勇気が出る禅の言葉:自信がつく前向きで短い名言・座右の銘集

勇気が出る禅の言葉をまとめました。

禅の言葉は長い歴史を経て短く洗練されていて、奥深いのが特徴です。

ゆえに、人生の決断を下す言葉や座右の銘としてはピッタリです。

短く難解な言葉もあるため、極力丁寧に解説文をつけました。

【目次】

「乗り越えていける」と勇気が湧いてくる言葉

禅はとても前向きで、苦しい状況にどんどん陥った方がよいと考えるほどです。

現状維持か、どうなるとも分からない一歩を踏み出すか、禅の答えは常に後者です。

「歩みを止めるな!」と励ましてくれる座右の銘

一生懸命頑張ること、続けることは大変です。

そんなことは馬鹿らしいと人に思われたり、人は簡単にできてしまっているように見えるからです。

禅では苦行は強いたりはしませんが、努力し続ける人を常に応援してくれます。

雨洗風磨(うせんふうま)

「雨に洗われ風に磨かれる」が直接の意味です。

苦難を乗り越えて立派になるという含意があり、「艱難辛苦汝を玉にす(かんなんなんじをたまにす)」と同義です。

白珪尚可磨(はっけいなおみがくべし)

『詩経』の言葉ですが、禅語としても用いられます。

白珪は白い玉のことで、「白珪は傷ついても磨けばなお綺麗になるが、失言は取り返しがつかない」というのが原典における文脈です。

前段のみを取り出して、「美しい玉もなお一層磨くべし」と継続努力の意で用います。

自彊不息(じきょうやまず)

『易経』の言葉ですが、禅でも用います。

「彊」は努めるという意味です。

すなわち自彊不息は、「自ら努めて、それを止めないこと」という意味です。

「守りに入るな!」と攻める勇気をくれる言葉

百尺竿頭一歩(ひゃくしゃく かんとう いっぽをすすめ)

「進一歩」は「しんいっぽ」と音読みする場合もあります。

出典は禅書『伝灯録』です。

1尺は約30センチ、百尺は30メートルですが、ここでの百は「とても長い」の意で捉えた方がよいでしょう。

百尺竿頭は、かなり長いバンジージャンプの飛び込み台のようなイメージです。

一歩一歩進んできたけれども行き止まりです。

最先端とも言えます。

最先端にとどまらず、さらに一歩進めとこの語は言っています。

もちろん、真っ逆さまです。

この語は「十方世界現全身」(じっぽうせかいにぜんしんをげんず)と続きます。

まさに、バンジージャンプ状態です。

「どうなるものとも分からないけれど、留まることなかれ。勇気を出して一歩前へ」という、まさに勇気を奮い立たせる一語です。

不住青霄裏 (せいしょうりにとどまらず)

出典は『臨済録』です。

青霄(せいしょう)は青空のことです。

達磨大師が悟りの境地を「廓然無聖」(かくねんむしょう)と表現し、この「廓然」が、雲一つない晴れわたった空のことを意味します。

そこにも不住(とどまらず)としているということです。

達磨大師は釈尊から28代目にあたり、禅宗の開祖です。

達磨から11代目が臨済ですから、達磨大師は大先輩にあたります。

さすがは「殺仏殺祖」を謳った臨済、先輩どうこうは関係ないというわけです。

前提には、師匠の言う通りやっていたのでは半分程度しか受け継げておらず、師匠を超えて先へと進めてはじめて法を次代に継ぐことになると考える禅宗の伝統があります。

金龍不守於寒潭(きんりゅう かんたんをまもらず)

『禅林句集』『槐安国語』にある語です。

「玉兎豈栖於蟾影」(ぎょくとあにせんえいにすまんや)の対句があります。

金龍は鱗が黄金の龍という見方と太陽という見方があります。

玉兎(ぎょくと)が月に住む兎(うさぎ)で蟾影(せんえい)が月ですから、金龍は太陽と考えるのが自然です。

ここでは折衷して太陽のごとき龍としておきます。

寒潭(かんたん)は静かな湖です。

すなわち、太陽のごとき龍は静かな湖に安住せず、月に住む兎いつまでもそこにとどまらないという意味です。

実際に太陽は静かな湖畔にあってもどんどん登っていきますし、月も満ちたり欠けたりします。

前進する勇気とともに、その変化は自然であると安心させてくれる一語です。

「困難?上等だぜ」と思えてくる禅語

楽亦在其中(たのしみまたそのなかにあり)

『論語』からです。

「其中がどの中なのか」というと、論語では苦しい状況・貧窮のなかという意味です。

禅では、「今いるその状況」と捉えます。

色々言い訳・愚痴も言いたくなりますが、そのあなたがいる状況を楽しんで!と解釈します。

楽中苦々中楽(らくはくちゅうに くはらくちゅうに)

楽中苦々中楽は漢字の並びが面白い言葉です。

楽と思ったら大変だったり、大変だと思うなかでも楽しめたりという意味です。

安岡正篤の六中観が想起されます。

死中有活(しちゅうかつあり)
苦中有楽(くちゅうらくあり)
忙中有閑(ぼうちゅうかんあり)
壷中有天(こちゅうてんあり)
意中有人(いちゅうひとあり)
腹中有書(ふくちゅうしょあり)

『六中観』(安岡正篤

いずれの場合も、「苦中楽あり」の意味で考えてよいかと思います。

大死一番絶後再蘇(だいしいちばんぜつごにふたたびよみがえる)

「死にかけるまで行ったところで再び蘇る」という意味です。

どんどん苦しくなる状況でも焦らず、必ず活路は見いだせると励ましてくれる語です。

逆にどんどん苦しく状況にひるんで退いていては、状況を反転させることはできないので突き進めという厳しい含意をもあります。

「落ち込む必要はない。今日新しく生きよう」と気持ちを切り替えさせてくれる言葉

『大学』にある言葉ですが、禅でも用います。

意味は同じですが、色々言い回しのパターンがあり、好みに合わせて座右の銘に用いることができます。

  1. 日新日々新又日新(ひにあらたに ひびあらたに またひにあらたなれ)

  2. <①から部分を抜き出して使うパターン>

  3. 日新(ひにあらたに)
  4. 日新日々新(ひにあらたに ひびあらたに)
  5. 日々新又日新(ひびあらたに またひにあらたなれ)

  6. <自然のうつろいと重ねるパターン>

    季節の移り変わりのように、自分自身も新しくなることを示した語です。

  7. 春光日々新(しゅんこうひびあらたなり)
  8. 風光日々新(ふうこうひびあらたなり)

  9. <洗心と組み合わせるパターン>

  10. 洗心日新(せんしんひにあらたなり)
  11. 洗心自新(せんじんおのずからあらたなり)

「難しく考えない!」忘れかけていた原点に戻してくれる言葉

ついつい悩んでいると難しく複雑に考えがちです。

シンプルに単純に考えること、これを禅は何度も言葉を変えて教えてくれています。

眼横鼻直(がんのうびちょく)

道元の言葉です。

目は横で鼻は縦だという当たり前のことを4年の修行の後に中国から返ってきて説いています。

私たちは、つい複雑に、裏の裏まで考えてしまったりします。

ありのままにそのままに物事を捉えるための言葉です。

山是山水是水(やまはこれやま みずはこれみず)

こちらも含意は「眼横鼻直」と同じです。

ここでの水は「川」を意味します。

山を山として、水を水として捉えられているか、基本的な現状認識が誤っていては大変です。

簡単で当たり前のことができていないことが時にあります。

山に入った帰り道の正しい判断についてのエピソードの端を発する人気の禅語「看脚下」はこちらから。

月在青天水在瓶(つきはせいてんにあり みずはへいにあり)

「月は空にあって、水はびんに入っている」

こちらも実に当たり前のことです。

飢来喫飯困来眠(うえきたらばはんをきっし こんじきたらばねむる)

「腹がへったらご飯を食べる。疲れたら眠る。」

笑ってしまうような当たり前の日常生活を禅は大切にします

仏界易入魔界難入(ぶっかいはいりやすく まかいはいりがたし)

「仏の世界には入りやすく 、悪魔の世界には入ることが難しい。」

一見逆のように思えます。

悟りの道は険しく、悪魔の誘惑には陥りやすいのではと思えます。

しかし、上で確認したような「当たり前のことを当たり前にやっていく」ことが仏道と考えると腑に落ちます。

反対に、あっさり難事を解決するというような触れこみの奇策を必死で講じたり、不可思議な諸法に力を注ぐことは一大労力であり、大きな困難を伴うものの得るものが少ないということです。

「必ず成功する」というポジティブな言葉

禅は基本的にポジティブです。

未来を不安に思わず、今に集中するというのが基本的な禅のスタンスです。

「結果はかならずついてくる」と楽観的にさせてくれる言葉

結果自然成(けっかじねんなる)

結果として自然になるという語です。

前述の「一華開五葉」に続く言葉です。

「一華開五葉」はたった一人で世界を変えた達磨の生き方を重ねた言葉でした。

「自分をやり尽くせば、自然と事は成る」という力強くも、しかし肩の力の抜かしてくれる、そんな言葉です。

花無心招蝶(はなはむしんにしてちょうをまねく)

江戸時代の禅僧、良寛による言葉です。

花無心招蝶  はなはむしんにしてちょうをまねき
蝶無心尋花  ちょうはむしんにしてはなをたずねる
花開時蝶来  はなひらくとき ちょうきたる
蝶来時花開  ちょうきたるとき はなひらく
吾亦不知人  われもまたひとをしらず
人亦不知吾  ひともまたわれをしらず
不知従帝則  しらずともていそくにしたがう

良寛

この詩から「無心でやっていれば花は咲くし蝶も来る(成就する)」とも理解できますし、「自分がやっていることが人に知られなくても、時がくれば人に知られることになる。それは黄金律だ」というようにも理解できます。

いずれにしても、焦らず腐らず、無心でやっていくのがよろしいと励ましてくれる言葉です。

「花開蝶自来」(はなひらけばおのずからちょうきたる)という語も同義で用います。

桃李不言 下自成蹊(とうりものいわざれどもしたおのずからみちをなす)

司馬遷の『史記』にある語で、禅でも用います。

成蹊大学の由来となる一節でもあります。

桃や李(すもも)はしゃべらないけれども、勝手に人が寄ってくるので、道(蹊)が自然とできるという言葉です。

意味するところは良寛の漢詩と同じです。

あなたはあなたをやり尽くすのみです。

心平常百事自成(こころへいじょうなればひゃくじおのずからなる)

禅では苦行よりも「平常心是道」で、当たり前のことを確実にやっていくことを大切にします。

そうすれば、どんなことでも(百事)実現していく(自成)という言葉です。

上の3つの言葉とも同義であることが分かります。

「平常心」は禅の大切な言葉で、「びょうじょうしん」とも読みます。

水到渠成(すいとうきょせい)

「みずいたればきょなる」とも読みます。

『答秦太虚書』が出典です。

渠は溝や堀を意味します。

「水が流れれば、自然と溝ができる」、活路は必ず開けることを示す言葉です。

春来草自生(はるきたらばくさおのずからしょうず)

紅炉一点雪

文字通り「春が来れば草は自然と生えてくる」という意味です。

時間の経過とともに、自然と事は成ると言っています。

天行健(てんこうはけんなり)

出典は『易経』ですが、禅でも用いる言葉です。

天体の動き同様に、正確に時間を過ごすことを君子の行いであるという文脈で使われています。

禅では、「天の行いは常に健やかで、自分に恵みをもたらし味方をしてくれる」というように考えます。

「いつか花開く」と信じさせてくれる言葉

苦しい時期を乗り越えて、ついに実現するさまを禅では「枯れ木に花が咲く」という言い回しで表現します。

三冬枯木花(さんとうこぼくのはな)

元は『虚堂録』「三冬枯木花 九夏寒巌雪(きゅうかかんげんのゆき)」です。

三冬、九夏は暦でそれぞれ寒い冬の時期、暑い夏の時期です。

つまり「寒い冬に枯れ木に花が咲き、暑い夏に寒さが厳しく雪が降る」という意味で、常識を超越した禅の世界観を表わす言葉です。

しかし、言葉の直接の意味から「厳しい寒さのなかで耐え抜いて枯れたと思った木が花を咲かせる」という苦難の末の成就の意味で使われることが多くあります。

枯木花開 劫外春(こぼくはなひらく ごうがいのはる)

劫外は天地が分かれる以前のことです。

枯木花開については三冬枯木花と同じ意味です。

枯樹生華(こじゅせいか)

こちらは禅書ではく、『續博物誌』という異聞集が出典です。

枯れ木に咲いた花の蜜を吸って仙人になったというお話に基づきます。

言葉の意味としては上の2つと同じです。

枯木再生花 (こぼくふたたびはなをしょうず)

『碧巌録』の「枯木龍吟銷未乾。(咄。枯木再生花。達磨遊東土。)」からです。

「こぼくりゅうぎんしょうしていまだかわかず。(とつ。こぼくふたたびはなをしょうず。だるまとうどにあそぶ)」と読みます。

上の3つと同じ意味で使います。

「試練が自分を強くする」という勇気100倍になる禅語

泥多仏大(どろおおくしてほとけだいなり)

仏像を作るにあたってその原材料(泥)が多ければ、仏像は大きくなるというのが直接の意味です。

解釈としては、「泥」を煩悩と理解し、「煩悩が多くても悟りは開ける、それどころか煩悩は大きいほどよい」という励ましの言葉として捉えます。

「泥」を困難や苦労と理解し、大きな成果(仏)につながる過程と理解すれば、勇気が湧いてきます。

梅花和雪香(ばいかゆきにわしてかんばし)

禅では雪は困難を表わすことが時にあります。

また、梅はそういう寒い時期に咲く花として、禅では最もよく使われる花の一つです。

その梅が雪と相まっていい香りをさせているという一語です。

困難を忌避するのではなく、困難と正面から対峙して、それが一層当人の魅力を引き立たせるという含意があります。

美しい抒情的表現を含め、頑張る女性にピッタリです。

性別を問わず、難しい状況でも楽しく取り組めるような風流人に似合う一語とも言えます。

「花」に関する禅語

「花」は禅語でも度々用いられます。花に関する禅語はこちらをご覧ください。

雪裏見高節(せつりにこうせつをあらわす)

雪裏は雪景色のことです。高節は気高い節操を意味しますが、ここでは一旦冬でも落葉せず緑のままの松や竹のことを言います。

梅と同様に、松や竹も厳しい寒さでも変わらず緑のままのため、禅の文脈で重宝されます。

いわゆる松・竹・梅です。

厳しい状況に打ちひしがれてしまうことなく、誘惑に負けることもなく、気高い節操を保つ人を、雪景色のこの場合特に松に見立てる禅語です。

松樹千年翠(しょうじゅ せんねんのみどり)

出典は『続伝灯録』です。

松柏千年靑。不入時人意。牡丹一日紅。滿城公子醉。

『続伝灯録』

「松はいつでもずっと緑を保つこと1000年なのに、人は誰も気にしない。

牡丹の花が今日1日花開いたら、街中の人が話題にしている。」という一節です。

誰に気づかれずとも淡々と努力をし続ける人、厳しい時(冬)も変わらず笑顔を絶やさない人、一過性の話題に流されない強さを「松」に見る一語です。

入水見長人 (みずにいれてちょうじんをみる)

実際に困難に当たると、その人物が優れたているか(長人)どうかが明らかになるという意味です。

唐代の則天武后(女帝)が、二人の禅僧を神秀(じんしゅう)と慧安(えあん)を招請した時に話が元となった禅語です。

この時、則天武后は意地悪くも2人にそれぞれ沐浴を進め、美しい官女を世話役としてあてがおうとします。

これを神秀は気がおかしくなっては困ると拒んだのに対し、慧安はこれを悠然と受け入れ、平然として垢を流しました。

神秀は名高い禅僧でしたが、この一件から慧安に劣るとの評価を則天武后は下したというお話です。

かなり際どい話で、ここでの入水は水に潜るのではなく、風呂に(美女と)入ることを言っています。

「時間がかかってもいい!」続ける勇気を与えてくれる言葉

山高月上遅(やまたこうして つきのぼることおそし)

「山が高ければ月が見えてくるまでに時間がかかる」という禅語です。

時間がかかっているのは、大きな成果をにつながるプロセスです。

止めてしまっては、何も得られません。

「月」は禅では悟りを意味する

禅語における「月」の解説はこちらをご覧ください。

更参三十年(さらにさんぜよさんじゅうねん)

禅書『碧巌録』にある言葉です。

「少しできるようになったと思ってもまだまだこれから。もう30年くらい頑張ってみよう」という禅語です。

継続という決断も実に勇気のいるものです。

皆それぞれの30年と向き合っていると思えば、元気が湧いてきませんか。

一山行尽 一山青(いっさんゆきつくせば いっさんあおし)

「一山乗り越えてきたけれど、目の前にまた乗り越えなければならな山がある」という状況です。

戻ろうにも一山越さなければなりません。

山を越えたところでまた山があることは分かっていますが、先のことなど考えず、淡々と続けられる人は強い人です。

耕不尽(たがやせどもつきず)

言ってしまえば、何事も終わりはありません。

終わりがみえないから止めるのではなく、「果てしなく続く道を可能な限り進んでいこう」という一語です。

特に短い一語ですから、揮ごうなどで用いられることの多い言葉です。

学道如鑽火 (がくどうは ひをきるがごとし)

火を鑽(き)るは、火をつけるという意味です。

昔の火おこしは大変時間がかかりました。

何か事をなすには時間を要します。

学道とは学問の道に限らず、禅の道を修めるという意味です。

「自分は自分のままでいい」と肯定してくれる禅語

「あなたは素晴らしい」と言ってくれる言葉

有水皆含月(みずありみなつきをふくむ)

月は禅では悟りを意味します。

悟りとは「自分は何とかやっていける」という確信です。

夜、皆それぞれにさかずきを持っているとします。

月は全員のさかづきに映っています。

誰かがOKで誰かはNGということではなく、誰しも全員、「あなたはやっていける」という禅語です。

月にまつわる禅語はこちらから。

無隠(むいん)

「本当に大切なものはどこにも隠れていない」という意味です。

大切なものとは“あなた自信”です。

あなたのそのものが素晴らしいと禅では考えます。

それに気づけるかどうかは自分次第で、どうぞ隠すことなく、全身を現じてください。

浄裸裸 赤酒酒(じょうらら しゃくしゃしゃ)

出典は禅書『碧眼録』第六則です。

浄は「きよらか」、裸はもちろん「はだか」のことです。

赤は「むきだしの状態」のことで、洒は「さっぱりしているさま」です。

そのままの姿で、きれいさっぱり、かざらない姿を言います。

呪文のように「ジョウララ シャクシャシャ」と唱えて自分のそのままの状態を表わしてみてください。

そのままの姿を他人に示すというのは勇気のいることです。

「百尺竿頭進一歩 十方世界現世界」の心境にも通じます。

絶学(ぜつがく)

「一生懸命勉強しましょう」と誰しもが言いますが、禅では「学ぶことを断て」と言います。

あなたは学ばなくても、自分で考えてやっていけるからです。

禅では自分の力を信じることが出発点になります。

人から教えてもらうよりも、自分なりに工夫してやってみることに大きな価値を見出すのが禅です。

「あなたはちゃんとやっていけるんだからひるむことない!」と教えてくれる言葉

金毛獅子不跨地(きんもうのしし こじせず)

この語は『碧巌録』の言葉ですが、金毛獅子は禅語で度々登場します。

金毛獅子とはライオンのことです。

たいていの場合、理想の人に喩えて良い文脈で登場します。

ここでは「ライオンはひるまない」と言っています。

禅における理想の人とは、自信のある人のことを言います。

そして、自信とは「自分は何とかやっていける」と信じている人のことです。

蛙鳴蝉噪是仏声(あめいせんそうこれぶっしょう)

仏とは何とかやっていける人のことです。

カエルやセミが「自分はなんとかやっていける」と鳴いているという一語です。

カエルやセミが出来ているのに、あなたができないわけがありません。

水鳥樹林念佛念法(すいちょうじゅりん ねんぶつねんぽう)

水鳥たちも森林の木々も同様に、「自分たちなんとかやっていける」と言っています。

雨竹風松皆説禅(うちくふうしょう みなぜんをとく)

雨が竹を打つ音。風が松を通り抜ける音。

これらからも「私たちは何とかやっていける」と聞こえていると言っています。

「下手で結構!オレの味だ!」と前向きに開き直らせてくれる言葉

守拙全天真(せつをまもりててんしんをまっとうす)

拙はへたくそという意味で、それを守ると言ってきます。

そうして天真(社会が望んでいること)を全うする(実現する)と言っています。

下手よりは上手の方がよいように思えますが、小才を発揮し目才の成功を得るよりは、愚鈍でも実直の方が大成するという考え方があります。

元々禅は、巧拙を問わずに本来であるかどうかをみます。

守るべきは拙というよりも本来の自分らしさということになります。

自分らしさを守ることで、天真を全うすとは素晴らしいことに違いありません。

大巧若拙(たいこうはつたなきがごとし)

「たいこうじゃくせつ」とも読みます。

出典は『老子』ですが、禅宗でも用います。

意味は「守拙全天真」と同じです。

道以拙成(みちはせつをもってなる)

『菜根譚』の言葉で、意味は「守拙全天真」、「大巧若拙」と同様です。

別是一家風(べつにこれいっかのふう)

出典は『碧巌録』第64則です。

家風は、一宗派、一家元を指すと考えられますが、一家族と考えてもよいですし、あなたの生き方と考えてもよいですし、一会社のあり方と考えてもよいです。

一つの作品、作風と考えてよいですし、自分なりのやり方と考えてもよいです。

禅は自分なりに考えて到達したあなたのやり方を断固として尊重します。

「自分らしくやればいい、人それぞれだよ」と諭してくれる言葉

柳緑花紅(やなぎはみどり はなはくれない)

柳は柳らしく緑に、花は花らしく赤くという言葉です。

元は禅の文脈ではなく、古くから中国で使われていた言葉で、「それぞれがそれぞれらしく」を強調する禅でも度々引用され、今日も禅語として用いられている言葉です。

松曲竹直(まつはまがれり たけはなおし)

「柳緑花紅」と同義です。

禅が好む松・竹を使っている点ではこちらの方がよさそうですが、「柳緑花紅」の色彩のコントラストが印象的で、「柳緑花紅」の方が圧倒的に用いられることが多いです。

渋い方が好まれる方には「松曲竹直」がおススメです。

近しい意味の禅語

  1. 桃紅李白
    (ももはくれない すももはしろ)
  2. 鳶飛戻天魚躍于淵
    (とびとんでてんにいたり うおふちにおどる)
  3. 鶏寒上樹鴨寒下水
    (とりさむくしてきにのぼり かもさむくしてみずにくだる)

孤明歴々(こみょうれきれき)

弧明は月のことです。禅では月は悟りを意味しますが、ここでは「弧」を用いていて一人ひとりという意味が込められています。

歴々は「はっきりしている、歴然としている」という意味です。

すなわち、皆々様がそれぞれにハッキリと自分の本来を悟って輝いているという状態で、月というよりも星々が空気の澄んだ夜空でクッキリとそれぞれ輝いているようなイメージの言葉です。

「たった一人が世界を変える」と奮い立たせてくれる言葉

禅では、「一」は自分自身を表わすことがあります。

「一」の力を信じるのが禅です。

一人が大きな変化を作るという禅語

  1. 一滴潤乾坤(いってきけんこんをうるおす)
  2. 一華開五葉(いっかごようをひらく)
  3. 曹源一滴水(そうげんいってきすい)
  4. 一花開天下春(いっかひらいて てんかのはる)
  5. 一点梅花藥 三千世界香(いってんばいかのずい さんぜんせかいかんばし)

「貧しくて大いに結構」と楽しく過ごせる生粋の禅語

無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)

「何もないところから無限が生み出される」という哲学的な禅語です。

何かをするには犠牲が伴いますし、お金も減っていくかもしれません。

物資尽きるほどの困窮のなかから、新しい創意が生まれてくることがあります。

「窮すれば通ず」という『易経』の影響も感じます。

ジリ貧の状況において勇気を与えてくれる味わい深い言葉です。

本来無一物(ほんらいむいちぶつ)

乞食は禅の理想の姿

何も持たずに何も持たずに死んでいくことは、例外なく全員に当てはまる冷厳な事実です。

逆に、多少の富貴・名誉に際しても、或いは非情な困難・欺瞞に際しても一切動じない強さを与えてくれる言葉です。

行雲流水(こううんりゅうすい)

何も持たずに諸国を行脚し修行を続ける禅僧のことを「雲水」と言いますが、その原語が「行雲流水」です。

「こだわりなく流れに身を任せる」という意味で用いられる言葉ですが、「信念を持って身なりなどを気にせず道を得ようと励む人」という意味もあります。

元は文章の書き方を示す言葉で、色々な意味があって人気の禅語です。

学貧(がくひん)

「学道先須学貧」(がくどうはまずすべからくひんをまなぶべし)という道元の言葉です。

乞食ほどに貧しいほど、学道にはよろしいという意味です。

財多ければ志を失うとしています。

貧窮のなかで失われない志が問われることになります。

勝つのは私

「勝利は目前である」と教えてくれる言葉

せっかく努力をしてきたのに、本番直前で自信を失っては元も子もありません。

在眼前(がんぜんにあり)

本当に大切なことは、目の前にあると言っています。

何事も基本が大切、周囲への感謝、すべてすぐにできる目の前にあることです。

道在近(みちはちかきにあり)

こちらは『孟子』の言葉ですが、意味は「在眼前」と同様に禅では用います。

回光返照・回向返照(えこうへんしょう)

回向返照

光を自分自身に当てよという臨済宗の開祖臨済の言葉です。

臨済は「自信」を強調した自己啓発的な宗教者です。

「自由」も自己責任という意味で度々使っています。

成功の可能性という光を他人ではなく、自分自身に当てることを禅は願っています。

明珠在掌(みょうじゅ たなごころにあり)

「輝く珠はすでに手のなかにある」という言葉です。

手の中にあるのに、スルリと失ってしまうようなことがあってはいけません。

「主役は私だ!」とできる自分に気づける言葉

強い言葉が続きますが、禅の本質に最も迫る言葉とも言えます。

「自分」と向き合い、「自力」で成し遂げるというのが、禅の望むところです。

宇宙無双日 乾坤只一人(うちゅうそうじつなく けんこんただいちにん)

「太陽が一つしかないように、この世には私しかいない」という自分へのフォーカスを促す言葉。

天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)

セルフィッシュ(自分勝手)ではなく、エフィカシー(自己可能感)を表わした言葉です。

「自分は何とかやっていける」と確信を得たお釈迦さまの言葉です。

お釈迦様は生まれながらにそれを感じたというすごいエピソードに基づきます。

主人公(しゅじんこう)

自分が主人公だと学校や会社で言えば、鼻つまみ者になってしまいます。

しかし、あなたが「私は私の人生の主人公だ」と言ったなら、禅は大いに賛同し喜びます。

古い中国の禅僧が毎日自分に言い聞かせたという逸話に基づくのがこの「主人公」という言葉の由来です。

今日では映画や演劇の“主人公”と言った使われ方が一般的ですが、元は禅書に由来します。

惺惺著(せいせいじゃく)

先の取り上げた「主人公」では、その語がある禅僧が自分に毎朝「主人公!」と言い聞かせていたことに始まる言葉であることを述べました。

この「主人公!」に続く言葉が惺惺著です。

惺は心しずかで澄み切っているさまを意味し、著は命令語です。

自分が自分の人生の主役であると考えるのは、舞い上がってしまうのではなく、むしろ冷静に確信することであるというお話です。

「自分の感覚でやっていい」と認めてくれる禅の言葉

一以貫之(いちをもってこれをつらぬく)

「一」は一つのことではなく、自分のことです。

自分とは前項のとおり、人生の主役たる自分のことで、色々あっても何とかやって居Ⓚる自分のことです。

自分を突き通すことを禅ではよいと考えます。

乾屎橛(かんしけつ)

乾屎橛とは乾いたクソのことです。

乾いたクソとは「他人の経験」のことです。

自分が考えてやってみることを重視する禅では、「他人の成功体験を聞いたり読んで自分もできるようになる」という勘違いを嫌います。

その人はその人で自分なりに考えてやった結果うまくいったのであり、そのプロセスというのは言語化したり人と共有ができないほど、複雑で個別の事案だからです。

他人の経験に学ぶな!といってもなかなか伝わりませんから、禅では人のクソを食うなという強い表現で諭してくれます。

人惑(にんわく)

臨済の言葉です。

「人のアドバイスをよく聞くように」とは禅では言いません。

「自分で考えて自分でやってみろ」とだけ言います。

人の助言は「人惑」と言って、自分を惑わす良くないものとして考えます。

ただ人の話を聞かないのではなく、「自分で考えてやってみること」とセットになっている点は注意が必要です。

「毒親に負けない」勇気をくれる言葉

殺仏殺祖(さつぶつさっそ)

こちらも臨済の言葉です。

「仏に逢っては仏を殺せ。祖師(達磨)に逢っては祖を殺せ」と強い表現ですが、要するに仏教の本や教えといったものに耳を貸すなと言っています。

仏や達磨以外にも、父母や親せきの話も聞くなと続けています。

毒親対策に贈りたい一語です。

(臨済録)

道流、你欲得如法見解、但莫受人惑

向裏向外 逢著便殺

逢佛殺佛 逢祖殺祖 逢羅漢殺羅漢

逢父母殺父母 逢親眷殺親眷

始得解脱 不與物拘 透脱自在

(読み下し文)

道流、你如法に見解せんと欲得すれば、但だ人惑を受くること莫れ

裏に向い外に向って、逢著すれば便ち殺せ

仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し

父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して

始めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり。

(意味)

諸君、まとめもな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。

内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。

仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢っ たら羅漢を殺し、

父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、

そうして始めて解脱することができ、なにものに束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。

『臨済録』入矢義高訳註 岩波文庫

祖師は禅宗の始祖である達磨大師のことです。

羅漢は悟りをひらいた高僧のことを言います。

表現は過激ですが、ここでいう「殺」とは、「言うことを聞くな」という意味です。

臨済が提唱する基本テーマは、「自信」です。

自分を信じずに人の話に耳を貸すというのは、「乾屎橛」でしたね。

親の言うことは聞かなくて結構です。

ただし、次の言葉もセットで頭に入れておいてください。

好児不使爺銭(こうじ やせんをつかわず)

「立派な子どもは親の金を使ったり、親の財産を使ったりしない」という言葉です。

臨済は「自由」という言葉も使いました。

この自由とは「自らに由(よ)る」ということ、すなわち自分次第ということです。

ぜひ、独立独歩の自由の道を進んでください。

「勝つのは当然」と冷静さを保つ勇気をくれる言葉

真の勇気とは冷静のなかにあるのかもしれません。

慌てなければ勝てたというようはことがあってはいけません。

そもそも禅では苦行を認めておらず、ガチャガチャと努力するよりは、静かに心を落ち着ける方が大事であると考えます。

つまり、ドンと構えて臨むという態度こそ、自信であり勇気であるというのが禅の考え方です。

禅では自然のなかから喩えを持ち出してくることが多く、この場合は「山」を用いることが多くあります。

青山元不動(せいざんもとふどう)

この語には下の句があり白雲自去来(はくうんおのずからきょらいす)です。

つまり、山は動くことがないですが、雲は表れては消えということを繰り返しています。

皮相にとらわれず、不変の本質を見つめて突き進もうとするあなたを応援する言葉です。

寂然不動 (じゃくねんふどう)

寂然は静かなさまを意味します。

禅では騒がしいよりは静かであることを大切にします。

独座大雄峰(どくざだいゆうほう)

どっしりと山の上で座禅をしている様子を示す言葉です。

目先のことに捕らわれて、街に下りていくようなことのない禅者を表わしています。

どんな時でもどっしりと構えて横綱相撲を展開する、時に孤高の人が想起されます。

禅はこうした冷静さを示す山の姿と、座禅をする姿を重ねます。

座禅はお釈迦様が菩提樹の下で座禅を行った後に悟りを得たという話に端を発します。

禅宗の始祖である達磨大師は面壁九年という座禅生活を中国で送っています。

オンライン座禅会

座禅はスポーツやビジネスなどでも時に珍重されます。

ご関心のある方はこちらの記事をご覧ください。

だれでも自宅から座禅会に参加できます。

自分を信じる力

禅の究極のテーマは、「自分が仏である」と自分を信じることに他なりません。

あまりに単純で、しかし強いメッセージのため、初学者以上の方がお読みいたただければと思います。

自信

臨済が強調した重要な禅の言葉です。

「自信がないのがすべての病の元である」と言って、修行僧たちを勇気づけています。

この身すなわち仏なり

この言葉は江戸時代の禅僧白隠の言葉です。

臨済は「仏とはお前のことだ!達磨とはお前のことだ!」と言い続けました。

これを日本語でお経にしたのが白隠です。

白隠は日本の臨済宗における中興の祖と言われています。

まとめ

ここまで勇気の出る禅の言葉を紹介してきました。

禅の言葉は、禅問答に由来しているものがほとんどです。

興味のある方は禅問答にも挑戦してみてください。

監修者:「日常実践の禅」編集部

日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。