禅問答をやってみたい人へ:サンプル20題&実際どうやるのかを徹底解説

禅問答は今も実際に行われている禅宗における修行の1つです。

とんちでもなければ、意味のない言葉の応酬でもありません。

このページでは、実際の禅問答とはどのようなものなのか、実際に挑戦してみたい人向けに解説していきます。

禅問答の基礎を学ぶ

禅問答に関する意外な事実

禅問答というと、アニメの一休さんのように“とんち”を働かせることが想起されます。

一休禅師は実際の日本の禅史において非常に重要な禅僧であり、実在していた人物ですが、とんち問答をしていたわけではありません。

禅問答は禅宗における修行形態の一つ

禅問答は禅宗における修行形態の一つです。

基本的には師匠(禅では師家といいます)と弟子のやり取りです。

禅問答は基本的にとても短い言葉のやり取りで、意味を理解しづらいため、知らない人にとっては“なぞかけ”や“とんち”をしているように思えます。

実際、禅問答とは「意味のない言葉のやり取り」というような意味で今日用いられたりもします。

禅問答は今も行われている修行の形式

禅問答は一休さんの世界ではなく、現在も臨済宗を中心に禅宗において実際に行われている修行の形態です。

禅宗の基本的な修行は「座禅」ですが、臨済宗ではこれに加えて「禅問答」を重要な修行の方法として行っています。

修行の現場では「禅問答」と言わずに、「参禅」または「独参」と言います

実際に禅問答は行わているものの、この修行方法は禅問答とは呼ばず、「参禅」または「独参」と呼ばれます。

このページでは基本的に「禅問答」で統一して表記していきます。

この「参禅」・「独参」という呼ばれ方は実際に行わている禅問答のやり方に起因しています。

どのようなやり方なのかは後述します。

禅問答における問題は「公案」と言います

禅問答における問題のことを「公案」(こうあん)と言います。

したがって、禅問答をまとめた書物のことを「公案集」と呼びます。

「公案集」についても、この後詳述します。

禅問答がない禅宗もある

禅は言葉や経典を軽視する宗教であることを前述しました。

そこへ行くと、禅問答という言葉のやり取りや、それをまとめた公案集というものは禅の本来ではないということになります。

実際にこのような批判はあり、禅問答という修行形式を重視する臨済宗に対して、曹洞宗ではこの対話という修行形式を基本的に採用していません。

座禅とともに禅問答という修行形態を重視する臨済宗が看話禅と言われるのに対し、禅問答をせずにひたすらに座禅をする曹洞宗は黙照禅と呼ばれたりします。

禅問答は永平寺では行われていない

厳しい修行で有名な永平寺は曹洞宗の総本山です。

したがって、永平寺では禅問答という修行は行われていません。

永平寺を開いた曹洞宗の開祖道元は「只管打坐」を説きました。

「只管打坐」とはひたすら座禅をするという意味です。

まさに黙照禅の本懐です。

悟りへ導く魅力ある修行形式

禅は言葉を軽視するのに禅問答という修行形式はおかしいではないかという指摘はもっともです。

しかし、実際には禅問答をせずにひたすらに座禅をする曹洞宗の禅僧も、臨済宗の師家の元で禅問答の修行を行う人もいます。

修行僧でない一般の方であっても禅問答の修行を行うことは可能です。

一般の方が禅問答の修行を行うことができる全国の場所については、最後にまとめてお伝えします。

禅問答は答えも公表されている

禅問答は、その問題集である公案集のなかにすでに答えまで提示されています。

一休さんでは、一休さんが問題を出されて、とんちの効いた答えを切り替えすというのがほとんどの場合のあらすじでした。

実際の禅問答は、昔の禅僧たちが繰り広げられていた禅問答がそのまま掲載されています。

すなわち、質問も答えも乗っているということです。

禅問答から禅語が生まれた

座右の銘や四字熟語として用いられる禅宗の文脈で生まれた言葉を禅語と言います。

禅語の大半は、公案集における禅問答から切り取られるかたちで用いられるようになりました。

公案とは何か

禅問答において、質問する側の投げ方を「考案」と呼びます。(禅問答のやり取りを考案と呼ぶこともあります)

先の通り、公案の答えも合わせて提示されていて、公案集と呼ばれます。

公案集は何種類もあり、いずれも唐代・宋代など古い時代に中国でまとめられたものです。

代表的な考案集

有名な公案集は「無門関」(むもんかん)と「碧巌録」(へきがんろく)です。

「無門関」は48の公案があり、「碧巌録」は100の公案が掲載されています。

実際の問題の事例は後ほど紹介します。

公案の単位は「則」

公案は問題集のようなものですが、「第1問、第2問、第3問、」とは数えず、通常「1則、2則、3則」と数えます。

したがって、「無門関」には48則の公案があり、「碧巌録」は100則の公案が収録されているという言い方になります。

禅問答は先人へのトリビュート集

禅問答をまとめた書籍を公案集と言います。

実際の公案集は、そもそも修行僧を訓練するための問題集としてまとめられたものではありません。

優れた禅僧たちの言動を賞賛し振り返るためにまとめられたものです。

ソクラテスが一切書物を残さず、後に弟子のプラトンらがソクラテスとの対話を振り替えて本にまとめたように、禅においても一切何も書いていない有力な禅僧が多数います。

禅問答はQ&Aというよりは対話の記録

優れた禅僧の対話(ダイアローグ)をまとめたものが公案集です。

基本的には弟子が質問し、師が答えた記録集

禅問答では基本的に弟子が質問し、師匠が答えるという形式です。

つまり、学校のテストのように先生が学生に試験を課すのではなく、学校の授業のように学生が先生に質問を行うという形式になります。

これには先に述べた禅問答が「先人へのトリビュート」であるという点が影響しています。

実際には先人が質問して弟子が答える場面もあったでしょうが、それでは焦点が弟子の答えに行ってしまいます。

あくまで主役は先人の言動であり、質問に対していかに先人が答えたか、いかに振る舞ったかということにフォーカスするため、このような形式が採用されていると思われます。

したがってイメージとしては、教室で質問したときの正式回答というよりは、「師匠に随行していたときに「仏って何ですか」と聞いたことがあるのんだけど、その時の師匠は「○○」って答えたんだ。すごい回答だよね」というようなニュアンスです。

師匠の一方的な講義のかたちや、弟子が問う場合もある

師匠による一方的な説教というかかたちもあり、この場合はもはや禅“問答”とは言えませんが、やはり難解であることが多いです。

少ないですが、師匠が弟子に問う場合もあります。

先人同士の応酬というパターンもある

師匠と弟子のやり取りだけではなく、優れた過去の禅僧同士によるやり取りといった場合もあります。

禅問答は「先人たちへのトリビュート」ですから、このパターンもあり得るわけです。

禅問答を理解するポイント

禅問答は独特な会話のため、理解がなかなか難しいです。

禅問答のどのような点が独特なのか、その特徴を掴んでおくと理解の助けになります。

禅問答の特長①とにかくやり取りが短い

ソクラテスの弟子たちとの対話は、それなりの分量でソクラテスも弟子も話をしていて、その論理性が哲学としての成立につながっています。

これに対して禅問答の対話は極端に短く、一問一答を基本とし、極めて文脈が深いため(ハイコンテクストのため)、一読するだけでは、ソクラテスのように論理を追えないところに特徴があります。

答えは基本的に単語

これに対する師匠の答えはたいてい単語です。

ぶっきらぼうで、その理由を語らないため、これが禅問答を不可解にしている要因ではあります。

禅語が短いのは、禅が言葉を軽視しているから

禅の有名な言葉に「以心伝心」という言葉があります。

訓読みすると「心をもって心を伝える」ということです。

「教外別伝」「不立文字」といって「悟りや教えは言葉で伝えるものではない」という考え方によるもので、従って禅では経典のようなものを基本的に認めません。

師匠の言葉も軽視されます。

したがって、公案集そのものもかなり例外的な経緯で成立しています。

そのため、特に公案集は燃やされてしまったりしたこともあります。

言葉を軽視する禅において、優れた先人がくどくどと説明していたのでは、示しがつきません。

そのため、先人は多くを語りません。

時に答えを語らず、振る舞いのみだったりするのはこのためです。

最も短い答えは、回答(言葉)なしというもの

禅の有名な言葉に「喝」がありますが、これも禅問答の一節に登場する言葉です。

有力な禅宗である臨済宗を起こした臨済が弟子たちに連発した言葉です。

「しっかりしろ!」の意で、言葉による導きを否定する禅が突き詰めた最も短い助言の言葉と言えます。

禅問答の特長②当時の文化的な背景が分かっている必要がある

あまりにハイコンテクストは禅語は、その答えとなる単語が当時にしか用いられていない単語であることが多くあります。

この単語はだいたい何かの例えとして持ち出されているため、それが何なのかをしっかり理解していないと、チンプンカンプンということになります。

これも禅問答を不可解にしている理由です。

しかし、当時の人にとっては自然で分かりやすい表現だったことも大いに考えられ、現代の私たちにすんなり理解できないことが多くあっても、禅問答の特長はその不可解さにあるとするのは早計といえます。

禅問答の特長③一文字に込められた意味が深い

禅問答における答えでは、例えば「花」・「雲」・「風」といった自然物に例えることが

多くあります。

短い禅問答ではこれら一文字ずつに意味が込められていることも多く、その前提知識がないと理解が難しい場合があります。

禅問答の特長④以前の公案集などを踏まえた禅問答も多い

禅問答のなかには、それよりも昔の禅問答を踏まえたやり取りになることも多くあります。

したがって、場合によってはその元となる禅問答を把握していないと理解が難しい場合もあります。

これも禅問答の理解を難しくしている要因です。

禅問答は先人たちへのトリビュートですから、トリビュートを踏まえた対話が新たな逸話となって振り返り賞賛されるということもあるわけです。

禅問答の特長⑤同じ質問でも異なる回答がある

公案集では、同じ質問が何度も登場します。

さまざまな時代のさまざまな場面で、弟子たちが自分の師匠に同じ質問をしているわけです。

禅問答の面白いところは、これらの回答が毎回異なる点です。

数学と異なり、同じ問いでも答えがいくつもあり、すべてが正しく、異なるすべての正解をつながる禅の考え方や文脈というものがあります。

あとで紹介する「如何是仏」(いかなるかこれほとけ)、「祖師西来意」(そしせいらいい)は特に問われることが多いです。

現在の禅問答

ここまで、禅問答が先人たちの言動をまとめたトリビュート集であることやその特徴を確認してきました。

ここからは、現在の禅問答がどのように行われているのか、みていきましょう。

現在も古い公案集を使っている

現在の禅問答も、かつて編纂された公案集を使っています。

しかし、先に述べたように、公案集には質問だけでなく答えが乗っています。

というのは公案集は問題集ではなく、あくまで先人たちがいかに生きたか・語ったかを後代の弟子たちがまとめた書物だからです。

そこで、現在の禅問答では、実際の運用にあたっていくつかの工夫がされています。

すでに提示されているQ&Aの意味を問う

公案集にはすでに回答までが提示されていますが、その内容は短文で理解が容易でないものもの多いため、「そのやり取りが何を意味しているのか」を現在の禅問答では問うことになっています。

師匠が弟子に問う

かつての禅問答では多くが弟子の質問に師匠が答える形式が採られていました。

しかし、現在の禅問答では師匠が質問をし、弟子が回答するというテスト形式が採用されています。

禅問答は弟子の修行の進展を促すことが目的ですが、同時に弟子の理解の度合いを測るという性質が帯びていることになります。

密室で行う

かつての禅問答は弟子が公開の場で師匠に尋ねていました。

そもそもには日常的な師匠と弟子のやり取りが禅問答として扱われるようになったという方が適切かもしれません。

また、公案集というかたちで禅問答がまとめられ、回答を含めて明らかになっています。

回答が明らかでは、個別に弟子の進展を促したり、理解の度合いを測ることはできません。

そのため、現在の禅問答はすべて密室で行い、室内でのやり取りは口外してはならないことになっています。

以心伝心だから一対一の密室

入学試験や入社試験では口頭試験の場合でも、面接官や試験を受ける側も複数であるケースがあります。

しかし、禅問答では必ず一対一です。

師匠から弟子に心を持ってつないでいくという禅の考え方が、この形式によってうまく実現できているとみることもできます。

対話による修行という形式「禅問答」を確立したのは江戸中期以降

このような師匠が弟子に質問するスタイルや密室で非公開で行う形式は、江戸時代中期の禅僧白隠が体系化したものです。

対話という修行形式は看話禅とも言われ、中国にその伝統がありますが、このような禅問答のスタイルは、日本独自の修行形式です。

筆記試験はない

テスト形式とはいったものの、あくまで問答であり、口頭試験という形式です。

筆記試験はありません。

一度に多くの回答を秘密の状態で回収できる筆記試験は効率がよい形式ですが、「文字や経典を軽視する」というのが禅の大前提ですから、この方式は採られていません。

実際の手順

「禅問答」の実際の手順

  1. 定められた時間に順に入室する
  2. 正解したら新たな問題が出される
  3. 不正解ならば即座に退室
  4. 不正解が続いた場合は時に何年もかかる

① 定められた時間に順に入室する

師家が待っていて、弟子たちは順番に入室していきます。

当然、弟子たちは修行の進展の度合いに応じて、出される問題が異なります。

この師家の室内に入り、回答を示す一連の流れを「参禅」または「独参」と言います。

参禅のない曹洞宗では、座禅修行を行うために寺に出向くことを「参禅」と言います。

まぎらわしいので、ご注意ください。

禅問答における掛け声は実際には使われていない

こちらの2つが有名ですが、必ず使わているわけではなく、むしろ稀れです。

そもそも禅問答が形式的なものではなく、対話をまとめたものであるため、そのやり取りには特定の形式というのはありません。

「什麼生」(そもさん)

「さあどう考える?」の意味で公案集に時々出てきます。

毎回使われている言葉ではなく、また今日の禅問答において使われてもいません。

「説破」(せっぱ)

禅問答において問題を出す側が「什麼生」と言って、答える側が「説破」と「お答えしましょう」の意で用いるとされています。

実際には公案集でも今日の禅問答でも使われることのない言葉です。

② 正解したら新たな問題が出される

師家の示した問題に正解した場合には、師家から新たな問題(公案)が出されます。

弟子はその問題の答えを考え、次の参禅の機会に自分の回答を師家に示します。

③ 不正解ならば即座に退室

答えが間違っていた場合には、師家が鈴をならします。

この鈴がなったら、弟子はすぐに退室しなければなりません。

多くの場合、不正解の場合でも師家がヒントを出すことはありません。

問題の変更もありません。

新しい回答がみつかったら、また参禅します。

④ 不正解が続いた場合

何度も参禅することになります。

場合によっては数か月、数年、ときに十年に及ぶこともあります。

ほんの短文の禅問答と修行僧は大いに格闘することになります。

禅問答を経験した有名人

江戸中期以降に確立したから現代まで、今日の禅問答の方式で禅問答を経験した人には次のような人たちがいます。

禅問答を経験した有名人

  1. 夏目漱石(小説家)
  2. 山岡鉄舟(剣術家)
  3. 平塚らいてう(女性思想家)
  4. 中曾根康弘(政治家)
  5. 安倍晋三(政治家)
  6. 川上哲治 (プロ野球監督) ほか多数

江戸中期以前の禅修行者は現在のような禅問答は行われておらず、座禅と提唱(講義)および対話、作務による修行だったと考えられます。

江戸中期以前の禅修行者

  1. 北条時宗
  2. 北条早雲
  3. 千利休
  4. 武田信玄
  5. 上杉謙信
  6. 織田信長 ほか多数

有名な禅問答

禅問答は優れた過去の禅僧のエピソードをまとめたものでした。

以下では、有名な禅問答を幾つか紹介します。

頻出問題①:「仏とは何か」

禅問答には質問のパターンがあり、多くの場合「いかなるかこれ、○○?」と弟子が師匠に問うパターンがよくあります。

これは実に頻繁に用いられる質問です。

原文では「如何是仏」(いかなるか これほとけ)です。

この質問については弟子が師匠に聞いています。

先に述べたとおり、同じ質問なのに答えは毎回違います。

どのくらい違うのか、実際に見ていきましょう。

初級編

まずは比較的理解しやすい例題からです。

公案にはそれぞれ公案の名前が付けられています。

鑊湯無冷處(かくとうにれいじょなし)

弟子:「仏とは何か」

師匠:「鑊湯無冷處」(かくとうにれいじょなし)

『白雲守端禅師広録』

まず読みづらいので難解です。

鑊湯は「煮えたぎった湯」のことで、冷処はそのまま「冷たいところ」です。

鍋の中の熱い湯に冷たいところはありません。

仏の心も同様に分け隔てなく、至るところにあるという解釈になります。

解釈としては比較的簡単です。

汝是慧超(なんじはこれえちょう)

慧超:「仏とは何か」

法眼禅師:「汝はこれ慧超」

『碧巌録』第7則

法眼禅師に慧超(えちょう)という修行僧が質問しています。

「おまえは慧超だよ」と答えています。

慧超は自分が誰かを聞いていないので、このやり取りは支離滅裂です。

法眼禅師の言いたいこととしては「君こそ仏だよ」と言っているのですが、そうハッキリ言ってくれていないので、それが少し難解さを生んでいます。

「自分が仏である」というのは禅宗の基本的な考え方で、関連する言葉がいろいろあります。

中級編

当時の文化的背景の知識がないと、理解が難しい禅問答を紹介します。

麻三斤(まざんぎん)

弟子:「仏とは何か」

洞山守初:「麻三斤」

『無門関』(第十八則)
『碧巌録』(第十二則)

「仏とは何か」と中国の洞山守初(とうざんしゅしょ)という有名な禅僧が聞かれたときの回答が「麻の布を三斤」です。

意味が分からないのはやむを得ません。

当時の文化的な背景を理解しておかないと理解できないのは当然で、しかし当時の人の間ではすんなり理解できた可能性もあります。

大まかな意味についてはこちらをご参照ください。

乾屎橛(かんしけつ)

弟子:「仏とは何か」

雲門文偃:「乾屎橛」(かんしけつ)

『無門関』第二十一則

こちらも非常に著名な禅僧、雲門文偃(うんもんぶんえん)による回答です。

「乾屎橛」は乾いたクソのことです。

仏と聞かれてなんととんでもない答えでしょう。

実はこの「乾いたクソ」は“人の話”を例えて用いられています。

ここまで聞いても理解しづらいですよね。

その真意についてはこちらをご確認ください。

上級編

同じ質問にいろいろな答えがあることをみてきました。

しかし、その意が同じであったり、違う人が言っていたりするので、ある程度しょうがないものとして受け入れられるかと思います。

次の語は同じ人物が全く意味の正反対のことを言っている事例です。

こうなると、理解するにも一筋縄ではいかないところがあります。

とはいえ、回答している馬祖にはそれなりの理由があって、このように使い分けています。

即心即仏(そくしんそくぶつ)

馬祖禅師が「仏とは何か」を問われたときの答えです。

弟子:「仏とは何か」

馬祖:「即心即仏」

『心王銘』

「その心が仏である」という非常にシンプルな答えです。

非心非仏(ひしんひぶつ)

別な場面で同じ質問をされた馬祖禅師の言葉がこちらです。

弟子:「仏とは何か」

馬祖:「非心非仏」

『心王銘』

もちろん、馬祖禅師には意図があり、同じ質問に対して異なる回答をしています。

馬祖禅師の真意を理解するには、馬祖禅師を取り巻く当時の状況を理解する必要があり、そのような前提知識が必要な分、特に2つ目「非心非仏」の回答は難解になります。

馬祖禅師の教えは非常に平易で、特に1つ目の「即心即仏」は分かりやすく人気と好評を得ました。

あまりに流行しもてはやされた「即心即仏」という言葉に危ういものを感じた馬祖禅師がブレーキをかけた言葉が「非心非仏」です。

頻出問題②:「達磨はなぜインドから中国に来たのか」

この質問は原文は「祖師西来意」(そしせいらいい)です。

「如何是仏」と並んで最もよくされている質問で、「如何是仏」と同様に回答はさまざまです。

祖師は、インドから中国に渡って禅宗の開祖となった達磨大師のことです。

すなわち、質問の意味するところとしては「達磨がもたらした禅の真意とは何か」という質問です。

質問から理解しづらいので大変ですよね。

それでは回答をみていきましょう。

坐久成労(ざきゅうじょうろう)

Q:「達磨はなぜインドから中国に来たのか」

A:「坐久成労」(ざきゅうじょうろう)

『碧巌録』第十七則

「長く座禅をして疲れたね」から転じて、今の日本語でいうと「お疲れ様でした」「ご苦労さん」の意味で用いられていました。

「久坐珍重」も同義です。

質問に対する回答としてはほとんどかみ合っていないように思えます。

「達磨がもたらした禅の真意とは何か」という肩に力の入った質問に対して、「お疲れさん」と受け流しています。

「喫茶去」と同様に、空理空論を論じることを止め、実生活をしっかり行うことを促しているやり取りと理解できます。 

渓深杓柄長(たにふこうして しゃくへいながし)

Q:「達磨はなぜインドから中国に来たのか」

A:「渓深杓柄長」(たにふこうして しゃくへいながし)

『虛堂録』

「谷が深いので水をすくう杓が長くないといけないね」と言っています。

谷が浅ければ杓は短くてよく、これはいわゆる「対機説法」のことと解釈されます。

つまり、相手の性格や理解度に応じた導き方が必要であるという指導方法を説いた回答ということになります。

こういう弟子とのやり取りを指南するような禅問答も時にあります。

一滴潤乾坤(いってきけんこんをうるおす)

Q:「達磨はなぜインドから中国に来たのか」

A:「四溟無窟宅、一滴潤乾坤」(しめいくったくなく いってきけんこんをうるおす)

『景徳伝灯録』

「一滴潤乾坤」が特に禅語としてよく用いられます。

意味としては比較的明快です。

庭前柏樹子(ていぜんのはくしゅしゅ)

Q:「達磨はなぜインドから中国に来たのか」

A:「庭前柏樹子」(ていぜんのはくじゅす)

『無門関』第三十七則

「庭前」は庭先の意味で、「柏樹」は柏槙(びゃくしん)のことです。

「子」は助辞で意味はありません。

ここでもまたもかみ合ってない会話です。

弟子が真剣に「達磨がもたらした禅の真意とは何か」と聞いたのに対して、師の趙州 ( じょうしゅう)はその時目に入った「庭先の柏樹」とあっさり答えたという場面です。

これでは弟子は納得できないので、原典では再度尋ねています。

禅語が有名な禅問答

喫茶去(きっさこ)

Q:如来の言葉とは一体何か

A:喫茶去(まずはお茶でも飲みなよ)

『碧巌録』第九十五則

「茶」を飲むことや「飯」を食うことは、日常生活をしっかり送るという意味で用いられることがよくあります。

「茶」を用いた禅語

  1. 逢茶々遇飯々
    (ちゃにあえばちゃ めしにあえばめし)
  2. 飢来喫飯寒到添衣
    (うえきたればはんをきっし かんいたればころもをそう)
  3. 且坐喫茶
    (しゃざきっさ)

平常心是道(へいじょうしんこれどう)

Q:道とは何でしょうか。

A:平常心是道(いつもの心が道だよ)

『無関門』第十九則

趙州和尚が師の南泉和尚に「如何是道(道とはどんなものでしょう)?」と尋ねたときに回答が「平常心是道」です。

茶道・剣道・書道・弓道の場面で、或いは座右の銘として度々用いられる有名な禅語はこの禅問答に由来します。

看脚下(かんきゃっか)

達磨大師から数えて5代目の法演とその弟子3人のエピソードです。

4人が山を下る帰り道、当たりが暗くなってしまった状況で、法演が弟子3人に一語で表せと言い、それぞれが回答を示しました。

3人の弟子の回答


暗い山道を下る一語とは?正解が分かりますか。

  1. 彩鳳舞丹霄
    (さいほうたんしょうをまう)
  2. 鉄蛇横古路
    (てつじゃころによこたわる)
  3. 看脚下
    (かんきゃっか)

3人目の「看脚下」が正答となります。

意味は「足元を気を付けよう」という当たり前の答えです。

あまりに当たり前すぎるこの答えがなぜ正解になるのか、詳しくはこちらのページをご覧ください。

ここから転じて生じた「脚下照顧」「照顧脚下」も合わせて、いずれも禅寺の玄関でよく見かけます。

3人の回答を見比べると最も現実的な表現をした「看脚下」が正答となっており、意味は「現実を見よ」と理解するのが自然です。

「彩鳳舞丹霄」も禅語として用いられる

1人目の「彩鳳舞丹霄」も茶掛けの掛け軸などで時に使われます。

不正解なのに用いられるのは不思議ですよね。

このように同じ禅問答のなかから複数の禅語が生まれたケースも多くあります。

禅語は禅問答の文脈が離れた用いられることも多い

禅語は現代の私たちも用いることがありますが、それが公案集で書かれた意味で使われているかというと、そうである場合とない場合があります。

元々の文脈を離れて用いられている禅語も多くあります。

千里同風(せんりどうふう)

かつて指導をし今は別のところで活躍する弟子から届いた師匠の元に手紙が届きます。

しかし、手紙は白紙です。

師匠が近くにいた弟子に尋ねます。

師:どういう意味かわかるかい?

弟子:(答えられず)

師:千里同風

「千里同風」はこのやり取り以前から使われている言葉で、「天下泰平」という意味がありますが、この場面では異なる意味で用いられています。

ここでの白紙の手紙の意味と同じ禅語

  1. 無事(ぶじ)
  2. 至道無難(みちにいたるにかたきことなし)
  3.     
  4. 好事無如(こうじなきにしかず)
  5. 日々是好日 (にちにちこれこうじつ)

「千里同風」

「千里同風」の詳しい解説はこちらをご覧ください。

日日是好日(にちにちこれこうじつ))

修行行事を終えた弟子たち対して、師である雲門文偃(うんもんぶんえん)が聞いています。

師:修行期間より前のことはともかく、今後どうしていくのか、思うところを述べてみよ。

弟子たち:(だれも答えず)

師:日日是好日(にちにちこれこうじつ)

『碧巌録』第六則

誰も答えないので自分で答えるというパターンで、学校の授業形式の禅問答です。

「垂示」(すいし)と呼ばれる一方的な説教での場面です。

修行期間が終って雲門が、「この後生きるか、一言で言ってみろ」と弟子たちに聞いています。

「一日一日を全力で生きるまでだ」の意で「日々是好日」と自答しています。

今日最も多用される禅語がこの禅問答に由来します。

練習問題に挑戦!

実際の公案集をベースにして、いくつか禅問答の練習問題を用意しました。

取り組んでみてください。

禅問答に答えを考える作業を「工夫」と言います。

練習問題1:泥仏不渡水(でいぶつみずをわたらず)

分かりやすくトンチの効いた禅問答です。

実際には趙州(じょうしゅう)和尚が弟子たちに一方的に話をしています。

泥の仏は水に溶けてしまう。

木でできた仏は燃えてしまう。

金属でできた仏も炉にかければ、溶けてしまう。

それでは、本当の仏はどこにいるのか!?

『碧巌録』第九十六則

すべての仏像が消え去ってしまったとき、本当の仏はどこにいると思いますか。

答えが分かりますか。

問題2:非風非幡(ひふうひばん)

出展は『無門関』第二十九則です。

これも一般的な禅問答のイメージに近しい問いではないかと思います。

大空に掲げらた旗が揺れている。

これは風が揺れているのか。

あるいは旗が揺れているのだろうか。

旗が揺れているのか、風がゆれているのかで弟子たちが議論しています。

慧能(えのう)禅師の答えは何だったのでしょうか。

問題3:隻手音声(せきしゅおんじょう)

現在の参禅制度を確立した江戸時代の禅僧白隠が作った禅問答です。

禅問答のために作られた数少ない禅問答です。

両手を互いに叩けば音がする。

では片手の音とはどんな音か?

さて、皆さんにはどのような音が聞こえますか。

練習問題④:趙州狗子(じょうしゅうくす)

これは趙州和尚が弟子に問われた質問です。

犬に仏性はあか。

『無門関』第一則

趙州和尚は「無」と答えました。

答えまで明らかになっていますから、今日の禅問答ではその意を問われます。

なぜ「無」なのか、あなたはどのように答えますか。

実際に禅問答をしたい方へ

禅問答に興味を持たれた方は、実際の禅問答をぜひ体験してみてください。

いくつかの禅問答のQ&Aをお示ししましたが、先に述べたとおり、実際の禅問答はその真意を問うものがほとんどです。

師家と呼ばれる指導者と密室で一対一で行います。

真剣勝負のやり取りです。

修行僧でない一般の人でも禅問答はできる

禅問答は現在も行われている修行の方法と冒頭お伝えしましたが、基本的には修行僧向けに行われており、まず出家する必要があります。

しかし、仕事や家庭を持つ一般の人(在家と言います)であっても、禅問答を受け付けてくれる団体もあります。

参禅が可能な全国の施設

詳細は各団体のウェブサイトでご確認ください。

最初は電話での問い合わせになる団体が多いようです。

参加費がかかったり、入会手続きが最初に必要な場合もあります。

北海道

北海道で参禅できるところ

  1. 人間禅 石狩禅道場 (北海道石狩市)
  2. 札幌禅センター (北海道札幌市)
  3. 人間禅 函館座禅道場 (北海道函館市)

東北

東北・新潟で参禅できるところ

  1. 瑞龍寺 (青森県七戸町)
  2. 人間禅 仙台道場 (宮城県仙台市)
  3. 人間禅 秋葉禅道場 (新潟県新潟市)
  4. 東山寺 (新潟県三条市)

北関東

北関東で参禅できるところ

  1. 人間禅 宇都宮・栃木座禅道場 (栃木県宇都宮市)
  2. 人間禅 潮来坐禅道場 (茨城県潮来市)
  3. 千葉房総坐禅道場 (茨城県水戸市)

埼玉・千葉

埼玉・千葉で参禅できるところ

  1. 安穏寺國際参禅道場 (埼玉県入間市)
  2. 人間禅 千葉・市川松戸 座禅道場 (千葉県市川市)
  3. 人間禅 千葉房総坐禅道場 (千葉県四街道市)

東京

東京で参禅できるところ

  1. 人間禅 擇木道場 (東京都台東区)
  2. 釈迦牟尼会 東京坐禅道場 (東京都江東区)
  3. 少林窟道場 (東京都中央区)
  4. 白山道場 (東京都文京区)
  5. 松本自證が主催する坐禅会 文京禅会 (東京都文京区)
  6. 松本自證が主催する坐禅会 代々木禅会 (東京都渋谷区)
  7. 東照寺 (東京都品川区)
  8. 人間禅 東京中央支部 (東京都杉並区)
  9. 鉄舟禅会 (東京都中野区)
  10. 一九会道場 (東京都東久留米市)
  11. 人間禅 八王子座禅道場 (東京都八王子市)

神奈川

神奈川で参禅できるところ

  1. 人間禅 横浜座禅道場 (横浜市中区)
  2. 三宝禅 (神奈川県鎌倉市)

静岡

静岡で参禅できるところ

  1. 人間禅 岳南禅道場 (静岡県熱海市)
  2. 耕月寺 (静岡県三島市)
  3. 釈迦牟尼会 不二坐禅道場 (静岡県裾野市)
  4. 祥光寺 (静岡県浜松市)
  5. 龍泉寺 (静岡県浜松市)

東海地方

東海地方で参禅できるところ

  1. 人間禅 豊橋座禅道場 (愛知県豊橋市)
  2. 人間禅 名古屋道場 (名古屋市西区)
  3. 人間禅 知多道場 (愛知県知多郡)
  4. 人間禅 洞戸禅道場 (岐阜県関市 )
  5. 人間禅 三重座禅道場 (三重県津市)

関西

関西で参禅できるところ

  1. ダルマサンガ (滋賀県高島市)
  2. 人間禅 関西禅道場 (京都府八幡市)
  3. 寒山寺摂心会 (大阪府箕面市)
  4. 安泰寺 (兵庫県美方郡)
  5. 人間禅 神戸座禅道場(妙楽寺) (兵庫県神戸市)
  6. 人間禅 和歌山座禅道場 (和歌山県和歌山市)

中国地方

中国地方で参禅できるところ

  1. 人間禅 岡山座禅道場 (岡山県岡山市)
  2. 少林窟道場 (広島県竹原市)
  3. 人間禅 山口座禅道場 (山口県防府市)

四国

四国については情報が特に少なく、ご存じの方があればぜひ教えてください。

四国で参禅できるところ

  1. 人間禅 四国座禅道場 (高知県南国市)

九州

九州

  1. 人間禅 鎮西道場 (福岡県北九州市)
  2. 人間禅 福岡坐禅道場 (福岡市中央区)
  3. 人間禅 豊前座禅道場 (福岡県築上郡)
  4. 人間禅 鹿児島座禅道場 (鹿児島県鹿児島市)

オンライン

オンラインによる独参を受け付けるところもでてきました。

果敢な試みに敬意を表します。

オンラインで参禅できるところ

  1. 栖賢寺 (東京都京都市)
  2. 松本自證が主催する坐禅会 (東京都文京区)

参禅可能な団体情報を収集中です

参禅が可能な団体でもウェブサイトがなかったり、検索で表示されないケースもあるようです。

具体的な団体情報があれば、上記一覧に追記していきますので、ぜひ教えてください。

ご連絡はこちらから。

監修者:「日常実践の禅」編集部

日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

参考文献:『一行物』(芳賀幸四郎、淡交社)

画像の一部:pixabayphotoAC

禅問答以外の禅の実践

身の回りを片付ける

禅は空理空論を避け、日々の実践を志向します。

身のまわりの片付け・清掃から始めてみてください。

最も始めやすく効果の出る実践方法です。

座禅をする

座禅は最も基本的な”禅”の実践になります。

オンラインで座禅会に参加できる時代になりました。

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突き詰めると、たった一字でも味わい深い意味が生じるのが禅の世界です。

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漢字一文字のラインナップ

  1. 「一」:一とは自分自身のこと
  2. 「風」:目に見えない、とどまらないもの
  3. 「月」:禅では悟りの喩え
  4. 「夢」:一切は夢という現実
  5. 「無」:無を強調するのは禅の特長
  6. 「道」:道とはすなわち禅の道
  7. 「雪」:禅は冬の宗教
  8. 「心」:何はなくとも心が大切と考えるのが禅
  9. 「坐」:座禅が“禅”の基本。しかし執着はしない。
  10. 「雲」:消え去る雲に捕らわれるな
  11. 「山」:静寂にして不動
  12. 「花」:何も考えずに生き抜く美しさ
  13. 「茶」:日常生活のメタファー(たとえ)
  14. 「水」:老荘の影響を受けて水は良きもの。川を意味する。
  15. 「喝!」:最も短いアドバイスの言葉
  16. 0字の字

「月」の禅語

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