也太奇の意味「なんてすばらしいんだ!」

(やたいき)
昨日までと同じ世界が違って感じられたときの禅語

「也太奇」は読みづらいですが、「やたいき」と読みます。

「なんと不思議なことだ」という意味ですが、どんな不思議に際しても使う言葉ではありません。

昨日まで当たり前に思っていた日常に幸せや喜びを感じたときに使うのがこの言葉です。

不思議な語感を持つこの言葉は、こうした不思議な体験にフィットするため、あえて不思議と言わずに「也太奇」と言って用いられます。

読み方と意味

読み方

「やたいき」と音読みします。

しかし、「またはなはだ奇なり」と訓読みしても構いません。

その方が意味は取りやすいかと思います。

意味

意味は、「なんと不思議なことだ!」です。

つまり、英語でいうとOh My Goodnessといったところでしょうか。

出典

上記の通り、日常的な驚きを示す言葉です。

しかし、禅では特別な言葉としてこれを用います。

それは、以下のエピソードが起源になっています。

起源となるエピソード

禅では山川草木、水鳥樹林、一切に仏そのものであり、仏法を説いていると考えます。

これを聞いてこいという公案を出されて洞山(唐代の禅僧)に出されます。

問い

山川草木、そこらへんの石ころ、目の前の海が説いている仏法が聞こえないか?

この問いに忽然と悟った洞山の言葉が次です。

答え

なんて不思議だ!なんて不思議だ!

言葉を語らない草木や波しぶきが説く法とはなんとも素晴らしい!!

「也太奇 也太奇 無情説法不思議」

(やたいき やたいき むじょうせっぽうふしぎ)

このエピソードを元に、世界のあらゆるものから仏法を聞く喜びの感情表現として也太奇が用いられます。

五感を使って世界を感じるという禅語は色々ありますが、その時の喜びを表現する禅語というのは他にありません。

さらにその元ネタはあの人の「奇なるかな 奇なるかな」

このエピソードには、さらに元ネタがあります。

お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、お釈迦さまです。

お釈迦様は長い苦行ののちに菩提樹の下で座禅を続けます。

12月8日の朝、明けの明星をみて、突然悟りを得ます。

その時の言葉がこれです。

「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。

 ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」

(不思議なことだ 不思議なことだ 一切の世の中のすべては知恵得相を備えていた。

ただ妄想執着があったために、それに気づかなかった)

このように、洞山の「也太奇」はお釈迦さまの「奇なるかな」と重なります。

この「奇なるかな」も「也太奇」と同じように使われることがあります。

では、どのようにこれらの言葉が使われるのかを、次にみていくことにしましょう。

特別な感情には、特別な言葉がフィットする

也太奇のニュアンス

ポイントは、不思議なことに直面した場面で、何でもよいから「なんと不思議なことだ!」と使う言葉ではないということです。

自然の素晴らしさ、社会のありがたさに触れ、そこにそれ以上のことは望まないという極まったものがあると感じたときに使うのが「也太奇」ということです。

也太奇 也太奇の連呼は、「なんと不思議なことだ!」の連呼というよりは、

「なぜこれまで気づかなかったんだろう。なんと不思議なことだ! めでたい、めでたい。」という喜びのニュアンスが含まれます。

ポイント

昨日と変わりないいつもの世界が、素晴らしかったんだと気づいたときの特別な感情を得たときの言葉ですので、この特別な語感を持つ言葉がはまりがよく、度々用いられているのだと思います。

他の禅語と合わせて使うと味わい深い

実際に使ってみる

この禅語は他の禅語と違って、感情を示す言葉です。

他の言葉と組み合わせることで理解が深まり、禅の大切にする“体感”がより得られます。

福寿海無量(ふくじゅかいむりょう) 也太奇!也太奇!

昨日までがっかりしていたが、何のことはない。

目の前に幸せの海が広がっていたんだ!

なんと不思議なことだ! めでたい、めでたい。

この世界が素晴らしかったんだと気づいた時に

福寿海無量の解説はこちらから:

澗水松風悉説法(かんしゅいしょうふうことごとくほうをとく)
也太奇!也太奇!

川のせせらぎ、風が最高に気持ちよい。

極楽とはこの世界のことだったのか。

なぜこれまで気づかなかったんだろう。

なんて不思議なこと! めでたい、めでたい。

五感で大自然に幸せを感じた時に

澗水松風悉説法の解説はこちらから:

着衣喫飯(じゃくえきっぱん) 也太奇!也太奇!

服を着て、食事をいただく。

当たり前のことだが、実にありがたく、実に楽しいことだ。

なぜこれまで気づかなかったんだろう。

なんと不思議なことだ! めでたい、めでたい。

当たり前の日常に喜びを感じたときに

着衣喫飯の解説はこちらから:

随所作主(ずいしょにしゅとなる) 也太奇!也太奇!

主体的に関わればすべてが変わってみえてくる。

なぜこれまで気づかなかったんだろう。

なんと不思議なことだ! めでたい、めでたい。

「自分はできる」と思えるきっかけが得られたときに

随所作主の解説はこちらから:

楽亦在其中(らくまたそのなかにあり) 也太奇!也太奇!

苦しい練習もを楽しんで乗り越えられる気がする。

なぜこれまで気づかなかったんだろう。

なんと不思議なことだ! めでたい、めでたい。

困難や苦労に喜びを感じられたときに

楽亦在其中の解説はこちらから:

山呼万歳声(やまよぶばんざいのこえ) 也太奇!也太奇!

山呼万歳声

山が万歳と叫んでいる。

なぜこれまで気づかなかったんだろう。

なんと不思議なことだ! めでたい、めでたい。

困難や苦労に喜びを感じられたときに

山呼万歳声の解説はこちらから:

まとめ

心ひとつで世界は変わります。(直指人心)

世界を変えて、切り替えられたら「ヤタイキ!ヤタイキ!」と喜びましょう。

これを「見性成仏」という、あなた自身が仏になったことを意味します。

日々、心を切り替えて、日々喜び溢れる生活を送ってください。

お釈迦さまがそうであったように、座禅によってこの心の切り替えをするというのが禅宗です。

ぜひ、お試しください。

監修者:「日常実践の禅」編集部
(▶ About Us
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

参考文献:「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)

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編集部コラム

山採りの花

花を山に入って取ってくる。これは面白い。まさに季節の花しかないから。しかし、野山に花はそんなには咲いていない。そして、ようやく見つけてだしても、1日で首をかしげてしまうからがっかりだ。せいぜい週に1日しかこのような作業ができない私は、1週間は持つ花にしなくてはならない。そういう花はそうそうない。そこで花ではく、葉を採ってきたりする。花や葉でなく、枝で採ってきたりする。根ごと引き抜いてきたりする。そうすることでだいぶ持ちが違う。いずれの流派にも属さないから、これが彼らにどうとらえられるかは知らない。ともかく実務的要請は、半日・1日の命となっては困るということである。

文字通り、野にあるように、花を入れることになる。特に根ごとに持ってきたものは、立てたりあしらったりということが著しく制限されるから、軽くいけざるを得ない。野にあるように軽くいけることになり、これで茶花としてはよしとしてしまっている。まあ、散り散りの花を1週間ほおっておくことや、空の花瓶1週間眺めることと比べれば、多少不格好でも元気な花や青々した葉が室内にあった方が素晴らしいことだろうと思う。毎週続けていれば、それなりにうまくもなるのではないだろうか。花については名前も季節も知らないでいる。花屋ではなく、山に聞く日々。