天上天下唯我独尊は座右の銘として使ってよいか

(てんじょうてんがゆいがどくそん)
類語や言い換えから導く良い意味

漢字の並びを見ても非常に強い印象を与える言葉です。時に自分勝手(セルフィッシュ)という意味で使われることも多い言葉です。

この言葉は座右の銘として使ってよいのでしょうか。

この問いに答えるため、「天上天下唯我独尊」の良い意味と悪い意味を確認していきます。

本当の意味は良い意味なのですが、なかなかその真意は分かりづらい言葉でもあります。ゆえに悪い意味という誤用が多発しているのだと思います。

そこで本稿では、真意を明らかにするために天上天下唯我独尊に意味が近い言葉、いわゆる類語や言い換えを探索していくことにしました。

まずは悪い意味からです。

天上天下唯我独尊の悪い意味

この世の中には(天上天下)、自分だけしかおらず(唯我)、私がだけ偉い(独尊)という理解が、天上天下唯我独尊の悪い意味です。

この言葉は、お釈迦さまが生まれてすぐに天を指差し、仁王立ちして放った言葉とされています。

これは伝説ですが、このようなシチュエーションも含めて、自己中心的な私という解釈が広まっています。

当然、この解釈においては、天上天下唯我独尊は悪い意味ということになります。

自己中心的であることを宣言した言葉?

しかし、とするとお釈迦さまは自己中心的な困った人ということになってしまいます。

お釈迦さまは自己中心的な困った人だったのでしょうか。

それでは仏教の始祖としてなぜあがめられているのでしょうか。

本当の意味が掴めない!

当然、お釈迦さまは自己中心的な困った人だったのではありません。

つまり、天上天下唯我独尊の意味が「この世の中で偉いのは自分だけだ」という自己中心的考えを示す言葉である、という理解そのものが間違っているということになります。

それではこのように誤解されてもしょうがないシチュエーションとセリフをどのように理解すればよいのでしょうか。

このままではこのような誤解もやむを得ないと言えます。

天上天下唯我独尊の良い意味

仏教は自分が仏であると気づく(悟る)宗教です。

すなわち、お釈迦さまは、産まれてすぐにその悟りを得たというのがこのエピソードの言いたいことです。

ポイントは仏であると気づくことが、天を指差し、「天上天下唯我独尊」と言っている点です。
ここが少し難しくなりポイントです。

このお釈迦さまの悟りを理解するために、天上天下唯我独尊の言い換えを意味するような意味が近い言葉、いわゆる類語や言い換えを紹介します。

「この身すなわち仏なり」

これは江戸時代の禅僧白隠によるものです。

天上天下唯我独尊≒この身すなわち仏なりです。

文字の印象からかなり受ける印象が違うかと思います。

しかし、この身すなわち仏なり、天上天下唯我独尊よりはだいぶマイルドですが、大胆にも自分が仏であると言っている点では実はなかなか強烈な言葉です。

最初に述べたように仏教は自分が仏であることに気づく(悟る)宗教ですから、お釈迦さまはそのことの早々に気付かれた点では立派だということになります。

さらにひとこと

唯我独尊が自己中心的という印象を与えますが、禅では仏教を主体的で自立を目指す宗教と捉えます。

自己中心的というよりも自己責任というような意味合いで捉えていただきたいです。

POINT

「天上天下唯我独尊」は決意の言葉

生まれてきてすぐに、「この世の中で偉いのは自分だけだ」と言ったのではなく、生まれてきてすぐに、

「生きていくのは結局自分次第だ。主体的に生き抜いていくぞ」

と悟ったというのがこのエピソードの本懐だと思います。

「天上天下唯我独尊」は決意の言葉

ちなみに白隠の「この身すなわち仏なり」には前節があり、「当処すなわち蓮華国」です。
「この地が理想の地(天国)である」という意味です。

つまり、「この世が理想の地であり、私が仏である」という究極の現状肯定・自己肯定の言葉です。

2つを読み比べてみてください

・当処すなわち蓮華国 この身すなわち仏なり

・天上天下 唯我独尊

白隠のこの二節は、座禅和讃という摩訶般若波羅蜜心経の日本語訳に挑んだともされる日本語のお経の一部です。

この部分が天上天下唯我独尊の言い換えをしたという明確な証拠はありませんが、この二節は座禅和讃の眼目とされている部分です。

自分はできるという自己可能感「エフィカシー」を表わす言葉

セルフィッシュというよりも、エフィカシーという言葉の方が、ここでは当てはまるのではないかと思います。

エフィカシー

自己効力感(じここうりょくかん)またはセルフ・エフィカシー(self-efficacy)とは、自分がある状況において必要な行動をうまく遂行できると、自分の可能性を認知していること。

カナダ人心理学者アルバート・バンデューラが提唱。自己効力や自己可能感などと訳されることもある。

エフィカシーで時に用いられる自己可能感を用いると、同じ自己肯定でもセルフィッシュ(自分勝手)とはだいぶ意味が違ってくることが分かってくるかと思います。

つまりこの理解でもとづけば、お釈迦さまは

「この世の中で人生いろいろあるだろうけれども、私は何とかやっていけるだろう」

と二つの足で立ち、周囲に宣言したということになります。

だれもが不安を感じるけれど

人は誰しも大人になれば、それぞれ自立して生活していくわけですが、子どもの時点でそれができるという確信はありません。

できるとかできないとか、そういう考えすらも持たないのが普通です。

お釈迦さまはその自信を生まれた直後に得られた、だから偉いというのはこのエピソードの本懐ということになります。


逆境にくじけないという宣言

大人になっても、自信が持てなかったり、周囲のせいにしたりという人もいます。

もちろん人は環境に左右されますし、不遇という状況もあり得るでしょう。

しかし、この言葉は

「いかなる不遇があってもココだけが自分がいるべき場所である。

どこにも逃げないし現実逃避もしない。

色々あってもこの社会で何とかやっていけるさ

という頼もしい宣言の言葉として、天下唯我独尊を理解することができます。

そのほかの類語

「この身すなわち仏なり」以外にも多くの天上天下唯我独尊の類語や近しい言葉があります。

ここではそれらをまとめて6語、ご紹介いたします。

活祖

活は生きるです。祖は仏を意味します。つまり生き仏という意味です。

仏教は生きているうちに、自分が仏であることに気づき、そのように生きていくことを目指す宗教です。

生きているうちに仏になることを生前成仏と言い、また活祖とはそういう人のことを言います。

生き仏というと、特別に立派な人格者という意味合いで使われることが多いですが、仏教の宗旨は、「誰しもが生きているうちに仏になれる。そのことに気づけ」というものです。

つまり、生前成仏、活祖こそ仏教が本来目指しているものです。

POINT

本来仏教は生きている人のための宗教

今日の日本では仏教と言えばお寺で、お寺は葬式・法事など死んだ人を弔う場所ということになっています。

しかし、お釈迦さまが死んだ人の供養のために仏教を始めたという事実は一切ありません。

ただ、この世を生きている人々に「自分が仏であることに気づけ」と伝え、それが仏教となりました。

供養や死後の仏事に終始する仏教は、時に葬式仏教と揶揄されます。

主人公

禅においてよく用いられる頻出ワードの1つに「主人公」があります。

主人公は自分自身に「あなたがあなたの人生の主人公だ」と投げかける言葉です。

この言葉も、「天上天下唯我独尊」と同じような誤解をはらんでいます。

しかし、ここまで見てきたように、この言葉も自己可能感の言葉として理解されるべきことばです。

「自分が人生の主人公だ、だから他人は関係ない」

ではなく、

「自分が人生の主人公だ、だからどんな苦難にも負けない。

と、いかなる状況でもうろたえたり、他人に迷惑をかけたりしない自律と勇気を与えてくれる言葉です。

元々、自分を励ます言葉

主人公は、有名な禅僧が、毎朝自分に投げかけていたというエピソードに端を発する言葉です。

もちろん、後者の意味で自分を励ましていたわけです。

映画の“主人公”というように、主役という意味でこの言葉は用いられるようになりました。

この現代の語用を踏まえても、よりより生き方を教えてくれる言葉として捉えることができるはずです。

十方世界現全身

「じっぽうせかいにぜんしんをげんず」と読みます。

世界中に自分を表現していくという意味です。

「天上天下唯我独尊」と天を指差したお釈迦さまの姿が重なります。

ここでも当然、自分だけの悪の帝国を世界に押し広げようという意味ではありません。

自分が仏であると気づき、その仏性や自分のありったけの力をこの世界で表現していくぞという決意の言葉です。

自分が仏なわけですから、この社会で自分を存分に発揮していくことに何の躊躇も要らないはずです。

どう自分を発揮するか

世界に貢献してやろうという良い意味での若者の野心も、近所の花壇を綺麗に保とうという行いも、いずれも「十方世界に全身を現ず」であり、お釈迦さまの「天上天下唯我独尊」と重なる心意気と言えます。

自灯明

自灯明とは

お釈迦さまの生まれた時の言葉が「天上天下唯我独尊」でしたが、お亡くなりになられた時に言葉とされているのがこの「自灯明」です。

意味は、「自ら灯火を照らせ」です。

臨終の言葉の言葉

お釈迦さまが亡くなられる前に弟子に囲まれて、「これからどうすればよいでしょうか」と問われた時に答えがこの言葉とされています。

おおざっばに言えば、「自分でなんとかしろ」ということになります。

一貫しているお釈迦さまの言葉

実際、「天上天下唯我独尊」も自己可能感の言葉であり、「この世の中で人生いろいろあるだろうけれども、私は何とかやっていけるだろう」と理解できると確認してきました。

つまり、お釈迦さまは最初から最期まで同じことを言っていたということになります。

「あなたたちならばできる」と言いたいところですが、そうではなく、“あなたならば”とあくまで各自に自分を信じる力を求めています。

灯という言葉が西洋の啓蒙思想的で、印象的な言葉です。

犀の角のようにただ独り歩め

これも有名なお釈迦様の言葉として知られています。

孤独のなかをこじ開けていけという言葉として、知られています。

天上天下唯我独尊を言葉の印象だけで捉えると、大勢の人の前で、或いは組織や社会の頂点に立って尊大に構えている人を創造してしまいます。

この言葉からは、むしろたった一人で道を進む様子が想像できます。

一人であっても信念の道を進むべきという覚悟の言葉という印象です。

天上天下唯我独尊にも、独力独歩でやり抜くという自助自立して志を完遂するという力強い意味合いが掴めてきます。

一滴潤乾坤

一滴潤乾坤は、「一滴(いってき)、乾坤(けんこん)を潤す(うるおす)」と読みます。

乾坤は大地の意味で、たった一滴の水が大地を潤すという不思議な言葉です。

この意味は、「達磨が中国に来て禅を広めて世界を変えてくれた」という意味です。

達磨さんとはどんな人物か

達磨は禅宗の始祖で、お釈迦様から数えて28代目の法を継いだ人物とされています。

達磨は中国で壁に向かって9年座禅するなど、厳しく孤独な生活を送りながら、中国で仏教を禅というかたちに発展させて広めました。

つまり、この言葉には、先ほどの「犀の角のようにただ独り歩め」を地で行く達磨を賞嘆する意味が込められています。

このような生き方や考え方は天上天下唯我独尊とも通底する仏教の価値観といえます。

このように考えると、自己中心的という意味での天上天下唯我独尊ではなく、専心してやり抜く
という意味での天上天下唯我独尊という言葉が明らかになってきます。

まとめ

いかがでしょうか。ここまで、天上天下唯我独尊の意味を類語とともに探索してきました。

この言葉の前向きな良い意味、「自分にはできるぞ!」という自己可能感の意味合いを確認してきました。

皆さまの一層の理解につながりましたら幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

監修者:「日常実践の禅」編集部
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

参考文献:「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)

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編集部コラム「葬式仏教、是か非か」

これも芳賀幸四郎の文章から思ったことであるが、文章に「それでは葬式仏教になってしまう、、」というような節があった。まったくその通りで、時に日本の仏教は、本来の釈尊がインドで始めた仏教とは違う、インドの寺には墓がない、との指摘がある。

インドでは遺体は川に流してしまうだろうし、そもそも釈尊は葬式、弔いといった類いのことを言っていないし、先祖供養といったことも言っていない。今日の多くの人の寺との関わりが、葬式であり法事であるという現実と、この釈尊先祖供養不言及との間のギャップをいかに人々は捉えているのだろうか。僧侶や仏教関係者はどのように考えているのだろうか。

魔訶般若波羅蜜多心経を読んでも、先祖供養をしろなどとは言っていないし、先祖崇拝は仏教思想の重要な位置を占めていない。禅は神秘を嫌うから、基本的には死後の世界を語ったりしない。しかsし、多くの人々にとって仏教や寺との接点はこの先祖供養という一点によって繋がれているといっても過言ではない。先祖供養を仏教の文脈で正当化し、正しく文脈を展開することなど、誰かできるのであろうか。

経済学・マーケティング志向で分析するば、サプライサイドにその根源的意欲はないが、ディマンドサイドには強いニーズがあり、宗教を除けばそれを提供する人が少ないから否応なしにそのニーズに応えサービスを提供しているということになる。マーケットインの売れるアプローチであり、多宗派以外の競合に乏しいから需要過多・供給不足で、局面によっては非常な高額な取引になる。檀家制度があり、これは世代継承を原則とする超長期型のジレットモデル、サブスクリプション(購読)モデルとも捉えることができる。

大切な人との別れが辛いことは文化や時代を超えて常に人々にとってつらいものであり、この辛さの解消こそ、解消すべき大きなペイン(痛み)であり、仏教という何か有難いものに則って、また応分の負担を引き受けつつ、供養することがこの場合のペインキラー(痛み止め)ということになる。経営学では、サプリメント(健康になれる栄養補助食品)よりも頭痛薬の方が、強いニーズを獲得できる商品として優秀とされる。葬式仏教は優秀な仏教のかたちではあるのだ。

ではこれでよいのかと問われれば、それはそれで悪くもないが、決して素晴らしいものではないという回答になるだろう。なぜなら、まずその頭痛薬は、何に由来するのかよく分からないことが挙げられる。先祖供養の葬式仏教で心の安寧は手に入れたが、なぜに葬式仏教を行えるのか、正当な仏教の文脈はこれに答えられないことは既に述べた。つまり、仏教の本来にとって、そんなことはどうでもよいのだ。かなり本文から逸脱したところに葬式仏教はあり、これは軽視が相応ということになるのではないだろうか。しかしである。

先祖崇拝は文明的である。人として、大切な人を失うことに悲しみを覚えることは素朴な人としての感性であり、この悲しみのなかで亡き人を弔いたいというのは、文明的感情である。これを否定することは、文明に背を向けることである。だから全否定はしない。ただ整理は必要だと思う。