平常心是道の意味:「いつもの心」が道(禅)である」
茶道・剣道・書道・座右の銘で用いられる禅語
(びょうじょうしんこれどう)(へいじょうしんこれみち)
平常心是道は、生粋の禅語ですが、剣道・茶道・茶道などでも、座右の銘としてもよく用いられます。
平常心は「落ち着いた心」と理解されることもありますが、正確には「いつもの心」を意味する言葉です。
ここでいう「道」とは禅のことであり、道教のことではありません。
剣道・茶道・茶道における「道」も禅を意味しています。
読み方
平常心はびょうじょうしんと読み、「びょうじょうしんぜどう」「びょうじょうしんこれどう」と読みのが通常の禅語の読み方です。
しかし、平常心は一般にはへいじょうしんと読みますから、「へいじょうしんぜどう」「へいじょうしんこれどう」と読んでも構いません。
「へいじょうしん これみち」と読んでも間違いではありません。
出典
南宋時代の禅僧無門慧開の著書『無門関』の序にあります。
『無門関』は48則の禅問答(公案)をまとめた禅書で、有名な禅語が多数収録されています。
- 趙州狗子(くしぶっしょう)
- 百丈野狐(ひゃくじょうやこ)
- 南泉斬猫(なんせんざんみょう)
- 洞山三斤(とうざんさんぎん)
- 即心即仏(そくしんそくぶつ)
- 非心非仏(ひしんひぶつ)
- 竿頭進歩(かんとうしんぽ)
禅語の出典にはいくつかのパターンがありますが、「平常心是道」は正当な禅の教本に由来する生粋の禅語といえます。
- 禅書に由来するもの
- 詩句から取り出したもの
- 故事成語から取り出したもの
原文
それでは出典の文脈を確認してきます。
読み下し文
南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。
泉云く、平常心是れ道。
州云く、環って趣向すべきや否や。
泉云く、向かわんと擬すれば即ち乖く。
州云く、擬せずんば争でか是れ道なるを知らん。
泉云く、道は知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記、若し真に不擬の道に達せば、猶大虚の廓然として洞豁なるが如し、豈に強いて是非す可けんや。
州云く、言下に頓悟す。
意味
趙州(弟子)が南泉(師匠)に質問した。
「道とは何ですか」
南泉は答えた。
「いつもの心が道だよ」
趙州はまた聞いた
「それは目指すべきものですか、それとも目指すべきではないものでしょうか」
南泉は答えた。
「目指そうとすれば、手に入らない」
趙州はさらに聞いた。
「それではどうしてそれが道と分かるのでしょうか」
南泉は答えた。
「道とは知るものではない。知るというは妄想だ。知らないものは書き記せない。本当に目指さずに道に至ったなら、そこは空のように何もなく、どうこう言葉で語るものではないはずだ」
趙州はこれを聞いてなるほどと悟った。
読解する
この平常心をどのように意訳するかがポイントになります。
禅寺の意訳をみていきます。
- 「ふだんの心」
(青岸寺、神應寺、西光寺) - 「日常ではたらく心のあり方」
(宝善院) - 「なんのてらいもない当たり前の心」
(西園寺)
次研究者の意訳です。
- 「ふだんの当たりまえな心」
(入矢義高)
多少の言葉の違いはありますが、「普段の日常生活における何気ない心」が平常心ということが分かります。
おおよその意味が掴めてきた
ひるがえって、「落ち着いている心」ではないことも分かります。
ふだんの心は落ち着いていますから、結果として落ち着いている心ということにもなりますが、何とも普段の心が平常心ということになります。
最後に、芳賀幸四郎の解説です。
「この造作に渡らぬ何ともない心が、そのまま人の道である。
寒ければ衣を重ね、腹がへったら飯を食い、くたびれたら寝る。
この平常心のほかに別に道はない。
道はしかつめらしいものでも高遠なものでもない」
芳賀幸四郎
実に明快です。
茶道と平常心是道
平常心は茶道においても時に用いられます。
上記解釈から平常心が利休百首の精神をそのまま表していることが分かります。
「茶の湯とは ただ湯をわかし茶を点てて
のむばかりなることと知るべし」
利休百首
実際には平常心是道を言い換えたのが、上記一句ということになりましょう。
「日常生活の全う」こそ茶道の本質
いずれにしても「茶道は生活芸術」(芳賀幸四郎)ですから、日常的な実践を目指します。
その意味ではこの「いつもの心」で日々禅なる生活を送るということは、茶道の本懐に照らしてもよきことと考えられます。
日々の生活における茶道に実践についてはこちらもご覧ください。
座右の銘になる「平常心是道」または「平常心」
このように日々の生活を当たり前に暮すことを目指すのが「平常心是道」ですから、座右の銘としても用いることができます。
「平常心是道」は「是道」を取ってただ「平常心」として用いら得ることも多くあります。
同様の意味の禅語は他にもいろいろあります。
剣道と平常心是道
剣禅一味と言われ、剣道と禅はは表裏をなすとされます。
剣道をスポーツとみても、禅とスポーツは意外と深い関係があります。
スポーツにおける禅については、こちらもご参照ください。
ヒントになる「馬祖語録」
馬祖という著名な禅僧が『馬祖語録』のなかで「平常心是道」を解説している一節を紹介しておきます。
ここでいう道は禅のことで、道教のことではありませんのでご注意ください。
読み下し文
示衆に云く、道は修するを用いず、
但だ汚染すること莫れ。
何をか汚染と為す。但し生死の心有りて、造作し趣向せば、皆な是れ汚染なり。
若し直に其の道を会せんと欲せば、平常心是れ道なり。
何をか平常心と謂う。
造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡無く聖無し。
意味
馬祖は弟子たちに言った。
「道というものは勉強して学ぶようなものではない。汚れに染まってはいけない。
では汚すとはどういうことか?
生死を意識したり、何かを意図して行うこと、こういうことが汚れである。
道を得たいなら平常心、これが道だ。
では平常心とは何か?
意図なく、議論なく、好き嫌いなく、正邪もない心だ。」
「理屈や議論、考えるを止めるて、無心でやること」を平常心と馬祖は言っています。
「生死の心」があっては汚れて道を得られないとも言っています。このあたりは剣道のヒントになるかもしれません。
書道と平常心是道
書道でもこの句はよく用いられます。
この語を書く場合もありますし、平常心の精神で書くと言った場合もあります。
書道でも大事な部分はコチラ
書道に励まれる皆様に、冒頭の『無門関』に添えられた「頌」(じゅ)をご紹介いたします。
読み下し文
春に百花あり 秋に月あり
夏に涼風あり 冬に雪あり
若し閑事の心頭に挂(かかる)こと無くんば
すなわち是れ人間の好時節
意味
春は花が咲く、秋は月が美しい。
夏の風は心地よく、冬の雪もよろしい。
余計なことに気を取られなけば、
いつだって最高の季節のはずだ。
「平常心是道」に添えられたいわばヒントとなる詩句です。
当たり前のことを当たり前にやるのが最高だと言っています。
書道でも人気の言葉
下に示す原文のオレンジ色で記した部分は書道としても度々用いられます。
ぜひ“平常心”で書いてみていただければと思います。
無門関の頌(原文)
春有百花秋有月
夏有涼風冬有雪
若無閑事挂心頭
便是人間好時節
自然風景を謳いながら心のあり方に迫る、いかに禅らしい美しい詩です。
仮名で書くなら
上記を元ネタとした道元禅師のこの一句も素晴らしいです。
切れ味は元ネタを食っているのではないかと思います。
春は花 夏ほととぎす秋は月
冬雪さえて 冷し(すずし)かりけり
道元禅師
道元とは
道元は日本にある大きな禅宗2つのうちの1つ曹洞宗を起こした人物で、大著「正法眼蔵」だけでなく、料理や食事のとり方に係る「典座教訓」などの著作を残しています。
厳しい修行で知られる永平寺を開いた鎌倉時代の禅僧です。
道元の詩的センス
一方で道元のその詩歌は感性豊かで美しく、怖い禅僧といったイメージが少し変わってみえてきます。
こちらの詩も素晴らしいのでチェックしてください。
英語で「平常心是道」
Usual mind just Zen
道は道教ではないので、TaoではなくZenとしました。
まとめ
以上、禅語「平常心是道」の意味を確認してきました。
茶道でも剣道でも書道でも、そして日常生活で活かせるのがこの禅語です。
座右の銘としてお使いいただける禅語です。
ぜひ、「当たり前の心」で今日もお過ごしください。
引用・参考文献:
・『平常心の意訳』
(青岸寺)(宝善院)(西園寺)
(神應寺)(西光寺)
・『一行物』(芳賀幸四郎、淡交社)
・『禅語辞典』(入矢義高監修、 思文閣出版)
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