「看脚下」・「脚下照顧」の意味:「足元をみよ」という禅語
照顧脚下も看脚下も同じ意味です
(きゃっかしょうこ)
禅宗のお寺の玄関に立て札として「脚下照顧」と掲げられていたりします。
足に関わる禅語のようですが、実際にはどのような意味なのでしょうか。
まずは読み方から、次に原典を辿りながら意味を考察し、最後に実践方法を考えていきます。
禅語「脚下照顧」の読み方と意味
「きゃっかしょうこ」と読みます。
足元を気にしろというそのままの意味合いで、「あまり遠い将来ばかりを気にしないで、今日いまやるべきことをやろう」というのが大意になります。
- 玄関において「足元に気をつけろ!」
- 将来を案じずに「今を生きろ!」
- 衒学的議論の批判「とにかくやれ!」
本稿では原典に当たりながら、3つの意味を見ていくことになります。
「脚下照顧」の類語
「脚下照顧」には同じ意味の言葉が幾つかあります。これらもまとめて解説していきます。
「照顧脚下」
四字熟語の前後二文字を反転して用いる場合があります。
この場合も意味は変わりません。
こちらの順序の方が漢語風で、次に挙げる類語とも語感が近くなります。
次に挙げる語が由来としては原典が明確なため、脚下照顧・照顧脚下のいずれかならば、照顧脚下を採るという考え方があるのではないかと思います。 実際に使われている頻度としては脚下照顧>照顧脚下です。
「看脚下」
同じ意味の言葉に「看脚下」があります。
看脚下は「かんきゃっか」と読みますが、「脚下(あしもと)を看(み)よ」と読んでも全然構いません。
意味は脚下照顧と同じです。
本稿では「看脚下」を探索していく
看脚下は禅語としては出自のはっきりした正当な禅語です。
脚下照顧・照顧脚下は禅の本域の文脈ではそれほど用いられません。
あえていえば、看脚下の大衆語が脚下照顧・照顧脚下です。
現在、実際に使われている頻度としては脚下照顧>照顧脚下>看脚下です。
そこで本稿では、原典が明確な「看脚下」をひも解いていくことにします。
原典「五燈會元」をひも解く
禅語は、禅の文脈ではないところから持ってきた言葉で禅の解釈を施して用いるパターンと、禅宗の逸話に基づく、いわば本流から直接持ってくるパターンがあります。
「看脚下」は後者のパターンで禅者同士の会話にその端を発しています。
それでは、 この逸話が収録されている書籍である「五燈會元」をひも解いていきましょう。
どんな逸話に基づいているのか?出典となる禅問答
ある高名ななお坊さんとその弟子3人にまつわるエピソードが「看脚下」の始まりです。
法演禅師とその弟子3人仏鑑、仏眼、仏果のエピソードです。
いわゆる禅問答です。
エピソード
師匠と弟子3人の合わせて4人で修行の山ごもりをしていて、夕方になったので下山しようということで帰路につきます。 しかし、思いのほか日が落ちるのが早く、また月明りに乏しく、下山途中で辺りは真っ暗闇になってしまいます。
(原文)
師、佛鑑、佛眼と、亭上に五祖に侍し、夜坐、方丈に帰るに、灯已滅す。
いざ禅問答の開始
師匠はそこで弟子3人に尋ねます。
「この状況を禅らしく表現してみろ」
五祖法演
(原文)
祖、暗中に云く、各人一転語を下せと。
さて、この真っ暗闇の下山途中を3人は何と表現したのでしょうか。
いわゆる禅問答:3人の答えとは
質問も回答もぶっきらぼうに短いので、斜め読みしてもなかなか理解できないところがやっかいです。
1人目の回答
「暗闇は我々を覆いつくし、まるで大きな鳥が羽を広げているかのようだ」
仏鑑慧懃
(原文)
鑑云く、彩鳳舞丹霄。
意味合いとしては、大変なことになりつつも気丈に「(大自然に包まれて甚だ結構、大いに楽しもうではないか)」と答えていることになります。
苦難に対して毅然として態度で、それを詩的に表現していて素晴らしい回答です。
この回答についてはこちらのページで別途考証しています。
2人目の回答
「暗がりの道はまるで大きな黒い蛇のようだ」
仏眼清遠
(原文)
眼云く、鐵蛇橫古路。
暗闇の山道を下るという対峙している困難を大きな蛇に例えて、「恐ろしい帰り道になった」と直線的な回答です。
禅としては“そのもの”にアプローチすることを重視するので、1人目より良い回答ということになります。
1人目の詩的表現や危機を楽しむという態度は余計なのことというわけです。
しかし2人目の回答も、どうすればよいかという答えがない点では同じです。
【正解】3人目の回答
「足元を見て帰ろう」
仏果園悟
(原文)
師云く、看脚下。
原典では「看脚下!」の一言です。
子どもでも答えられそうな単純明快な答えで、まったく詩的要素も小理屈もありません。
端的な答えが正解!
実際には五祖法演という禅宗の系譜で5代目を継いだ人とその高弟のやり取りですから、高度の形而上学的正答があってもよさそうです。
しかし禅は、ごくシンプルな答えを好みます。
正解は“そのものズバリ”を答えた3人目の、「暗いから足元を気をつけて帰ろう」になります。
修辞ならば1人目がよい
1人目は実際には「彩鳳丹宵を舞う」と答えていて、2人目は「鉄蛇古路に横たわる」と答えています。
そして3人目が「看脚下!」です。
美しさやコンテクストの複雑さでいうと、⓵⇒②⇒③かもしれません。
禅は端的であるべきと考える
しかし禅では、その逆の順番になります。
- 看脚下
- 鉄蛇古路に横たわる
- 彩鳳丹宵を舞う
夜道の下山に際しては「足元を見て帰る」、それだけのことだろう!というシンプルさが禅の好む清々しい態度ということになります。
禅語の解釈を導出する
それではこの原典のエピソードを踏まえて、私たちのとっての「脚下照顧」の意味を考えていきます。
冒頭お伝えしたとおり、3つの解釈を紹介します。
3つの解釈
解釈①:玄関において「足元に気をつけろ!」
エピソードをそのまま持ってきて玄関において、「足元に気をつけろ!転ばないようにね」ということが第一義ではあります。
禅寺の玄関にはよく「看却下」の立て札が置いてありますね。
もちろん、この言葉はただ”足元”の話をしているのではなく、エピソードの持つ異なる意味があります。このダブルミーニングまで掴めるのがよいと思います。
解釈②:将来を案じずに「今を生きろ!」
冒頭述べたように少し意味を拡張して「遠い将来を考えずに、今やるべきことをしっかりやろう」という意味を取ることができるかと思います。
禅は将来や過去を考えることを嫌い、現時点を最重視しますから、これはこれで禅の本懐といえます。(⇒今に集中しろという禅語)
解釈③:とにかくやれ!衒学的議論の批判
衒学(げんがく)とは、学問・知識をひけらかすような論説や議論のことを言います。
先ほどの1人目の答えと2人目の答えは、難しい言葉を使っていてカッコよくそれらしく聞こえます。
しかし禅は、そういった“それらしいもの”を最も嫌います。
そして“そのものズバリ”を好みます。
このエピソードはそういう意味で、衒学的議論の忌避という態度の勧奨として捉えることができます。
鳥が飛んだり、蛇が横たわるのではなく、「足元を見て帰る」という直線的な現状把握と実践が禅らしい宗風です。(⇒実際にやっていくことを求める禅語)
間抜けの議論ほど、高尚に聞こえるという厄介
どこにあってもこうした本質を見失った議論というのはありがちです。
夜の山道を下るのに、それを鳥や蛇に例えていても無事帰れるかどうかに影響はありません。
それどころか、そのような議論をしていてはかえって危ういということになります。
“ただ足元をみて帰る”だけのことではないか、というのがこの逸話の主旨です。
間抜けな議論に陥るなという肝に銘じたい含意を導出できます。
「看脚下」「脚下照顧」の痛快さ
とにかくやろうよ!やるべきことはいつも明確で、非常にシンプルです。
翻って、では何をすべきかというと、“足元に気を付けて下る”ということだけです。
当たり前のことを当たり前にやるということをせずに、議論が白熱してしまったりしまうことがよくありますね。
ポイント
どうでもいい議論はよく起こりがちだけに、「脚下照顧!」には痛烈な響きが伴ってくるわけです。
実践を志向する:練習問題から考える
単純明快な事実を軽んじて、おかしな議論に走ることを戒める語として「脚下照顧」があることが分かりましした。
単純明快な事実
・暗がりの山道は、慎重に下るのがいい
どうでもいい議論
・暗闇は鳥が羽を広げた如く、風流だ
・暗がりの道は蛇のように恐ろしい
夜道の下山でなくても、同じことはよく起こります。
練習問題:いかに体重を落とすか
例えば健康診断で「体重を少し落とした方がいいですよ」と言われたとします。
やるべきことは単純で、医師の聞いてもその示唆は単純なものだと思います。
<単純明快な事実>
・体重を落とすには運動をすればいい
<どうでもいい議論>
・レコーディングダイエットといって、まず摂取カロリーを記録して見える化するのがよい
・1食置き掛けダイエットといって、食事1回分をドリングで済ますのがいい
・炭水化物ダイエットといって、ご飯・パンを減らすのが効果的らしい
どうでもいい議論は際限がない
本質的でない議論ほど、複雑になり、また好まれる傾向にあることは分かります。
しかし、世の中には多くのダイエット情報が溢れています。山を下るのに、鳥や蛇が出てきたようにです。
ダイエット方法には際限がない
・枝豆ダイエット ・リンゴダイエット ・青汁ダイエット ・おかゆダイエット ・寒天ダイエット ・キャベツダイエット ・クッキーダイエット ・グルテンフリーダイエット ・グラノーラダイエット ・黒豆ダイエット ・黒酢ダイエット ・酵素ダイエット ・こんにゃくダイエット ・スムージーダイエット
単純な答えを受け入れられるか
すなわち、足元とは現実ともいいかえることができます。
現実というのは、文字通り一歩ずつしか進まない単純作業の繰り返しのようなところがあります。
一気に解決するような方法というのは、議論されがちな夢でしかかありません。
<単純明快な事実>
・やるべきことが明確
・すぐに結果がでない
・少しずつ試行錯誤して習熟していく
・とりあえずやってみる
・全く同じケースというのはないから、今回の自分のケースが自分で考えるのがいい
・何回も失敗しながら進めばいい
“できるまで継続する”
<どうでもいい議論>
・議論の繰り返し
・調査の繰り返し
・実践がない
・失敗しない方法があるはず
・それを誰かが知っている
・だから、聞いたり調べたりするのがいい
“いい方法が見つかってからやる”
衒学的な議論をする人にとっては、現実主義はあまりに平凡でつまらないものに見えます。
この平凡でつまらないものを徹底遂行できるか、楽しんでできるかということではないかとも思います。
日常生活で実践する
身の回りを片付ける
禅は空理空論を避け、日々の実践を志向します。
身のまわりの片付け・清掃から始めてみてください。
最も始めやすく効果の出る実践方法です。
禅問答に挑戦する
多くの禅語は禅問答に由来しています。
興味のある方は挑戦してみてください。
座禅をする
座禅は最も基本的な”禅”の実践になります。
オンラインで座禅会に参加できる時代になりました。
まとめ
本稿では「脚下照顧」の意味を探索するために、「看却下」の原典を確認しました。
そして次に、その実践について検討してきました。
ふとこんな言葉を思い出しました。
強者は現実を見て、弱者は夢を見る。
強者は、弱者が夢を見がちで現実から目を背けるという現実をも直視する。
翻って弱者は、現実を直視する強者に夢や理想を見出す。
山を一歩ずつ下るのか、鳥や蛇の話をするのか、「脚下照顧」の実践は日々の生活のなかで問われている禅問答と言えます。
山を下り切るまで一歩一歩足を進めるという平凡な努力の継続の重要性とくだらない思索やおしゃべりの忌避を「脚下照顧」の意味として捉えるのが、原典に忠実な理解と言えるのではないかと思います。
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
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おまけ:「看脚下」を英語で言うと
問い合わせの多い英訳ですが、含意を踏まえながら訳してみましょう。
Watch your feet.
Mind your step.
端的な方が禅語らしいですが、文脈からだと4人の帰り道ですからこれでもいいかもしれません。
Let’s watch our step.
ただ、自分の見解を述べよと言われての禅的な回答を述べる場面ですから、上の2つの方がよさそうです。