自信をつける方法:禅が教えてくれる自信がない人のために贈るヒント
「自信」は禅の一大テーマです。禅の教科書とでもいうべき臨済録にもたびたび登場する言葉です。そして病の原因として自信がないことを述べています。禅は少しずつ自信が持てるようになる漢方のような処方箋を日常で実践できるかたちで伝えてくれています。
臨済録をひも解く
まずは古い言葉をひも解いていきましょう。思いのほか、今日的な自己啓発書のような、新鮮な言葉として語られていることに驚かれることと思います。
”病在不自信處。爾若自信不及,即便忙忙地徇一切境轉,
被他萬境回換,不得自由。”
問題の原因は自分を信じないところにある。
爾欲得識祖佛麼。 祇爾面前聽法底是。學人信不及、便向外馳求。 設求得者、皆是文字勝相、終不得他活祖意。
きみたちは達磨がどんな人なのか、知りたいと思うか。
且要自信 且く自ら信じることを要す
莫向外覓 外に向かって覓(もとめ)ることなかれ
自分を信じることが必要なんだ。真理を外に求めるてはいけない。
自信をつけるヒントになる言葉
このように禅では「自信」を重要と考えていて、その基本は、「自分が仏である」ことに気づき、そうあり続けるということです。それを信じることを自信といい、禅ではその他にもいろいろな言葉で自分を信じることを励ましています。
随所に主となる
自分を信じ、主体的に生きることを禅は求めています。自分を信じ、主体的に生きれば周囲はすべて真になると言います。「随所に主となれば、立ちどころに皆真なり」。
清光無何処
清光、いずこにかなからん。「清光はどこにあるのでしょうか。どこにでもある」という意味です。どこそこ出かけていかないこと、外に求めないことで、かえって外部・周辺のすべてが光り輝くという禅の世界観が表されています。
主人公
主人公という言葉も禅の用語です。自分の人生の主人公は、家族でも会社でもなく、自分であるという意味です。自己中心的というよりも自己責任の念をもって力強く日々生きていくことを求める禅語です。
殺仏殺祖
自分が主人公であるため、仏であってもこれを無視しろというのが禅です。無視しろでは弱いと考える臨済は、殺すという言葉で強烈に外への依存を否定します。
「人に惑わされてはならぬ。仏に逢えば仏を殺す。父母に逢ったら父母を殺す。そうして始めて自由になり、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。」(入矢義高訳注)
人惑
上の「人に惑わされてはならぬ」の原語です。我々は困ったときに、つい人から助言をもらったり、書籍にヒントを求めてたり、経験者・年配者などを頼ったりします。臨済はこれを「人惑」と言って切り捨て、自分を信じることを求めます。
言語道断
言語道断は言葉を断つという意味です。ほかにも不立文字、教外別伝などいって、経典や人から学ぶ言葉を軽視します。絶学といって、学習に対しても否定的に考えます。
大丈夫
自信のある人のことを、大丈夫と呼びます。今日の大丈夫の意味は「あぶなげがなく安心できるさま。強くてしっかりしている」だそうですが、本来の意味は「自分を信じている人」です。
自分を信じるのに、根拠や理論はありません。そういうものを探すことを「外に求める」作業として忌避します。
自信をつける方法
さあ、それでは禅が考える自信をつける方法をみていきましょう。自信の根源にあるとして、それをどうやって得るのかということです。これもまた自分でやれと禅は言うのですが、方法が全く示さていないわけではありません。具体的な方法をみてみましょう。
他人に否定されようがない実体験、体感をすること
自分が感じた冷たい・熱いを信じない人はいないと思います。こういう他者からの否定に全く動じない体感を自信の出発点にします。冷暖自知といって、体感による絶対的経験を重視します。
あたりまえの生活を全力で行うこと
体感に続いて、ごく平時の生活を自信の基底にしていきます。着衣喫飯といってただ生活することを大切にします。一つ一つの日常生活を心を込めて行うこと(マインドフルネス)は不安を解消します。
自分でやること
食べること・着ることができるえば少し応用範囲を広げていきます。料理をすること、掃除をすることなどです。一日なさざれば、一日食らわずという有名な禅語にこの考えがよく表されています。自分でできるということが自信になり、応用範囲をさらに創作活動や精神活動に拡げていきます。
まとめ
それでは、まとめです。まず最初に禅という宗教の基本テーマに位置するものの1つに「自信」があることを確認し、臨済の言葉を紹介しました。
今日の我々にはあまりにありふれた言葉で、禅味に欠けると思う方もいらっしゃるかもしれませんが、基本というのはそんなもので、簡単そうで本質的に理解するのも実践するのも意外と難しい言葉だと思います。
次に自信をつける方法について確認しました。ごく平凡な方法でしたが、少しずつ、進んでいくことが大切です。自信、自由、自在。臨済は徹底的に自分にチャレンジを求め、徹底自力の宗教の根源がここにあります。徹底は、そろりそろりと自分の足で進んでいく意味でしたね。
「自信」の追求は、エマーソンの「自己信頼」に通じます。類似する考え方ですが、表現方法が違うので、西洋風のエマーソンの方がピンと来る人は、こちらから入ってもよいかと思います。
参考文献:
- 臨済録(入矢義高)
- 臨済録訳注(衣川賢次)
- 臨済録原文全文
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