いられた禅語を見ていくと、禅とは何かが見えてきます。

「道」は簡単である

平常心是道
平常心是道(びょうじょうしんこれどう)

大変有名な言葉です。

ここでいう「平常心」は「あたりまえの心」を言います。

詳しくはこちらをご覧ください。

大道無門(だいどうむもん)

「禅の道には門がない」と言っています。

門がないということは、どこからでも入れるということです。

すなわちいつ何時も、どこでも禅の実践の場ということです。

詳しくはこちらをご覧ください。

至道無難(しどうぶなん)

「しどうぶなん」と読まれますが、無難は一般に「格別非難されるような点もないこと。すぐれてもいないがとりたてていうほどの欠点もないこと」の意味で使われます。

そうしますと、禅の道に至るということは優れてもいないが当たり障りがないというような意味になってしまいます。

そこで全て訓読みして、「道に至るは、難きことなし」と読む方がよいかと思います。

禅の道に至るのは難しいことではないとなり、大道無門にも通じてきます。

「道」は得難い

道無横径(みちのおうけいなし)

横径は横道のことです。禅の道に安易な道はないと言っています。

大道無門で禅はどこからでも入れるとしていますが、一方でここでは横から入る道はないと言っています。

至道無難では道を得ることは簡単としながら、学道如鑽火では道を得るのは大変だと言っています。

このあたりの矛盾を矛盾なく理解するには、時間の視点が必要かもしれません。

「今日から容易にできるが積み重ねが必要。長期に積み重ねるのは大変」といったようにです。

学道如鑽火(がくどうはひをきるがごとし)

ここでも道は禅の道です。学道とはすなわち禅の道を究めるという意味です。

火を鑽(き)るは「火をおこす」という意味です。

火を起こす作業をとても大変なのですが、我々にはなかなか理解しづらいものです。

こちらで検証しておりますので、ご覧ください。

「道」をいかに得るか

坐水月道場(すいげつどうじょうにざす)

では道を得る修行の場はどこにあるかということになります。

道場に関する禅語を幾つか紹介します。

この語は「水面に映った月の道場で座禅をする」という禅味に富んだ禅語です。

また、逆に市中を道場にするという意味で用いることもあります。

「坐水月道場」の反対の意味

いずれにしても禅は修行の場所に重きを置きません。

次の語にそれは表れています。

直心是道場(じきしんこれどうじょう)

釈尊の有力な弟子で在家(出家していない)の維摩が、山中での修行を考えている若者に「どこで修行をしているのか」と尋ねられたときの一言がこれです。

道場は心の中にあります。

心については心の項をご覧ください。

歩々是道場(ほほこれどうじょう)

さらに禅では道場を心の問題だけに留めません。

この語は直接的には日々あることから修行であるという意味であり、含意としては「日々の生活が禅である」という全瞬間が修行、日常生活で禅を実践するという考え方が示されています。

「心」:禅が一番大切にするもの

心外無別法(しんげむべっぽう)といって心は禅の最大テーマです。

「心の外に別法なし」と訓読みすると分かりやすく、すなわち心のなかに法(悟り)があるという意味です。

心不可得(しんふかとく)とも言って、得難いのが心です。

「心」を指さす

直指人心(じきしにんしん)

「一番大切なものは?」「仏とは?」「根本の問題は?」といった質問への回答がこれです。

「直(じか)に人の心を指す」という意味です。

一箭中紅心(いっせんこうしんにあたる)

一箭は弓矢のことで、的のど真ん中の赤い部分に矢が見事に命中したという意味です。

「一」は自分自身でした。

そしてここでの紅心は、赤い中心のことであると同時に、自分の心のことを言っています。

弓矢が的のど真ん中を射抜けば気持ちがよいですが、禅の矢が自分の心臓に突き刺さることを思うと、胸が引き締まります。

実に効果的にメタファーが使われています。

精一杯やるのが「心」

常行一直心 (つねにいちじきしんをぎょうず)

『六祖壇経』にある言葉です。

直心はひたむきな心のことで、大和言葉では「ひたごころ」とも言います。

「常にひたむきに行う」と言う禅語です。

常に目の前のことを全力で行っていくこと(マインドフルネス)を促す言葉です。

心無罣礙(しんむけいげ)

いわずとしれた般若心経の一節です。

罣礙はさまたげるもののことで、すなわち心無罣礙は「心にさまたげるものがない」という意味になります。

心のあり方を端的に示した言葉です。

その「心」は計らいなく、からっぽにして

虛其心(そのこころをむなしくす)

出典は老子ですが、禅でも用いる言葉です。

老子においては「人々を無知無欲にすれば治世はうまくいく」とあり、この文脈で使われており、人々の欲を無くすという意味になります。

禅では政治手法のことを語ることがありませんから、違う意味合いで使います。

「意図や計らいをなくす」という意味で用います。

無心帰大道(むしんなればだいどうにきす)

古尊宿語録』にある言葉です。

計らいもえり好みものないのが無心です。道は禅の道です。

「道」の項でみた「至道無難」には下の句がり、「唯嫌揀択」(ただけんじゃくをきらう)と続きます。

「唯嫌揀択」はえり好みをしないという意味です。つまり、同じ意味です。

えり好みせずに何でも通すので、禅の道は大きな道となります。

「大道無門」で大いなる禅の道は入口(門)はなく、どこからでも誰でも入れるということでした。

このあたりも同じ意味で掴むことができます。

「仏」:問う!仏とは何か!?

禅宗は仏教ですから、必然的に「仏」は重要テーマです。

禅宗の特長として禅問答という修行形態があり、このなかでも「仏とは何か」という問いが何度も出され、さまざまな答えが繰り出されています。

この問答が後に禅語として用いられるようになった経緯もあり、「仏」を用いた語は多くあります。

仏とは何かの答えは、「自分自身」だり、「(自分の)心」ということになります。

「仏」とはこころ

見性成仏(けんしょうじょうぶつ)

「自分の仏としての性質と向き合って、自分が仏になること」を意味します。

「心」の項で紹介した「直指人心」と合わせて使われることの多い言葉です。

即心即仏(そくしんそくぶつ)

「自分の心がそのまま仏である」という唐代の禅僧馬祖道一の言葉です。

同じ意味の言葉があり、これらも端的で分かりやすい禅語です。

「即心即仏」と同義の禅語

  1. 即心是仏(そくしんぜぶつ)
      ⇒「心こそ仏だ!」
  2. 即汝心是(そくじょしんぜ)
      ⇒「君の心がそれだよ!」

「仏」とは私

この身即ち仏なり

江戸時代の禅僧白隠の言葉です。

仏教や禅の最も重要な考えをズバリと表現した言葉です。

日本語のお経(和讃)のなかの言葉ですので、日本人ならばスッと心に入ってくる点で優れた言葉です。

この言葉を信じることが「悟り」であり、自分が仏であると強く信じることが臨済のいう「自信」です。

オンライン座禅会は自宅から参加可能
如何是仏(いかなるか これほとけ)

「仏とは一体何か」という意味です。

禅問答で度々登場する問いです。

ここまで読まれてきた皆さまはすぐに答えられるかと思います。

問題は心からそう答えらるか、言葉でなく行動で示せるかです。

みんな「仏」

衆生本来仏(しゅじょうほんらいほとけなり)

こちらも白隠の座禅和讃からです。

衆生は命あるものの一切を言います。

悪人も盗人も、犬も魚も仏です。

山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)

よく言われるように山川草木(さんせんそうもく)も仏です。

「山(やま)川(かわ)草(くさ)木(き)、ことごとくみな仏に成る」と訓読みしても構いません。

上級編:今日から実践する一文字

「茶」:日常生活のメタファー

茶は日常生活のメタファー(たとえ)として用いられます。

禅では高尚な議論を嫌い、当たり前の日常生活を当たり前に送ることを大切にします。

それを示す言葉として「茶」が用いられることがあります。

意味のない空理空論に振り回されたり、過去の思い出に引きずられたり、将来の心配事で気が滅入ってしまったりする人にはこの言葉は有効です。

例えば、ただ全力で湯を沸かしてお茶を飲むことです。

この手法はそのままマインドフルネス(味わう生き方)につながります。

当たり前の生活を当たり前に

逢茶々遇飯々(ちゃにあえばちゃ めしにあえばめし)

お茶を出されたお茶をいただき、ご飯を出されたらご飯をいただく。

お茶を出される前からお茶を所望したり、お茶を飲んでいるときからご飯を食べたいと思ったりというのはこの語に適いません。

ご飯美味しかったなぁというのもよろしくありません。

ただ目の前のことに集中します。

飢来喫飯寒到添衣(うえきたればはんをきっし かんいたればころもをそう)

『中峰広録』が出典です。

「腹がへったらご飯を食べて、寒いと思ったら服を重ね着する」という当たり前の一語です。

こういう言葉を高尚な形而上学的言葉と同列で扱うところに禅の特長があります。

禅は人が生きることと離れることがなく、それは自己啓発的な意味での生き方ではなく、衣食住をしっかりこなすという本当の生活から離れないということです。

「飢来喫飯困来即眠」(うえきたらばはんをきっし こんきたらばすなわちねむる)、「飢来喫飯困来打眠」(うえきたらばはんをきっし こんきたらばねむりをうつ)も同義です。

且坐喫茶(しゃざきっさ)

意味は「ひとまず座ってお茶をお上がり」です。

難しい議論の応酬の後に、臨済が食らった一言がこれです。

修行の成果を示すにあたって金牛、鳳凰、龍光などきらびやかな言葉を続けたものの、「それほど素晴らしいお茶を一杯、素晴らしく飲んでみせろ」と言われてしまったという話です。

茶は単に茶を飲むのみならず生活全般の意で、服を着ること、掃除をすることなどの一切を含みます。

逆にこうした生活が行き届いていたなら、金牛、鳳凰、龍光など持ち出さなくても禅では十分に認めらるということです。

喫茶去(きっさこ)

「お茶でもどうぞ」という意味の言葉で、かわいい語感もあって人気の禅語です。

趙州が修行僧らに何度も用いています。

日常生活の中に仏法を見出す「日用即妙用」の原理を、弟子とのやり取りで連続して「喫茶去」と言って「日常生活をまたしっかりやれ」と説いたと考えたと理解するのが自然です。

「日用即妙用」は馬祖に由来し、趙州は馬祖の孫弟子にあたります。

日常生活を充実される禅の心についてはこちらも参考にしてみてください。

「茶道」と禅

茶味(ちゃみ)・禅味(ぜんみ)

茶道の場面で、茶味が強い・禅味が強いと言ったりします。

茶味が強いとは色鮮やかであったり、意匠が細かく凝ったさまを言います。

逆に禅味が強いとは、無骨なさまや、装飾性を排した造形のことを言います。

茶味が強すぎれば色鮮やかだが、貴族趣味や皮相的に過ぎるということになりますし、禅味が強ければ、あまりに淡泊で味わう要素に欠けるということになります。

例えば茶味が強い茶碗とは曜変天目のような不思議な色で人を魅了しますが、珍奇にして茶碗としての役割を大きく超えて見た目にこだわり過ぎているようにも思えます。

しかし、お茶さえ飲めればと百円均一で買ってきた茶碗では、あまりに味気ないというものです。

素朴なれど味わい深い、本阿弥光悦の茶碗は茶味と禅味のバランスがよく取れていると思います。

茶禅一味(ちゃぜんいちみ)

茶禅一味は特に禅語というわけではなく、茶と禅の目指すところが同じであるという意で用いられる語です。

正確には禅が先に成立しており、日本で流行っていた茶の湯文化に中国大陸から渡ってきた禅文化が融合し、茶道文化が成立しました。

この経緯については、今後別ページでまとめていく予定です。

料知茶味同禪味(りょうちす ちゃみとぜんみのおなじなることを)

茶禅一味と同義ですが、言葉としてはこちらの方が早く、確認されている限り最も早い茶禅一味を意味する言葉とされています。

竹野紹鷗(1502~1555年)の末期の言葉とされています。

「坐」:座禅が“禅”の基本形

坐は座禅のことを指します。

では座禅とは何の意味かというと、「一」で示したように、自分が自分にしっかりと収まることを指します。

「坐」は座ることを意味し、「座」は座る場所を本来意味します。

ゆえに座禅は坐禅と表記するのが正しいということになりますが、このサイトでは常用の「座」を基本として、禅語・熟語で「坐」を用いることのが多い語について坐を用いることにしています。

「坐」は禅の基本

帰家穏坐(きかおんざ)

「家にかえって穏やかに座る」とそのまま訓読みすれば、意味を取ることができます。

本来の自分、本来の場所に正しく収まれば、波乱はなく穏やかそのものです。

真仏坐屋裏(しんぶつおくりにざす)

木でできた仏は火にかければ燃えてしまうし、泥で出来た仏は水で溶けてしまいます。

そうしたら仏はいなくなってしまうのでしょうか。

いえ、本当の仏とはしっかりと家の奥に座っていますというのがこの語です。

何もしないという贅沢

家は家屋のことではなく、心のことです。

その奥に座っているのは、もちろん仏像ではなく、あなた自身のことです。

座禅に興味を持たれた方はこちらを参照ください。

独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)

「この世で素晴らしいこととは何か」という禅問答の答えがこれです。

大雄峰はその寺のあった立派な山のことです。

すなわちこの世で素晴らしいことは「この山で座禅をすること」だと言っています。

座禅をしているというところも重要ですが、「ここで自分が日々やっていること」と理解する方が本旨に近いと思われます。

「坐」がすべてではない

坐一走七(いちにざししちにはしる)

七は数字の7というようは「数多く、たくさん」という意味です。

したがって「走七」は多方面に走り回ってようすを示しています。

身の回りの雑事に追われて奔走しているさまや、社会で仕事をして活躍している様子のことを意味します。

坐一とは一人自分が座禅をしている様子です。

この後はこの対比的なさまを示しながら、その両方が大事だと言っています。

ただ娑婆を生き、名誉や金儲けに長けているだけでは生きる美しさに欠き、翻って自室で座禅をしているだけでも陰気臭く本当の禅風とは言えません。

日々鎮座しつつ、日々バリバリと活動するという静動合わせ持った生き方が禅旨に適いまう。

「道」の項で示した「直心是道場」「歩々是道場」を合わせたような言葉です。

この後紹介する「行亦禅坐亦禅」も同義です。

「一即多 多則一」の別表現とも言えます。

行亦禅坐亦禅(ぎょうもまたぜん ざもまたぜん)

かならずしも座禅することだけが禅ではないという視点を禅は常に持っています。

行うことも座ることも禅であるというのがこの語です。

日常での実践を重視する言葉は「茶」の項もご覧ください。

「喝!」:世界一短い助言

臨済が連発したとされるのがこの言葉です。

どのような場面で使ったかが重要です。

先の通り、臨済は「自分」を大切にすることを徹底して弟子たちに伝えました。

ゆえに自信を失った人に対して強い激励を込めて放った言葉が「喝」です。

理屈で説明するのではなく、「喝!」の一語です。

「一」:自分が大事なのに

ここまで見てきたようにたった一文字でも禅では「こう生きるべきだ」と示唆する意味がいろいろありました。

その逆に陥ってしまう人がいたならばそれは喝!です。

例えば、自分をさておき人のことをごちゃごちゃいう人には「喝!」です。

「心」:心が一番たいせつなのに

心をおろそかにして、モノにこだわったり金勘定を始める人が人がいたなら「喝!」です。

心こそ仏だからです。

「風」:こだわりなくさっぱりとしていたいのに

過去を振り返ったり、将来を心配したりしている人や、心の窓が閉じてしまっている人は「喝!」です。

「茶」:日常生活を全うすべきなのに

日々の生活をおろそかに行う人がいたなら「喝!」です。

応用編:一文字を応用して拡げていく

禅の世界観がみえてくる

以上をまとめる禅の好む1文字の傾向が分かってきます。

明確なのはこの優先順位です。

禅の好み

  1. 「月」>「太陽」
  2. 「山」>「海」
  3. 「冬」>「夏」

禅は「月の宗教」であり、「山の宗教」であり、「冬の宗教」とも言えます。

抽象的には「無>有」です。

対比的ですが両方好きなのが、

両極とも好むもの

  1. 消え去るものとして「雲」・「風」
  2. あり続けるものとしての「山」

ということになります。

2文字以上を組み合わせてみる

これまでにみてきた個々の一文字を組み合わせて、二文字にして作られてた禅語がいろいろあります。レゴブロックのようですね。

一心/仏心/月花/雪竹/風月
雲水/水月/雲水/無心/松竹

三字を組み合わせた「雪月花」、「松竹梅」などもあります。

少しアンコが多すぎる印象です。

むしろ、二文字+他の言葉を使って四字熟語などに展開している言葉が多くあり、その方が禅語としては用いられることが多いです。

二文字以上の禅語はこちらをご覧ください。

0字の字

お気づきかと思いますが、禅ではこの漢字一字の組み合わせで、意味を複雑に豊かにしていきます。

逆にそぎ落とした漢字一字は純粋でこれもまた味わい深いものがあります。

減らすことは禅の重要な考え方でした。

最終的にはゼロ、無こそが禅の好むところです。

最後に漢字ゼロ字の言葉を紹介します。

円相です。これは月を具象化したモノと言われています。

これを書いた掛け軸も非常に多いです。

月は先ほど確認したとおり、「悟り」を意味します。

円相は正確には字ではなく、記号や絵、デザイン、ロゴに相当するような存在です。

ということで、最後に漢字ゼロ字を紹介させていただきました。

実践編:禅問答に挑戦する

多くの禅語は禅問答に由来しています。

興味のある方は挑戦してみてください。

まとめ

漢字一文字に着目した皆さまは禅的なセンスをお持ちの方だと思います。

勇気の出る禅語をこちらにまとめています。

あわせてチェックしてみていただければと思います。

監修者:「日常実践の禅」編集部

日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。