【月の言葉】月にまつわる美しい名言、かっこいい言い方、月のつく禅語

禅にとって月はとても重要な存在です。

そのため、短い言葉に深い文脈を持つ「禅語」には度々「月」が登場します。

このページではそんな「月」を用いて表された禅の世界観を示す言葉を紹介していきます。

月の宗教 “禅”

禅宗は月の宗教と呼べるほど、月という言葉を用います。

逆に太陽を例えに用いた禅語というのはほとんどありません。

このあたりに禅宗の大きな特徴がみられます。

禅宗にとって、月は悟りの境地を示します。

禅宗の独特な月崇拝

禅宗は仏教の一派ですが、仏教に月への信仰があるわけではありません。

仏教がいろいろなかたちでインドから中国に伝わるなかで、中国土着の老荘思想などと結びつき、一つの特徴的な一派となったのが禅宗です。

月への信仰は禅宗だけに見られる興味深い特徴の一つです。

禅語とは何か

禅は経典を持たず、人から人へ直接教えを伝達していくという特徴があります。

そのような考え方のなかでわずかに教科書として存在しているのが、昔の禅僧たちの会話の記録集で、正式には公案集と呼びます。

一般的には禅問答として知られています。

禅問答は基本的に短い言葉のやり取りで、この短い会話の一部がさらに切り取られて禅語として用いられることがあります。

禅語は従って、短い言葉ながら禅宗の考え方を示す深い文脈を持っています。

禅は自然を愛する

禅問答はたとえ話を用いることが多く、特に自然の山、花、雪などに例えることが多いです。

そのなかでも“月”は最も頻繁に用いられるものの一つです。

冒頭述べたとおり、禅は月を悟りの象徴として用いるため、悟りに関するやり取りである禅問答において、「月」が用いられるのは実に自然なことです。

したがって、月に関する禅語が多くありますので、それをこのページでは紹介していきます。

なぜ月が悟りなのか

一般的には月のなかでも特に満月に悟りを見出します。

その形状、すなわち円形というかたちが「完全さ」を表わすからと言われています。

円(まどか)なること大虚に同じ 欠くること無く餘ること無し

『信心銘』

つまり、円が先に“悟り”の状態を表わす具象形状として考えられていて、その後で「月」が悟りとして見出されたという可能性があります。

円相

円相という掛け軸のなかでも唯一“字”でなく、しかし度々用いられる記号があります。

すなわち円相=悟り=月ということになります。

欠けることなく、余すところのない完全円満の姿で、真如・仏性・実相などのシンボルとされる。

『馬祖の語録』(入矢義高、筑摩書房)

経典や文字による伝達を否定する禅では、禅問答というぶっきらぼうな単語の応酬から、ごく短い禅語へのどんどん言葉が短く洗練されていきましたが、その究極が文字ではない円相というように理解できます。

禅における「月」の奥深さ

禅がどれほど「月」を大切にしているか、禅語の前に、月を描いた絵画をみていきましょう。

江戸時代の禅僧である仙厓(せんがい)はそのユニークな画風で有名ですが、禅僧ですから当然「月」も度々描いています。

まる・さんかく・しかく

ただの図形が3つ並んでいます。

左から四角が三角に、そして丸くなります。

人間の角がとれて、だんだん丸く、悟りが開けていく様子を、執着地点としての円(月)として表していると言われています。

単純な構成ですが意味が深く、発想の面白さに心を奪われます。

月でなく饅頭として円相を描く

このように丸いもの=月のところ、饅頭に見立てているのが円がいの面白いところです。

「これくうて茶飲め」と賛(添えてある字)で言っています。

禅において円(通常は月、ここでは饅頭)は悟りですが、茶は日常生活を表わすことがあります。

禅ではただ悟って達観して何もしない人や奥山で静かに過ごすことは必ずしもよいこととされていません。

実社会で活発に生きること、日常生活を自分でしっかり行うことを禅では大切にしています。

したがって、悟りという精神世界の安定を得つつ、そこに留まらず充実した実生活を送れという含意が見てとれます。

だいたんにも通常美しい「月」で描くところ、より日常的な「饅頭」を用いることで、悟りを高尚なものにとどめない禅の宗旨がユニークかつ見事に表現されています。

あえて月を描かない

『指月布袋図』と呼ばれる絵です。

裸で街を徘徊する布袋は、禅においては理想の禅僧です。

あえて月を描かずに月を指さす布袋だけを描いています。

さんに「お月様いくつ 十三 七つ」と添えて、「月」をテーマにしていることを明らかにしています。

近くの子どもが月を見ずに指さす布袋を見ているという点が鑑賞のポイントと言われています。

つまり、禅では悟りは自力で獲得するものとされており、人の教えは「人惑」(にんわく)と言われ、ただ惑わすだけのものとされています。

仏であっても達磨であっても父母であっても、その話を聞いてはいけないという徹底自力という禅の厳しい精神をユーモラスに描くという仙厓の離れ業です。

月にまつわる禅の言葉

ただ「月」を描くだけでも、今見てきたように工夫を凝らして綿密に考え、そして大胆なまでにシンプルに描くのが禅の特長です。

禅の言葉も短くシンプルですが、意味は奥が深いです。

さて、そんな月の禅語を含意ともに紹介していきます。

禅の独自の価値観が含まれていますので、その意味で大別してまとめてみます。

太陽でなく、あえて月を取り上げる禅のセンスを楽しんでみてください。

月を「円」で表した言葉

主客在大円之中(しゅきゃくだいえんのうちにあり

少しむずかしいですが、主観と客観が分かれていない状態、つまり分別のない状態を禅では探索していくことがあります。

その状態は、円すなわち悟りの中にあると言っています。

主客は主観と客観ですが、茶道においては亭主と客と捉えて、円満のうち茶席が進むことを示す語と理解することもできます。

分別のない状態については、両忘という語もチェックしてみてください。

円陀陀地(えんだだち)

出典は『圓悟語録』です。

陀陀は「まあるい、まあるい」という中国宋代の俗語です。

「円」を使ったその他の禅語

  1. 円海(えんかい)
     「円かなるもの」が大海のように広がっていること
  2. 円覚(えんかく)
     「円かなるもの」を理解すること
  3. 円空(えんくう)
     「円かなるもの」を大乗仏教における空で捉えること
  4. 円成(えんじょう)
     「円かなるもの」が出来上がること
  5. 円教(えんきょう)
     「円かなるもの」の教え
  6. 円通(えんつう)
     「円」が一切に行き届いていること
  7. 円融(えんゆう)
     「円かなるもの」にすべてがひとまとめになること
  8. 円満(えんまん)
     「円かなるもの」が満たされていること

月と雲の言葉

雲破月来池(くもやぶれつきいけにきたる)

雲は禅において時に悟りをさえぎるモノとして扱われます。

その雲が過ぎ去って月が表れるという言葉です。

ここでは空に浮かんだ月ではなく、「水面に映った月」というこれも禅でよく用いられる状況が描かれています。

「池」とすることで、“自分”にも悟りが開けたという意味合いが強調されています。

雲収万岳 月上中峰(くもはばんがくにおさまり つきはちゅうほうにのぼる)

風は雲を払いのける

明確に雲を用いた言葉ではありませんが、「風」が雲を払いのけて“月”がはっきり現れたという状況を表わした禅語がいくつもあります。

「風」はモノにこだわらずにさっぱりした心持ちを表わすことがあり、そのような文脈を踏まえると、味わいが一層増します。

清風払明月(せいふうめいげつをはらう)

原典『人天眼目』の禅問答では「名月払清風」(めいげつせいふうをはらう)と続きます。

すなわち、悟りとモノにこだわらないことが、表裏をなすものであると禅が考えることが分かります。

明月清風共一家(めいげつせいふうともにいっか)

禅の文脈では、月は実に多く風とともに登場します。

月は名月、風は清風とも表されます。

全般に禅語は短いため、月・風と表記されても意味は同じです。

この語では、月と風はワンセットであると言っています。

すなわち、悟りと貧乏生活(モノにこだわらない心)はワンセットであるという意味です。

『虎丘紹隆禅師語録』

青山緑水元依旧
明月清風共一家

書き下し文

青山緑水は元(もと)旧に依り、明月清風共に一家

山や川は今日も変わりはない。(山があれば川がある)

同様に)月と風も一つものとして考えるのがいい。

(悟りに境地と、物質的豊かさを求めない心は表裏をなす)

月白風清

非常に分かりやすく、禅の文脈の月と風が表されています。

「風」の含意も原典の詩を読むと明確です。

蘇東坡「後赤壁賦」

已而嘆曰
有客無酒
有酒無肴
月白風清
如此良夜何

書き下し文

已(すで)にして嘆じて曰わく
客有れども酒無し
酒有れども肴(さかな)無し
月白く風清し
此の良夜を如何せんと。

意味

全く嘆かわしいことだよ

客が来ても酒がない

さけがあっても肴がない

月は白く輝いていて、風が清々しい

この素晴らしい夜どうしたものか

没底籃児盛白月 無心椀子貯清風
(もっていのらんじにびゃくげつをもり むしんわんすにせいふうをたくわう)

没底(もってい)は「底の抜けた」、籃児(らんじ)は「かご、バスケット」のことです。

椀子は「どんぶり」のことです。

「底の抜けたカゴに月を入れ無心、どんぶりに清風を盛る」という意味になります。

自由自在の悟りの境地を「底の抜けたカゴに月を入れ」と表現し、その境地においては経済的には貧しいけれど精神的には清々しく充実の一途であることを「どんぶりに清風を盛る」と表現しています。

実に禅らしい、かっこいい表現です。

破襴衫裏盛清風(はらんさんりにせいふうをもる)

月は出てきませんが、近しい表現ですので紹介しておきます。

禅のおける清風の意味がよく分かる表現です。

襴衫(らんさん)は着物のことで、裏は「なか」の意味です。

すなわち破襴衫裏は「破れた着物のなか」ということになります。

つまり粗末な着物で本来であれば中に綿でも入れたいところですが、ここは禅。

「清風」を詰めるとしています。

「清風」が表層的な見格好やモノにこだわらないという意味を持っていることが分かります。

「どんぶりはあるけれどもご飯がない」「着物はぼろで風が通り抜けている」、大いに結構というのが禅の境地です。

誰家無明月清風(たがいえにかめいげつせいふうなからん)

「名月の光が差さず、清風の入らない家はあるだろうか。名月清風はどの家のものでもある」という意味です。

すなわち、誰であっても悟りとすがすがしさを手に入れられると言っています。

月や風が自然物でだれのものでもあるという点を禅に重ねて、禅の境地も同様にだれでも到達できると強調した一語です。

この意を表す禅語としては、「大道無門」「へんかいかつてかくさず」などの言葉が思い浮かびます。

月の光を表す言葉

明確に月を用いていない禅語ですが、月を謳っているものがいくつもあります。

清寥寥白的的(せいりょうりょう はくてきてき)

「月白風清」などから掴める禅における月のイメージがありますが、それを音と語呂で表現した言葉です。

明歴々露堂々(めいれきれき ろどうどう)

歴々はキリっと際立っている様子を意味します。

すなわち、「明るく霞むことなく際立っていて、露わであり、堂々としている」というさまを表した言葉です。

「雲のない空に凛然と輝く月」が連想されます。

月=悟りであり、また悟った人と捉えることができます。

大切なものはどこにも隠されずに「ありのまま、そのまま」にそこにあると言っていると捉えることもできます。

『五灯会元』

問、明歴歴、露堂堂、因甚麽乾坤收不得。

師曰、金剛手裏八棱棒。

書き下し文

問フ、明歴歴、露堂堂。甚麽(なに)に因りてか乾坤収め得ざる。

師曰く、金剛手裏く八稜の棒。

意味

弟子が尋ねた。「月にように明歴歴、露堂堂(すっきりはっきり、ありのままに堂々)とありたい。そうしてどうにか天地をひとまとめに自分のものにしたい。師は答えた。「金剛手菩薩の八角棒で煩悩を打ち砕いてもらえばいい」

明皎皎白的々(めいこうこう はくてきてき)

この語も「明歴々露堂々」と同じ意味で用いられます。

孤明歴々

月がくっきりと霞むことなく出ているさまのことです。

月は悟りであり、悟った人のことですから、それが雲に隠れず、霞にかすまず露わているという境地を表しています。

海月澄無影

水面に映る月の言葉

掬水月在手

有月落波心

無雲生嶺上(くものれいじょうにしょうずるなければ)

有月落波心(つきのはしんにおつるあり)

『五灯会元』

水和明月流

池成月自来(いけなってつきみずからきたる)

「池ができれば、月はそこに自然に現れる」という自力に始まって結果は自ずと得られるという禅らしい考え方が、いかにも禅らしい月と水の叙情表現にまとめられています。

自然と物事が実現していくという考え方は言葉を変えて時に禅語として表されます。

他力で自然に道が開けるのではなく、何かをやれば結果はついてくるという自力が起点であるところは禅宗の特長的な考え方です。

結果は自然と突いてくるという禅語

  1. 結果自然成(けっかじねんになる)
  2. 花開蝶自来(はなひらけばおのずからちょうきたる)
  3. 春来草自生(はるきたらばくさおのずからしょうず)
  4. 空門風自凉(くうもんかぜおのずからすずし)
  5. 野水無心自去留(やすいむしん おのずからきょりゅうす)

それぞれの心を照らす月

有水皆含月(みずあり みなつきをふくむ)

有水皆含月(みずありみなつきをふくみ)

無山不帯雲(くもをおびざるやまはなし)

『禅林類聚』

水は多くの場合、川や湖を意味します。

ここでは拡げてお椀の水、水たまり、野草と葉に貯まった夜露なども考えて構いません。

それらすべてに月が映っていると言っています。

月は悟りですから、悟りの月がすべての人の水面に浮かんでいると言っていることになります。

この句には対句があり、「無山不帯雲」(やまとしてくもをおびざるはなし)です。

山は人を表わすことがあり、特に座禅をする人を表わします。

雲は悟りをさえぎる存在、いわば煩悩です。

悟りの月は万人を照らすけれども、悟りをさえぎる雲がかからない人はいないという意味になります。

励ましつつ、慰めつつ、抒情的な響きも相まって、味わい深い禅語です。

一片月生海(いっぺんのつき うみにじょうず)

一片月生海、幾家人上楼

(いっぺんのつきうみにしょうじ いくかのひとろうにのぼる)

『全唐詩』、『仏国録』

月が海から上ると、各家の人が建物に登ってこれを眺めるというのが原文です。

したがって意味としては「有水皆含月」と近しく、誰しもが月という悟りの月に光を浴びる機会があり、それを望むものだという意味になります。

一月在天万水印影(いちげつてんにありばんすいかげをいんす)

同じく「月があらゆる水面に映ること」を表わした禅語です。

月は一つしかありまあせんが、あえて一月として、あらゆる水面を示す万水の「万」とのコントラストを強調しています。

またその一月は空に浮かんでいて(在天)、地上の万水に浮かんでいるとしていて、その距離と広がりが示すダイナミックな構図がこの語の特長です。

揺るがざる月の言葉

水急不流月(みずきゅうにして つきをながさず)

「水」は川を意味し、川が流れているけれども、川面に映った月を流したりはしないという、当たり前といえば当たり前の言葉です。

一般的には、川は川として、月は月としてそれぞれを全うしているという含意で捉えます。

私たちは変わり続けるけれども、仏心を持ち続ける

月が悟りを意味することがあることと、「有水皆含月」の意味(誰しもに悟りの心がある)を含めると、

私たち自身は川のように色々なモノを流れるように変化させながら生きているけれども、悟りの心はしっかりと同じところに浮かび続けている

というようにも理解できます。

風吹不動天辺月(かぜふけどもうごかずてんぺんのつき)

風吹不動天邊月(かぜふけども うごかずてんぺんのつき)

雪壓難摧澗底松(ゆきおせどもくだけがたし かんていのまつ)

『嘉泰普灯録』

禅ではただ動かないものをよしとすることは多くありませんが、「寂然不動」のようにひっそりとした静寂における動かざるものを、座禅と重ねて良きものとして言葉にすることがあります。

不動の存在としては「山」が用いられることの方が多い

自然物であれば、当然「山」がその例えとして用いられることが多いです。

不動の「山」に関する禅語

  1. 青山元不動(せいざんもとふどう)
  2. 山静如太古(やましずかなること たいこのごとし)
  3. 雨収山岳青(あめおさまってさんがくおあし)
  4. 山中無曆日(さんちゅうれきじつなし)

月落不離天(つきおちててんをはなれず)

水流元在海(みずながれてもとうみにあり)

月落不離天(つきおちててんをはなれず)

五灯会元

そのまま「川が海につながっているように、月が見えなくても天体にあり続ける」という意味です。

すべてはその性質に従って不変であり、川がどう流れようとも月がいかに満ち欠けしようともその本質は変わらないということであり、またその見たところの変化もまたよろしいという含意を導けます。

さらに進めて、すべては「一」に帰すと理解していただいても構いません。

「一」に戻ってくる禅語

  1. 万法帰一(ばんぽうきいつ)
  2. 萬法一如(ばんぽういちにょ)
  3. 一二三四三二一(いちにさんし しさんにいち)

秋月を謳った言葉

冬の月はなく、月は秋の一択

禅においては「月」の季節は圧倒的に秋で、他の季節で謳われることはほとんどありません。

冬の月も良さそうですが、冬は雪、松・竹・梅など、冬限定で用いられる語があり、これらと月が組み合わせて用いられることもありますが、ごく稀です。

春夏秋冬のなかで「秋月」が謳われる禅語

春夏秋冬を謳った詩歌のなかで秋と月がセットになっていて、部分でも禅語として抜き出されて使われるものをまず紹介します。

春有百花秋有月(はるにひゃっかあり あきにつきあり)

春有百花秋有月(はるにひゃっかあり あきにつきあり)

夏有涼風冬有雪(なつにりょうふうあり あきにつきあり)

若無閑事挂心頭(もしかんじのしんとうにかかることなくんば)

便是人間好時節(すなわちこれ じんかんのこうじせつ)

『無門関』

秋月揚明暉(しゅうげつめいきをあげる)

春水満四澤(しゅんすいしたくにみち)

夏雲多奇峰(かうんきほうおおし)

秋月揚明暉(しゅうげつめいきをあげ)

冬嶺秀孤松(とうれいこしょうひいづ)

こちらの出典は明確でなく、陶淵明作「四時」あるいは、顧愷之の長篇古詩「神情詩」の一部分と言われています。

いずれにしても月の季節が秋であることが分かってきたかと思います。

春の花と秋の月

それではさらに春の花と合わせて秋の月を謳った禅語を紹介します。

月知名月秋(つきはめいげつのあきをしる)

月知明月秋(つきはめいげつのあきをしり)

花知一樣春(はなはいちようのはるをしる)

『禅林句集』

「月」も「花」もその時期を無心ながらに知っているという意味です。

そのままに、季節ごとに毎年変わらない自然のものを楽しむ言葉と受け取っても構いません。

自分の人生の時機を待つ言葉と捉えてもよいですし、機を捉えた人の行いを嘆じる言葉として用いてもよいと思います。

秋沈萬水家々月(あきはばんすいにしずむ かかのつき)

春入千林処々花(はるはせんりんにいる しょしょのはな)

秋沈万水家々月(あきはばんすいにしずむ かかのつき)

葛藤集

当然ですが、春になればどの森林にも春が訪れ、花々は満開になります。

秋になれば川や湖、或いは盃の水面にも美しい月が浮かび、どの家にも秋月はやってきます。

このあたりの表現や禅旨は「有水皆含月」、「一片月生海」、「一月在天万水印影」と同じで、「秋」が加わっているところが違うところです。

禅では極力言葉をそぎ落として短いものを好むため、「秋沈萬水家々月」は「秋」を余分と捉える向きもあるかと思います。

逆に秋の茶掛けにあっては、こちらの方がふさわしいと採る人もあろうかと思います。

お好みでお使い下さい。

吾心似秋月(わがこころ しゅうげつにたり)

最期にもう一つ、秋月を謳った宥免な一節を紹介します。

出典は『寒山詩』です。

原文

吾心似秋月

碧潭清皎潔

無物堪比倫

教我如何説

書き下し文

吾が心 秋月に似たり

碧潭 清くして皎潔たり

物の比倫に堪えたるはなし

我をしていかに説かしめん

意訳

我が心は秋の月のようだ

青い湖は清らかに澄んでいる

何に例えることも難しい。

どう言葉にすればよいだろうか

『寒山詩』

直接的な表現ですが、自分の心を月に例えて、清らかに済んでいて言葉にできないと言っています。

かっこいい月の言葉

臥月眠雲(つきにふし くもにねむる)

「がげつみんうん」とも読みます。

『虚堂録』冒頭に出てくる言葉ですが、「臥雪眠雲」というように多少文字を変えて、色々使われる緩めの慣用句といった位置付けの言葉です。

いわゆる禅問答の主題となっている言葉でもなく、意味は「月や雲を見て眠るような野宿ないし野宿相当の粗末な場所で過ごしながら修行を続ける」というような意味です。

「月に臥し雲に眠る」という修辞表現がさすらう修行者のイメージとぴったり合っていて、実にカッコいい言葉です。

禅の文脈での意味は本来ほとんどない言葉ですが、意味を見出すとすると「貧しさをむしろよしとする禅の価値観」を表わした言葉として用いることができます。

困窮をむしろよしとする禅語

  1. 学貧(がくひん)
     貧しさのなかにあった方が学ぶことは容易であると禅では考えます。
  2. 本来無一物(ほんらいむいちぶつ)
     元々何も持っていないという有名な禅語。
  3. 無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)
     減るほどふえていくものがあるとはどういうことか。

釣月耕雲(ちょうげつこううん)

「月を釣り雲を耕す」とも読みます。

これもカッコいい響きがある語です。

ただ、何のことやら意味がわかりませんよね。

こちらは禅の悟りの境地の世界観を表わした言葉です。

同じ月と雲を使った禅語でも、かなり意味は異なります。

山高月上遅(やまたこうして つきのぼることおそし)

悟りの道の遠さ・険しさを表した禅語です。

月在青天水在瓶(つきはせいてんにあってみずはへいにあり)

出典の『景徳伝燈録』では、月のところが雲で、「雲在青天水在瓶」のようです。

月あるいは雲は大空にあって、水はビンに入っているということで、それぞれ本分を発揮するところがあるという意味です。

実際、政府の招請された禅僧がこれを固辞した場面で用いられています。

それぞれの分をわきまえるという禅語はいろいろあります。

「それぞれの役割を果たす」という禅語

  1. 柳緑花紅(やなぎはみどり はなはくれない)
  2. 桃紅李白(ももはくれない すももはしろ)
  3. 眼横鼻直(がんのうびちょく)
  4. 松曲竹直(まつはまがれり たけはなおし)
  5. 山是山水是水(やまこれやま みずこれみず)
  6. 鶏寒上樹鴨寒下水(とりさむくしてきにのぼり かもさむくしてみずにくだる)
  7. 鳶飛戻天魚躍于淵(とびとんでてんにいたり うおふちにおどる)

有花有月有楼台(はなあり つきあり ろうだいあり)

無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)に続くのがこの「有花有月有楼台」です。

無一物中無尽蔵は、「減っていくほど増えていくものがある」ことを示す言葉と理解しています。

少ないほど、減って残ったものの味わいが増していきます。

まさに心を込めて生きること、味わう生き方を推奨するマインドフルネスの世界です。

減っていって何もない世界に、花がぽつんと加わると、その花の魅力は花がたくさんある状態以上に高まります。

月や塔もただそれが一つずつあると、情感が高まります。

そういう生き方、美的意識といったものが禅の美学であり、ご飯の食べ方から始まる日常生活実践ができる面白いところです。

この語の由来

蘇東坡(そとうば)の作と言われますが、明確な出典は明らかになっていません。

蘇東坡は官僚ですが詩人として優れた詩を多く残し、特に禅に通じていたことを背景にした詩が有名です。

そのため、蘇東坡の詩は禅僧の間でもその詩の一部が禅語として抜き出されて後年多用されていきます。

このような経緯から、明確な出典がないものの、それらしい詩は蘇東坡のものとされて広まっている語がいくつもあります。

廬山煙雨浙江潮

廬山烟雨浙江潮(ろざんはえんう せっこうはうしお)

未到千般恨不消(いまだいたらざれば せんぱんうらみけせず)

得歸來無別事(いたりえてかえりきたれば べつじなし)

廬山烟雨浙江潮(ろざんはせんう せっこうはうしお)

景勝で知られる廬山の煙雨と浙江の潮は、

一度見ておかないと気になってしかたがない。

実際に行ってみるとなんということはない。

廬山の煙雨と浙江の潮、まさにその言葉通り、それだけのことだ。

柳緑花紅 真面目(やなぎはみどり はなはくれない しんめんもく)

「柳がみどりで花が赤いように、それぞれの本来と向き合うべし」という意味です。

「柳緑花紅」は蘇東坡より前の時代から使われていた慣用句のようなもので、「真面目」は禅の「本来の面目」を付けた言葉と考えられます。

おそくら蘇東坡によるものではなく、一般的に使われていた「柳緑花紅」を禅の解釈で捉えて分かりやすく伝えるため、「真面目」と添えたのではないかと思います。

どこの禅者によるものかは分かりませんが、非常に受けがよく、今日までよく使われる禅語になっています。

山雲海月情(さんうんかいげつのじょう)

原典の『碧巌録』では「話尽山雲海月情」となっていて、「話し尽くす、山雲海月の情」と読みます。

言葉に頼らない禅ですが、ここでは山にかかる雲、海上の月という禅でおなじみの風景を持ち出して、それを語り尽くすと言っています。

師である馬祖と弟子の百丈のやり取りを後代の雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が評した言葉が「山雲海月情」です。

実際には二人のやり取りはぶっきらぼうな単語のやり取りで、最後は馬祖が百丈の鼻をつまむといういかにも禅問答らしい顛末で、語り尽くすとは言えない内容です。

これを機に百丈が悟りを開くことになったため、その意味でこのやり取りが実に有意義で奥が深いということで、雪竇重顕はこれを振り返って評するにあたって「語り尽くす」としています。

友情を示す言葉としてお使いいただいてもよいかと思いますし、師弟の強い絆や邂逅を示す言葉としてお使いいただいても良いかと思います。

盗人に取り残されし窓の月

修行の月

僧敲月下門(そうはたたくげっかのもん)

「僧が月下の門を叩く」ということで、禅語としてこの語を捉えた場合には、月を悟りの象徴として捉える禅宗の寺への入門を僧が試みて門を叩いている様子が浮かんできます。

閑居少鄰並 閑居 鄰並 少なく
草径入荒園 草径 荒園に入る
鳥宿池中樹 鳥は宿る 池中の樹
僧敲月下門 僧は敲く 月下の門
過橋分野色 橋を過ぎて 野色を分かち
移石動雲根 石を移して 雲根を動かす
暫去還來此 暫く去りて 還た此に來たれば
幽期不負言 幽期 言に負(そむ)かず

賈島

この語はむしろ慣用句の「推敲」の元となった一節として有名です。

敲く(たたく)のところが、元は推すだったところを修正したというエピソードから、文章の修正を「推敲」というようになったという逸話です。

坐水月道場(すいげつどうじょうにざす)

所以修習空花萬行(ゆえんにくうげまんぎょうをしゅうしゅうし)

宴坐水月道場(すいげつどうじょうにえんざす)

『宏智広録』

「萬行」は修行の一切のことです。

空花萬行としていますから、数多の経典を学ぶことを指していると考えられます。

禅では思慮分別に基づく無益な言論を戯論(けろん)と呼び、経典そのものを軽視します。

ゆえに経典を学ぶことは、煩悩妄想を意味する空花(空に咲く花)と同様ということになります。

どうあれ、そうした経典を含む一切の修行を経て、その上でどうするのかというのが「坐水月道場」です。

水月は水面に映った月のことで、その様子は「有水皆含月」「一片月生海」で示したように月は悟りですが、その悟りが、すべての水に移されるという意味で用いられることがあります。

すなわち、この世に生きる私たち全員という意味であり、私の今日一日の行うすべてという意味です。

つまり水月道場は、私たちの生きる実社会、日常生活を一切悟りにつながる修行の場と捉える意味があります。

「坐水月道場」の「坐」はもちろん座禅のことであり、修行を意味します。

座禅をする

座禅は最も基本的な”禅”の実践になります。

オンラインで座禅会に参加できる時代になりました。

つまり、実社会・日常生活において修行をしていくと言っている言葉になります。

ただ「坐」とすれば完全に座禅ですが、宴坐として宴(うたげ)の席に座っており、実社会・日常生活において折り合いをつけて禅行を行っているさまが示されています。

修習空花萬行と宴坐水月道場の対句はその対比も面白く、

「一般社会から隔絶された禅寺という静かで過ごしやすい空間で心優しい仲間たちと空理空論を学んだとしても、それだけでは不十分。実社会・日常生活にも禅寺と同様に悟りがあり仏がいるというのが禅の教えなのだから、そこでシャバの空気を吸いながら私利私欲溢れる実社会、煩雑多忙な日常生活を送りながら禅の教えを全うすべし」

というように理解できます。

身の回りを片付ける

禅は空理空論を避け、日々の実践を志向します。

身のまわりの片付け・清掃から始めてみてください。

最も始めやすく効果の出る実践方法です。

まとめ

「月」の禅語をいろいろ紹介させていただきました。

禅語は「月」以外にもいろいろあります。

下にいくつかリンクを張っておきますので、チェックしてみていただければと思います。

監修者:「日常実践の禅」編集部

日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

参考文献:『一行物』(芳賀幸四郎、淡交社)

画像の一部:pixabayphotoAC

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もっと短い禅語

禅語は基本的に短いものが多く、しかしながら意味が深いのが特徴です。

突き詰めると、たった一字でも味わい深い意味が生じるのが禅の世界です。

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漢字一文字のラインナップ

  1. 「一」:一とは自分自身のこと
  2. 「風」:目に見えない、とどまらないもの
  3. 「月」:禅では悟りの喩え
  4. 「夢」:一切は夢という現実
  5. 「無」:無を強調するのは禅の特長
  6. 「道」:道とはすなわち禅の道
  7. 「雪」:禅は冬の宗教
  8. 「心」:何はなくとも心が大切と考えるのが禅
  9. 「坐」:座禅が“禅”の基本。しかし執着はしない。
  10. 「雲」:消え去る雲に捕らわれるな
  11. 「山」:静寂にして不動
  12. 「花」:何も考えずに生き抜く美しさ
  13. 「茶」:日常生活のメタファー(たとえ)
  14. 「水」:老荘の影響を受けて水は良きもの。川を意味する。
  15. 「喝!」:最も短いアドバイスの言葉
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