稲盛和夫氏が帰依した禅。

禅(ZEN)はビジネスを成功に導くのか

京セラの稲盛和夫さんは、禅寺で修行していました。

それも高齢になってから、厳しい修行をしていたようです。

もちろん、当人の自発的な意思によるものです。

こういう禅修行に励みたいという願望は、男性・女性を問わず、年齢を問わず、お持ちの方もいらっしゃると思います。

仕事や家庭のあるなかで禅修行ができるのか、考えてみたいと思います。

【目次】

稲盛和夫 ― 屈指の経営者は禅者

京セラの会長で、KDDIの創立やJALの再建など、大きな実業界の業績を残されている稲盛さんですが、数年前に妙心寺派の寺で出家されたとの話を耳にしました。

稲盛さんというとサンマーク出版などの自己啓発本の人気でも有名で、その哲学というのは、仏教的とか儒学的というよりも、人間的な稲盛さんの人生哲学的なものなのかと思っていました。

稲盛和夫氏が修行した寺

稲盛氏は40代のころから、人生最後の20年は死の準備期間と決めていたそうで、旧知の寺の臨済宗妙心寺派円福寺で修行されています。

なぜ禅宗を選んだのはどういう理由があったのか、正確なところは分かりません。

高齢にして過酷な修行:65歳にして得度

得度とは出家のことです。

稲盛さんは、65歳でがんの手術を終えて2か月後に出家して修行に入られています。

どのような立場であっても65歳で出家するということはできないことです。

ましてがん手術直後というのは普通では考えられないことです。

出家して雲水としての生活

雲水とは身一つで旅をする禅僧のことです。

稲盛さんはそういう立場に京セラ、DDIの名誉会長を退いた後に身を置き、修行されたようです。

托鉢といって、鉢をもって家々を回り、食べ物や金銭をもらうという活動も修行中されてそうです。

これは過酷な経験で、

慣れない托鉢を続けていると、わらじの先からはみ出した指が地面にすれて血がにじんでくる。

ほど大変な修行だったようです

禅の気風が感じられる稲盛語録

稲盛さんの言葉は、ビジネスマンなどの間で引用されたり度々用いられたりすることがあります。

そうした稲盛語録のなかでも、禅の思想と近いものを幾つか紹介いたします。

世の中に失敗というものはない。
チャレンジしているうちは失敗はない。あきらめた時が失敗である。

続けることの大変さを踏まえて、継続の力を信じます。

不運なら、運不運を忘れるほど仕事に熱中してみよ。

運不運もその他の余計なことも、禅は一切を妄想として切り捨てます。

稲盛さんも、自分が今やるべきこと集中せよと促します。

人生とはその「今日一日」の積み重ね

今日、今を生きることが禅の基本です。

稲盛さんも同じことを言っています。

私たちは決して苦痛や悩みから解放されることはありません。
しかし最悪の場合さえも明るさを失わず、明日に希望をも持つように努力することは出来るのです。

いつでもどこにでも希望を見出すのは、禅および仏教の基本的な考えたです。

状況の奴隷になってしまうと、状況が悪いことを理解し、自分の夢が非現実的であったという結論を出すだけになってしまいます。
しかし強い願望を持っている人は、問題を解決するために創意工夫と努力を始め、目的に到達するまで、決してあきらめないのです。

創意工夫と実践を重んじるのが禅の特長です。

手をこまねいて、状況に従属的になることを嫌う点、稲盛さんと同じです。

自分の運命は自分で管理しなさい。
でなければ、あなたはだれかに自分の運命を決められてしまう。

生きることに対して常に主体的な態度を採るところは、稲盛さんも禅も同じです。

私たちは決して苦痛や悩みから解放されることはありません。
しかし最悪の場合さえも明るさを失わず、明日に希望をも持つように努力することは出来るのです。

困難の中に楽しみを見出すポジティブさは、禅の影響でしょうか。

稲盛さんの生来のものなのか分かりませんが、いずれにしても難しい状況で「やってやろう」と奮起する点は禅も稲盛さんも同じです。

自分もやってみたいと思うあなたへ

稲盛さんの場合は、得度が65歳の時だったので、すでに実業の世界で成功されていて、その後にJAL再建なども引き受けていらっしゃるので、在家の立場で仏門に入られているということかと思います。

仮にみなさんが、稲盛さんのように在家得度されようとしても屈指の名刹である妙心寺の円福寺でそれが許されるかは定かではありません。

許されても場所が京都だと都合が悪い人も多いかと思います。

稲盛さんのように禅修行するには、現実的に難しいことも多そうです。

稲盛さんもあなたも、素晴らしい心意気だと思う

仕事や家庭を持っていて、その全ての捨てて出家するのだ、と強い意志と実行力がある人は別ですが、そうでない大多数の人にとって仕事や家庭は重要で簡単に捨てられるものではありません。

むしろ、仕事や家庭がうまくいくように修行をしたいんだ、と思う人もいることと思います。

では、禅の修行は、仕事や家庭を持っていて在家の身分では不可能なのでしょうか。

禅は専門家だけのものではない

仏教や禅の世界には、昔から優れた在家の修行者が存在していて、それをお釈迦様も否定していませんし、むしろ多いに認めています。

お釈迦さまの優れた弟子の一人が有名な維摩居士であり、中国にも龐居士という優れた禅者がいました。

禅はみんなもの

在家が禅を追求することは、いけないことではありません。 大いに勧奨されるべき、素晴らしい行いと言えます。

しかし、受け入れてくれる先がない

仕事を持ったり、家庭を持っている人が、禅僧の修行を積むには、それを許してくれる専門道場が必要ですが、皆さんの周囲の禅寺ではそれは叶いません。

住職の方には色々仕事があり、檀家であってもその修行の面倒を見てくれるということはしてくれない訳です。

専門家向けの施設しかない

全国には禅僧が修行する専門のお寺、専門道場が幾つかあります。

しかし、それはあくまでプロ向けの施設で、一般社会人や家庭人の立場でそこに入門することは許されません。

受け入れ先が遠い

ほぼ皆無と言っていい、在家禅者志願者の受け入れ先ですが、仮に何らかの縁を得て、それが許されてもその場所が自宅の近所になければ、持続的な修行は不可能です。

そこに住み込むような話になっては在家とは言えずむしろ出家になってしまい、在家の根本である仕事や家庭に支障をきたしてしまいます

身近な場所に、あなたを受け入れてくれ、修行させてくれる場が必要な訳です。

伝統に則った修行体系の場がない

精神的な自由や解放、悩みに打ち勝つ機会を提供する主体として、現代の日本では新興宗教がそれを担って来ました。

病気に打ち勝ったり、家族の難事を乗り越えるための信仰の場として、新興宗教はそうした人のニーズに大いに応えて来ました。

禅の修行を志ざす人の中には、こうした何らかの困難を抱えていてそれを乗り越える手段として禅の修行を位置づけている人もいるかと思います。

受け入れ先のない反動

そうした場を提供していない伝統的な仏教寺院がほとんどの現在の日本では、時に新興の宗教の門を叩く人が出てくるのも無理はありません。
新興宗教の方が、門戸を広く開放していますし、何らかの悩みを抱える人の解決を具体的に謳う団体も多く、魅力的に感じる人もいることでしょうか。

では、そうではない伝統的な修行の場を、どのようにして現代の日本において得るかことができるのでしょうか。

できる対応策

在家禅の修行を受け入れる団体を幾つかありますので、そこを訪ねるのが一つだと思います。

自宅でもできる

そこにもハードルを感じる人は、リモート自宅座禅会で、一般生活への普段を減らして実践に移してもみるのもよいと思います。

まとめ

もし、あなたが稲盛本に心酔していて、稲盛さんのような人間になりたい、経営者やビジネスマンになりたいと考えていて、その具体的な努力として禅修行を考えられているとしたら、あなたは禅に向いているということもできます

禅は皮相の理解を嫌い、本質の実践や体験を求めます。

自己啓発本の精読だけでは得られない稲盛さんの境地は、禅修行によってしか得られない部分も多いと言えますし、直感的にあなたはそのことに気づいているとも言えます。

ぜひ実行に移してみてください。

監修者:「日常実践の禅」編集部 
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

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