両忘(りょうぼう)の意味「物事を比べて考えるな!」
物事を比較で考えずに、本来の目的や本質から考えようという禅語
禅の世界では多用される禅語のなかでも有名な一言です。例えば、明治時代の山岡鉄舟らが結成した参禅会は、両忘会と名付けられています。
よく用いられる言葉ではあるものの、意味は非常に難解で、高度に抽象的です。
「どっちも忘れる!?」という意味が見て取れ、何とも禅らしい捨て去る思想が窺えます。
実際にどのような意味なのか、ここでは事例や写真を交えて具体的に、また実践的に解説していきます。
読み方と意味
両忘とは、両方忘れるという意味で、「りょうぼう」と読みます。
何を両方忘れるのかというと、対立する2つの概念ということになります。
「比較してどうこう考えない境地」という含意になります。
高度に抽象的で、哲学的要素の強い言葉です。
抽象的に検討を進めてみる
例えば、大きいお皿があったとしたら、それは小さいお皿があるか、普通はこのくらいのお皿の大きさだという前提がないと、そのお皿が大きいのか小さいのか分かりません。
比較対象がないと成立しない私たちの世界
比較対象がないと、大きい・小さいというのは、お皿に限らず言うことができないということになります。
量的なものでなくても同じことです。
黒い駒と白い駒があったとしても、世界に白がなかったとしたら、世界がすべて黒かったとしたら、どうでしょうか。
黒い駒は”黒い”駒ではなく、ただの駒でよいはずです。
同様に親あっての子であり、子あっての親です。
比較のない世界だとどうなるのか
さあ、いよいよ禅問答です。
こういう相対的な世界に私たちが住んでいるなかで、絶対的なモノがあり得るだろうか?
あなたの答えはどうでしょうか。
禅の答えはこうなります。
比べるものはないけれども、絶対にこうであると言い切れるものはある!
大胆にも禅は、絶対的なものがあると答えました。
とすると、白はなくても黒い駒、小さくないけど大きい駒が存在するということになります。
果たしてそれは一体どんなものなのでしょうか。
比較のない世界だとどうなるのか
この問いこそがまさに、対立する2つの概念のどちらでもない状態である「両忘」について核心に迫っていくことと同じことになります。
ここで分かりやすさを得るヒントがあります。
比較のない状態を考える
比較のない世界を実際に考えてみましょう。
つまり、ヒントを頼りにすると、我々の多くのものは、より”よい”状態を目指しているわけですが、この前提を捨て去ります。
そんな目指すべき”いい”状態などは最初からなかったと考えるということです。
そのように思わせる「人や作品」、これが”両忘”の境地と言うことになります。
具体的に考えてみる
そのように思わせる「人や作品」、これが”両忘”の境地と言うことになります。
- 絵は下手より上手の方がいいが、そんなことはどっちでもいいと思える作家
- バスケは身長が高い方が有利だが、そんなことは関係ない選手
- サッカー選手は試合で活躍するべきだが、そんなことは問題ではない選手
- 俳優さんはカッコいい方がいいが、そんなことはどっちでもいい気がしてくる俳優
- 試合は勝つことが大事だが、それがすべてではないとも思える瞬間
- 俳句のリズムは五・七・五で心地よいが、それがすべてではない
といった感じです。
禅ではちまちました議論を一刀両断、本質一点突破という痛快さがあります。
ピンとこない部分もあったかと思います。
もう少し検証してみましょう。
両忘の具体像を目を見てみる
それでは次に具体的なモノをみて、「両忘」を掴んでいきましょう。
巧拙を超えた茶碗
本阿弥光悦の茶碗です。
光悦は多彩な文化人で書が相当の腕前だったそうですが、茶碗のプロではありません。
本業は刀の鑑定士ですね。
しかし、楽茶碗の楽家にならって、茶碗を作りました。
私は正直、本家の楽家の茶碗よりいいと思っています。
厚手な楽家の茶碗に対して、光悦の茶碗は薄手で心許なくはかない印象を与えます。
今にも壊れそうなところの均衡が人をひきつけます。
シャボン玉は風に吹かれてゆがんで弾ける少し前の瞬間を表現したかのようなあわれを感じます。
歪んでいるという点では下手ですが、そもそも均衡のとれた上手を目指していないのでそういう議論はふさわしくありません。
壊れそうな不均衡を目指すというのは、もはや上手の目指すところでもなく、名人の領域です。
上手とも下手ともないところを目指している、まさに両忘の域にあるのがこの茶碗です。
巧拙を超えた書道
次に紹介するのは、井上有一の「愛」です。ギリギリ「愛」とは読めますが、子供が書いたようなデタラメさがあります。
では、子供に書けるのかというと、意外とこうもなりません。
この書を見て、下手と断じることには躊躇を感じますし、上手かと言われればそうとも答えづらいものがあります。
強い印象を受けることは間違いなく、「愛」ってこんなふうにデタラメで不器用で、でも力強くで理屈ではないようなものなのかもしれない、滴り落ちる墨のまとまり切らないところも含めて「愛」ってそういうものかなと思わせます。
上手・下手の議論を忘れさせる、まさに両忘の傑作です。
スマートデバイス
最後にもう一つ、現代的なモノを紹介したいと思います。
iPhone登場以前には、ブラックベリーというキーボード付きの携帯電話が特にビジネスシーンでとても流行っていました。
10キーよりも文書を打つのが楽なので、スムーズにメールの返信などができるからです。
禅者による両忘的アプローチ
ご存じのとおり、禅者スティーブ・ジョブズは10キーもアルファベットキーボードも止めてタッチパネルだけの携帯電話を世に提案しました。
キーの数という戦いを止めて、パソコンの携帯電話化に対して、全く新しいコンピューティングデバイスを作り出し、この方が使いやすくない?と問いました。
ユーザーにとっての使いやすさにジョブズは集中したわけです。
この提案は多くの人々に受け入れられ、iPhoneは従来の携帯電話もパソコンをもぶっちぎる新しいネット社会のスタンダードになりました。
決まった尺度での競争に終止符を打ち、新機軸を打ち出す、まさに両忘です。
「両忘」の言いたいこと
つまり、ここまでの検討を踏まえると
対極する概念は目的達成の手段で、本来そんなことはどうでもいい、
とこの語は言っているということになります。
上手、下手という対立する概念は結局どちらも重要でないということが確認できました。
人は何かをしようとするとついつい客観的な尺度でも物事を捉え、取り組みがちですが、これはそもそもの1つ目のボタンから掛け違ってしまうということになりかねません。
最も重要な本質にいきなりアプローチをかけるというのが禅の本懐です。
- 人を楽しませるマンガ
- チームを勝利に導くプレー
- ファンを勇気づける選手生活
- 映画作品の完成度を高める
- スポーツマン
- 試合は勝つことが大事だが、それがすべてではないとも思える瞬間
- 俳句のリズムは五・七・五で心地よいが、それがすべてではない
極論すれば、両忘とは巧拙の尺度で努力をすることをやめ、事の本質やさらに言えば、自分自身の存在そのもので勝負をするということになります。
「両忘」の創造性
「両忘」は、いわゆる普通の尺度を取っ払うことにつながります。
ゆえに創造性につながるのですが、従来の尺度やこれまでの価値観を打ち壊すことがまず起こります。
そうした普通ではない世界を表現した禅語がいろいろあります。
- 一口吸盡西江水 (長江の水を一飲みしてしまう)
- 小魚呑大魚 (小魚が大魚を飲み込む)
- 半升鐺内煮山川 (小鍋で山や川を煮る)
- 一粒粟中蔵世界(一粒の粟に世界がある)
- 鉢盂裏走馬 (どんぶりのなかで馬を走らせる)
- 毛呑巨海芥納須弥 (毛が大海を飲み込み、小粒が大山を収める)
- 滝直下三千丈 (滝が落ちること、9000m)
不思議な世界を覗いてみる
実際にこうした不思議な世界を少し覗いてみましょう。
固定観点に捕らわれた自分の小ささを思い知らされる壮大な世界観に圧倒されます。
「月釣耕雲」(ちょうげつこううん)
「月を釣り、雲を耕す」とも読みます。
あまりにも荒唐無稽な言葉ですが、裏を返せば「常識に捕らわれない禅の創造性」を示す言葉ともいえます。
さぞかし破天荒な禅僧が言った言葉なのだろうと思われるかもしれませんが、この言葉は厳しい修行で有名な永平寺を開いた曹洞宗の開祖、道元の言葉です。
『典座教訓』という本で食事の作り方・食べ方まで整理された厳格な人で、修行においては「只管打坐」(しかんたざ)といってひたすら座禅をすることを提唱された日本の禅史においても最も重要な禅僧の一人です。
そんな道元がなぜこのような無茶苦茶なことを言ったのでしょうか。
この言葉の背景、気になりますよね。
詳しくはこちらをご覧ください。
東山水上行(とうざん すいじょうこう)
山が川を上っていくという禅語です。
混乱するか、楽しめるか、
詳しい解説はこちらから。
一雨潤千山(いちう せんざんをうるおす)
「寸刻の雨が、果てしなく続く山岳地帯を大いに潤す」とはこれもまた不思議な世界です。
詳しい解説はこちらからどうぞ。
固定観念を取り払った後
禅は実に自由な発想をもたらしてくれますが、その後の祭りの後が気になってきます。
「それでその後で何をするのか」という素朴な疑問です。
禅の答えはとても単純で、「当たり前のことを当たり前にやっていく」ということになります。
実際どういうことなのか、いくつか事例をみていきます。
実践を考えてみる
ここまでみてきたように、高度に抽象的な「両忘」ですが、ぜひ言葉の理解に留まらず、実践してそれを体感して自分のものにしたいものです。
茶道の実践方法と日常実践方法を検討してみます。
茶道における実践を考える
端的に言えば、点前を覚えた・忘れたという話や道具のあれこれという話をしないということになります。
手前の確認に優先して、清潔な室内や手作りの料理・菓子など、本質的なおもてなしに集中することです。
その逆は、掃除はそぞろに人に任せて、料理は仕出し屋へ、菓子は菓子屋に作らせて、道具は値段を良し悪しの基準に道具屋に揃えさせるという状態です。
掃除を徹底し、手づくりの料理・菓子を用意し、手作りの道具でもてなすことの方がよほどいいです。
もてなしの本質は、その心にあるからです。
日常生活で実践する
茶道と同じく、“掃除”をやってみましょう。
両忘の掃除は、掃除をする・しないの話ではなく、掃除をする時間の長さの問題でもありません。キレイにする掃除をします。
キレイにするために掃除をし、掃除をしてキレイにしてみてください。
ほんの少しの一部分だけでも構いません。
禅を日常生活で行う
禅における「どうすればよいのか」の究極の答えは、「座禅」です。
「釣月耕雲」の道元も、只管打坐(しかんたざ)といってひたすらに座ることを説きました。
釈尊が菩提樹の下で座禅をして悟りを得て以来、達磨が壁に向かって9年座禅をし続けて以来、禅の基本形は「座禅」にあります。
オンラインで自宅で座禅会に参加できる時代になりました。
まずやってみること、続けていくことで掴めていくものがあります。
禅は以心伝心(心をもって心を伝える)、言葉で伝えられないという立場を取ります(不立文字といいます)。
実際にやってみること以外に道はありません。
禅問答に挑戦する
多くの禅語は禅問答に由来しています。
興味のある方は挑戦してみてください。
まとめ
以上、両忘の意味や、具体事例を用いて考えてきました。
いかがでしたでしょうか。
また最後に実践方法も検討してみました。
実際に、「巧拙という雑念を忘れて、本質を追求する」ことにチャレンジいただけると嬉しいです。
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
参考文献:
芳賀幸四郎「一行物」(淡交社)
画像の一部:
https://pixabay.com/
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禅語は基本的に短いものが多く、「両忘」はその中でも漢字2字というかなり短い部類の言葉です。
さらに短い漢字1文字の禅語もあります。
「両忘」がたった2文字でも深い意味があったように、たった一字でも味わい深い意味が生じるのが禅の世界です。
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