乾屎橛(かんしけつ)の意味「犬のふん(他人の助言)」という例え
犬のふんを食べるな!自分を大切にしろという禅語
今日は、禅語の「乾屎橛」を解説していきます。
読みづらい言葉で、また意味も少し難しい言葉です。
乾屎橛(かんしけつ)は 乾いたクソのことで、他人の助言などを例えています。
自分で考えて自分でやってみたこと以外は力にならないという徹底自力の宗教である禅らしい言葉です。
奇抜な言葉ですが、背景を理解すると勇気と主体性を与えてくれるありがたい言葉であることが分かってきます。
読み方
「かんしけつ」と読みます。訓読みすることはありません。
出典
臨済宗を起こした臨済の言動をまとめた『臨済録』の一節に出てくる言葉です。
臨済録自体も「勇気と主体性」を与えてくれる禅書です。
したがって、「乾屎橛」は臨済録の主旨を表わした言葉とも言えますが、禅語らしくひとひねり、ふたひねり効いている点が理解する上で厄介です。
禅語の出典にはいくつかのパターンがありますが、「乾屎橛」は正当な禅の教本に由来する生粋の禅語といえます。
- 禅書に由来するもの
- 詩句から取り出したもの
- 故事成語から取り出したもの
それではまずは原文を確認していきましょう。
原文『臨済録』上堂から
上堂(じょうどう)。云く、赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人有り。
常に汝等諸人の面門(めんもん)より出入(しゅつにゅう)す。
未だ証拠せざる者は看よ看よ。
時に、僧有り、出でて問う、如何なるか是れ無位の真人。
師禅牀(ぜんしょう)を下って把住(はじゅう)して云く、道(い)え道(い)え。其の僧擬議(ぎぎ)す。
師(し)托開(たっかい)して云く、
無位の真人是れ什麽(なん)の乾屎橛(かんしけつ)ぞ、
といって便(すなわ)ち方丈に帰る。
意味
臨済が説法の壇上で言った「生身の肉体のなかに無位の真人がいる。
常に君たちの面(つら)に表れている。
まだこれを見ていないという者は見よ!さあ見よ!」
その時、一人の僧が尋ねた、「その無位の真人とは、いったい何者ですか」
臨済は壇上から下りて、僧の胸ぐらをつかまえて言った、「言え! さあ言え!」
僧はもたついた。
臨済は僧を突き放して言った、
「無位の真人というのは、まったくの干からびたクソの棒だ!」
と言うと、そのまま居間に帰った。
乾屎橛(かんしけつ)とは「くそかきべらではない」
乾屎橛とは「くそかきべら」を意味するものとされてきました。
あらゆるものに仏性が宿るという意味で、昔トイレットペーパーやウォシュレットがない時代に、用をした後に用いていた「くそかきべら」にも仏性が宿るという考え方です。
しかし、それではあえてその例えを用いた意図が分かりません。
「くそかきべら」では意図が掴めない
あらゆるものに仏性が宿っているので、「くそかきべら」にしたならば、ほかのモノでもよかったということになります。
ほかのものでもよいのに「くそかきべら」だったとすると、それがいわゆる名言として扱われている理由がよく分からなってきます。
過激な表現として名言になっている!?ストンと腹に落ちる異なる解釈が別にありそうです。
強引過ぎる解釈の見直し
他にもいくつかの禅語はこうした一見理解しづらい「物」を示す言葉があり、それらをすべて、「あらゆるものに仏性が宿る」で片付けてきた近世の解釈の歴史があります。
しかし、入矢義高(名古屋大学名誉教授、1910-1998)らの研究により、あまりに強引な解釈に対する見直しがなされました。
古くなって先の丸くなった錐(きり)「閑古錐(かんこすい)」や、「麻三斤(まさんぎん)」を胡麻(ごま)として「あらゆるものに仏性が宿る」と解釈することがあまりに強引過ぎると見直されるようになりました。
合わせて確認!
乾屎橛(かんしけつ)とは「干からびたクソ」
入矢義高の研究によると乾屎橛が、いくつかの禅書で、異なる言葉が用いられていることが明らかになっています。
不浄之物
『祖堂集』巻十九
乾狗屎
『雲門公録』
『雲門公録』では乾いた狗(いぬ)の屎(くそ)だと言っています。
ヒントとなる『雲門公録』
この『雲門公録』の一節は非常に分かりやすいで、一節をそのまま抜き出してみます。
原文:『雲門公録』から
師、僧堂中に在って茶を喫し、
托子(たくす)を拈(とり)り起(あ)げて云う、
蒸餅・饅頭(まんとう)は一(ひと)えに汝の喫(くら)うに任す。
你(なんじ)道(い)え、這箇(これ)は是れ什麼(なに)なるかを。
代わって云う、乾狗屎(かんくし)。
意味
師は僧堂で茶を飲まれていたときに、
茶托を取り上げて言った。
「蒸し餅もまんじゅうも君が好きなように食べたらいい。
ところで言ってみろ、これは何だ?」
師は続けて言った「乾いた犬のクソだ」
乾屎橛(かんしけつ)の意味
乾屎橛は、乾いた(犬の)クソと理解しておけばいいでしょう。
乾屎橛が「乾いたクソ」であることが分かってきました。
しかし、臨済がそういった意図がまだ分かりません。
それでは、臨済が「乾いたクソ」で言いたかったことを探索していきます。
「乾いたクソ」で言いたかったこと
具体的に乾いたクソを用いた表現をしている箇所が雲門公録やそれ以外の禅書にあるので、それを見ていくことにしましょう。
クソを食べてはいけないと言っている
『雲門公録』
悪行の衆生(なじら)、総(す)べて這箇(そこ)に在って、恁麼(いんも)の乾屎橛を覓(もと)めて咬(かじ)らんとするや。
『雲門公録』
なんだって乾いたクソなんかを探して食べるというのか!?
『大慧語録』巻十五
人の屎橛(しけつ)を咬(かじ)るは、是れ好き狗にはあらず。
『大慧語録』巻十五
人のクソをかじったりするのは良い犬ではないよ。
食べてはいけないクソとは何か、これが次に気になってきます。
クソとは「人の話」
徳山宣鑑
仏は是れ老胡の屎橛なり。
徳山宣鑑の示衆説法から
仏とは老いぼれ達磨のクソのことだ。
目指すべき「仏」とは、禅宗の始祖である達磨大師のクソと同じだと言っています。
もし大里を明らめざれば、たとい你(なんじ)が肚の肝の裏を過(とお)り来たるとも、只だ是れ箇(ひとつ)の能く行く底の屎橛なるのみ
徳山宣鑑の示衆説法から
理屈が分かって仏の腹のなかを通り過ぎるほどになったとして、腹の中を歩き回っただけのクソというだけのことだ
人の話した理屈なんて、クソでしかないと言っています。
つまり、「乾屎橛」とは聞くべきでない人の話のことだということになります。
「食べてはいけないもの」としてクソが扱われていること、そのクソとは「人」の教えであることが分かってきました。
解説
自分自身が仏であるのに、それを忘れて仏とは何だろうとあれこれ思い悩んだり、探し回ったり、人に聞いてみたりすることがあります。
そのようなところで得たものはクソでしかない、というのが臨済の言いたい「乾屎橛」の意味ということになります。
犬が栄養のあるものを食べて、その栄養を力に変えて余ったカスを体外にクソとして出します。
食べたエサやら野菜は犬にとって栄養満点で力を得ましたが、その糞尿はその犬にとっても、ほかの誰にとってもクソでしかありません。
釈尊の言葉はありがたいか
釈尊は自力で悟りを得て、偉い人になりました。
その自力で得た体験は当人にとって貴重だけれど、他人の言葉は大事な部分が抜け落ちたクソのようなものだという強烈な教えです。
人の体験談は自分の身にならない
釈尊の経験は釈尊にとっては意義があったけれども(栄養があったけれど)、釈尊が発した言葉や教えは、他人にとっては全く意味がない(栄養がない)ということです。
他人の言葉をありがたがって食べずに、目の前にある食材を料理して(自分の問題を自分なりに考えて)、栄養満点の食事をとろう(自分で解決していく経験を積もう)という意味です。
徹底自力の宗教
徹底自力を説く禅宗は、基本的に言葉を軽視して、自分の実体験を重視します。
クソも植物を育てる肥料にはなりまったくの無意味な物とも切り捨てられません。
しかし、そんなものに両手を合わせる必要なないと考えるわけです。
臨済が求めていること
「今、ここ」にいる自分にとっての意味を、自分の周囲の環境から自分なりに考えて、そうして行動していけよ。
言葉は虛しいだけだから
あなたの今おかれている状況には、他の誰もが体験していないことであり、そしてあなたにとってももっと重要なことであるはずだと禅は諭します。
それらしい説教も書籍もクソくらえだ、というわけです。
今の自分に集中する
大昔の偉い人の言葉もエピソードも、その当人にとって重要なことであって、それから長い年月が経ってすっかり乾ききったカチカチのクソになってしまっていると考えます。
それよりも目の前におかれている瑞々しい野菜や温かいご飯を食べようではないかという禅は促します。
自分らしくあるために
あなたにはあなたの対処すべき現実・課題・なすべきことがあり、それがあなたにとっての最良の食事です。
素晴らしい食事をさておき、乾ききった犬のクソに手を合わせたり、食べようとしたりするのは大バカものか、或いは倒錯してしまっている人に違いありません。
自分らしくあるために自分で考え抜くというのが禅の本懐です。
あなたの問題は、あなたが一番分かっている
大昔の偉人の言葉、賢人の偉業、先輩の教え、先生のアドバイス、親の助言も、それはそれでいいけれども、あなたにとっては犬のクソ程度のものだと考えます。
あなたは、あなたを取り巻く世界にあなたの感性で対峙して行動していく方がいいと考えます。
ノイズに惑わされない
人の考えやメディアの言っていることや世間一般の考え方、普通はこうするという常識ではなく、あなたの感じたあなたの世界のことだというわけです。
天上天下唯我独尊
釈尊の有名な言葉に天上天下唯我独尊という言葉があります。
世界において自分だけが唯一ただ立っているという意味です。
独りよがりの傲慢さや自分だけが賢いということではなく、自分自身にとってどうなのか、私は自分で考える、自分の問題は徹底自力で乗り越える。
何が問題なのかは人ではなく自分で定義する、口出し無用といっているわけです。
自分の周りの犬のフンを探してみよう!
時に人は悩んだ時に救いを他者に求めたりします。困ったときにアドバイスを求めよ、という対処方法がありますね。
自分の外に真実を求める(他力の考え方)
禅宗は厳しく、こんな奴らのいうことは全部クソだと考えます。
- 学校の先生
- 会社の上司
- 親しい友人
- 親・兄弟
- メンター・
- カウンセリング
このように他者に救いを求める、自分の外に答えがあると考えることを他力といいます。
自分で何とか出来る
禅は徹底自力の宗教です。
あなたのことをあなた以上に知っている人はあなた以外にいません。
他人は他人でその人の身の上で話しているから、あなたに当てはまる保証はないと考えます。
遠くにアドバイスを求めるのは愚行
自分の周囲を離れて、もっと遠くに崇高なものがあると考えて、答えを探しまわるパターンもありますね。
イチロー選手の言葉、自己啓発本の励まし、宗教者・偉人の箴言などです。
しかし、上述のとおりそんなものはクソだというのが禅の考え方です。
真実は遠い世界にあるのではない
- 書籍で語られている成功者の教え
- 有名人の考え方
- 偉人の言葉
- 映画のセリフ
遠いどこかに真実があると考えるなというのが禅です。
自分自身が仏なのだから、遠くに勝手に仏さまを空想してさまようなという考え方です。
目の前に拡がっている幸せ
貴重なような、ありがたいような体裁をとっていても、実際にはあなたが本当に自分の環境に対峙して真正面から取り組むこと、これだけが真実だと考えます。
野球選手とあなたの人生は関係ない
例えば、会ったこともない野球選手の発した言葉はどれほどの意味もあなたにとっては意味を持たないし、野球選手当人もそれほど対して考えて発した言葉でもないなんてことがよくあるわけです。
その野球選手も実際には自分自身の実体験を重視してそれだけを信じて取り組んでいたりするわけです。
それなのに、そんな人のクソを拾いに行く必要はありません。
自分を大切に
自分をもっと大切にしてください、と禅は言っています。
自分を信じて、自分にとっての現実と対峙してください。
人があなたのクソを拾いにくるほどよく考えて、自分自身に真剣に生きるということです。
まとめ
以上、乾屎橛の意味についてみてきました。
いかがでしたでしょうか。
読むのも書くのも難しい言葉ですが、理解できてきたのではないでしょうか。
主体的に生きるあなたを応援する勇気の言葉として、心に留めておいて欲しい禅語です。
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
引用・参考文献:
・『一行物』(芳賀幸四郎、淡交社)
・『臨済録』(入矢義高、岩波書店)
・『求道と悦楽――中国の禅と詩ー』(入矢義高、岩波文庫)
画像の一部:
・「pixabay」
・「photoAC」
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コラム
結果としてなすべきことは自分自身でできることをやる、ということになり、その解はありふれたストレス発散法と近しい内容に近づいていきます。
ありふれた誰にでもできる、自分がすぐにできるものが、イコールつならない正しくないものということはありません。
むしろ禅は、今・ここから始めることを強調しますから、こういった凡庸な答えに輝きを見出すことは重要なことといえます。
新鮮な野菜に栄養を見出すようなことです。
遠く輝いているように見えるものがクソであると気づき、倒錯から脱出する瞬間は今・ここにあるということです。