一日作(な)さざれば、一日食らわず
自分のことは自分でやるという禅語
その日に何かしら仕事をしなかったならば、その日はご飯は食べないという意味で用いられます。
百丈懐海(ひゃくじょうえかい)という偉いお坊さんがいて、毎日せっせと農作業やら清掃やらをしていて、すでに高齢だったので、周りの弟子が気遣って控えるように言ったもののやめないので道具を隠したら、ご飯を食べないといったというのがこの語です。
禅は「自分でやること」を大切にする
新約聖書の「働かざる者食うべからず」と同義で捉えることが多い言葉です。
禅では「自分でできること」に重きが置かれます。人に依存しない状態を「自由」と呼び、重視します。すべて自らに由るということです。
つまり自己責任の思想であり、自助の精神です。
自由とは自立のこと
時に自由(放埓であること)と自己責任は表裏をなすといいますが、禅において放埓であることを勧奨することはなく、ただ自己責任があるのみです。
放埓ではないものの、自然であることは大切にされます。
自分でできるようになるために育てられた
自分でやることの最小単位は衣食住で、もう少しかみ砕いていえば、ご飯を食べることや室内を清潔にすることなどは自分でできるようになるということです。
誰しもが赤ちゃんとして生まれ、親はこの子が自分でトイレに行けるようになること、自分でご飯が食べることができるようになることを願うものです。
願わずとも自然とそうなっていきますし、必ずしも本人の努力とも言い切れないほど、自然な成長が今日も世界中で起きています。
自分でできなくなることとは
逆に人間は老い衰えると、これができなくなり、やがて死んでいきます。
禅は死を忌み嫌ったりしませんが、自分のことが自分できなくなることは死に近づくことであることは間違いありません。
逆に自分のことが自分できるようになっていく過程は成長であり、素晴らしいことです。
依存しないことの素晴らしさ
時に現代の倒錯として、清掃は清掃員がやるもの、料理は金を払って買うもの、家の修繕は金を払って専門業者に頼むものという考え方が一般的になっています。
払う金を自分で稼いでいるのだから、金を払って誰かにやってもらうことは自分でやっていることと同義であるという主張も一理あるとは思います。
購入≒人に頼むという依存
しかし、購買すなわち経済的な交換は、人への依存関係を高めていきます。
清掃員がいなければ、料理人がいなければ、リフォーム会社がいなければ、自分ではできないという状態になってしまいます。
自分でできるようになる、ということは他者への依存関係を減らしていくことになります。すなわち、経済的な効率性は低くなります。
自分も何かしらの専門的な仕事に従事し、そこで得た対価で他者の専門的業務を購入するということです。
自分でやらない人が多い
清掃は多くの人は自分の家は自分でやっていますが、オフィスでは清掃業者がやっていることもよくあります。
料理は自分で作る場合もありますが、食材を自分で作る人は多くありません。
家の修繕はDIY好きは喜んでやりますが、できないと最初からあきらめてしまう人も多いかと思います。
自分でやらずに生きる危険
これは程度の問題ということになりますが、極端に言えば、料理も後片付けも人にやってもらうという人がいたら、そのうちにご飯も人に食べさせてもらうということになっていくかもしれません。
特に食事だけは自分でできることが標準的な自立のボーダーラインであるという普遍的な根拠はありません。
人にやってもらうこと≒堕落である
料理を自分でする人からしてみれば、すべて買ってきて済ませる、外食で済ませるという人は自立的な生活ができていない人に見えるかもしれません。
トイレの始末は自分でしますが、お金を払って人にやってもらう人が出てくるかもしれません。
ご飯を食べさせてもらい、トイレをしてもらうというのは老い衰えた人がしてもらっている生き方です。
そこまで行かなくとも、その少し手前の状態が現代は常態化していると捉えられなくもありません。
ホテル暮らしと老人ホーム
三食を用意してもらい、衣服は毎日洗ってもらい、寝具も清潔なものを整えてもらって、自分でやらなくていいホテルのような暮らしは理想状態のように見えます。
しかし、理想状態は多くの場合、デストピアだったりします。
三食を用意してもらい、衣服は毎日洗ってもらい、寝具も清潔なものを整えてもらって、自分でやらなくていい暮らしができる環境をサービス付き高齢者向け住宅とか昔の言葉いえば老人ホームと呼びます。
輝かしい日常生活
毎日の食事、家の清掃や洗濯などで忙しく、一日があっという間に過ぎていくというような老後の暮らしは人は何となく嫌がるかもしれません。
しかし、自分のことが自分できるこうしたお年寄りの方が、老人ホームで暮らす人よりも充実した生を過ごしていることは間違いありません。
本当に文化的な暮らしとは
まったく生きることに精一杯で文化的な活動などをする余裕がないという人がいたとして、その人が自分の食事や清掃などを全うしているのならば、その人はむしろ最も健康で文化的な暮らしをしているということになるでしょうか。
逆に三食用意されて、洗濯もしてもらって、食事の間はみんなでお遊戯ないし俳句を詠んだりという暮らしも大変結構ですが、より望ましい暮らしはむしろ、基礎的な生活を自分でやっていく生き方の方な気がします。
やってくれる人がいない状況の方がいい
分かりやすさのためにお年寄りの生き方を例に挙げましたが、年齢に関係なく、自分のことを自分でやるということの割合が高い方が、もっと言えば自給自足のウェイトが高い方が、経済的な物差しとは関係なく、生活における満足度は高まります。
トイレ掃除を自分でしている人としていない人では、している人の方が生活の満足度は高いです。
トイレ掃除なんかを自分でやらないくていいように頑張って稼いでいると考え方は貧しい考え方です。
禅はただ自立して生きることを奨める
自分のことを自分でやるというのは一つの理想で、実際には多くの分業に頼らざるを得ない現代の状況がありますが、強い分業・交換の圧力に対して、ブレーキをかけて「自分でやってみよう」としてみることがこの言葉ではないかと思います。
自分は偉い坊さんなのだから、弟子を導く説教に集中して、他は弟子にやってもらうと考えないところが禅の独特の宗旨です。
偉い人は自分のことを自分でできる、年をとってもそれはやると考えるのが禅の生き方です。
それを「自由」、自らに由ると呼び、臨済宗の宗祖である臨済はこのことを何度も強調しました。
禅の教えはごく平凡のこと
禅では死後の世界も、霊的なインスピレーションも語りません。
ただ、自由な生活を全うすることを基本とします。
自由とは先に述べたとおり、放埓な生き方ではありません。
高度に自立した生き方です。
高度な自立
高度な自立とは、お金をたくさん稼いで人に任せることではなく、むしろ逆でなんでも自分でやってしまおうという生き方です。
ご飯は自分で作る、トイレは自分で掃除する、ご飯のみならず食材も自分で作ろう、家の修繕は自分でやろう、掃除を全うするからにはすみずみまできれいにしようという生き方です。
お金という歪んだものさしを捨てる
もちろん禅では多額の喜捨も求めません。むしろ金も物も少ない方がよいと考えます。
少ない方が味わいが深い、味わう生き方が勧奨されます。
特殊なこと、珍奇なもの、超人的な活動、神秘的なものに目もくれずに、自分のご飯を自分で食べるという当たり前のことを全力で行います。
むしろ今日も無事、何の変哲もない朝ごはんが普通食べられることに奇跡と幸せを感じます。
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
日常生活で実践する
身の回りを片付ける
禅は空理空論を避け、日々の実践を志向します。
身のまわりの片付け・清掃から始めてみてください。
最も始めやすく効果の出る実践方法です。
禅問答に挑戦する
多くの禅語は禅問答に由来しています。
興味のある方は挑戦してみてください。
座禅をする
座禅は最も基本的な”禅”の実践になります。
オンラインで座禅会に参加できる時代になりました。
編集後記
偉いお坊さんの言葉。高齢でも厭わず、作務に従事したと。したがって、ここで”なした”ことは、作務ととるのが普通だろう。
清掃やらの作業によく務めないななら、食うに値しないと。しかし、ただやっても駄目だと。一心不乱にやれと。
このお坊さんはかなりしっかりしていた人らしいから、加えて時間を決めてその時間に始めて、時間ちょうどに終わったのではないかと思う。
一生懸命やっても、時間を過ぎても熱心にやってはいけない、他にもやることがたくさんあって、すでにそれらの時間も決まっているからだ。
そんな人だったのではないだろうか。いかに”やる”かがこの場合の問題だが、このような精神の集中や時間に加えて、誰のためにやるのか、その問題意識が重要と芳賀は言う。
自分のためにやる、言われたからやるではいただけない、自利・利他円満の行いをしろと。
しかし、どうあれご飯は食べた方がよいだろう。
何とも昔話らしいし、禅らしいが、食べることもまたきちっとやるべきだろう。
食べ過ぎず、時間も守って。
などといい加減なことを言ったが、なんとなく高齢で厳格な禅僧の姿が目に浮かぶ一語である。
厳格でありながらも、他者を威圧しない温和な老僧、ただ自分の在り方に心を使い、他者の平和を願うようなまさに僧である。
遠い過去の人だけれども、自分の心のなかにも住んでもらいたくなる仏、百丈懐海。
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