釣月耕雲の意味:超越的で爽快な悟りの境地
道元による禅世界表現の至高
(ちょうげつこううん)
釣月耕雲(ちょうげつこううん)と読みますが、「月を釣り雲を耕す」と訓読みしてもよいと思います。
「月を釣り雲を耕す」とは、不可解な理解しづらい言葉です。
しかし、これは時に禅語に時に見られる「日常生活の感覚を超越した悟りの世界観を表わした」
典型的な言葉です。
そのなかでもこの語が多用されるのは、その文脈や表現の美しさにあります。
まずは出典から考察していきます。
出典
鎌倉時代の禅僧、道元の漢詩です。
道元は鎌倉時代の禅僧で、厳しい修行で有名な永平寺を開き、大著『正法眼蔵』のほか、ひたすらに座禅に打ち込む「只管打坐」という言葉を残しました。
一方で、料理・食事のとり方をまとめた「典座教訓」や美しい詩歌なども多く残し、多彩にして力強い生き方をした禅僧です。
原文
西來の祖道、我、東に伝う
釣月耕雲、古風を慕う
世俗の紅塵、飛べども到らず
深山雪夜、草菴の中
意味
インドから来た達磨の教えを、日本に伝えていこうと思う。
月を釣って雲を耕すように、古き良き伝統を重んじたい。
俗世間の論理はここでは通じない。
奥山の雪の夜、ぼろ屋にて。
それでは、次にこの詩の解説をしていきます。
詩の文脈から意味を理解する
詩は中国で修行し、北陸の山奥で永平寺を開いた道元によるものです。
この詩のなかで、道元は達磨に倣うと言っています。
達磨は、面壁九年と壁に向かって座禅し続けたとされる人物です。
達磨に何を倣う?
達磨に倣うと言っていますが、詩を読めば、達磨の何に倣うと言っているのかは明らかです。
「世俗の紅塵、飛べども到らず」と、世俗から超越した達磨の態度に倣うと言っています。
ここでは「月を釣り、雲を耕す」を禅語に時に見られる日常生活の感覚を超越した悟りの世界観としてみるのが素直な解釈かと思います。
禅にみられる壮大な表現
このような、いわゆる常識に当てはまらない感覚表現が禅では時に見られます。
哲学的にいえば、相対的な尺度をなくした世界ということです。
つまり、長い・短い、高い・低いといった日常生活・一般常識を脱した世界のことです。
この点についてはこちらの記事を参考にしてみてください。
同様の表現方法
相対的な常識の世界を超越した世界を、「釣月耕雲」と同様に表しています。
- 一口吸盡西江水 (長江の水を一飲みしてしまう)
- 小魚呑大魚 (小魚が大魚を飲み込む)
- 半升鐺内煮山川 (小鍋で山や川を煮る)
- 一粒粟中蔵世界(一粒の粟に世界がある)
- 鉢盂裏走馬 (どんぶりのなかで馬を走らせる)
- 毛呑巨海芥納須弥 (毛が大海を飲み込み、小粒が大山を収める)
- 滝直下三千丈 (滝が落ちること、9000m)
禅ではこういう壮大な世界観がよく出てきます。
時に、イマジネーションや創造性に禅が寄与すると言われるのはこういう制約のない世界が根本にあるのかもしれません。
不思議な世界観でドキッとさせる禅語
一見荒唐無稽に思える不可思議な世界を表わす言葉を、体で体得していくために、禅では座禅を重んじます。
文字で理解できるような世界ではありません。
ここでは具体的に2つの禅語を紹介しておきます。
東山水上行(とうざん すいじょうこう)
山が川を上っていく!?不思議な禅の世界を表わした禅語。
詳しい解説はこちらから。
一雨潤千山(いちう せんざんをうるおす)
少しの雨が山々を潤す!?恵みの雨を少しでよい。恵みの雨は自分で降らせなさいという禅語。
詳しい解説はこちらからどうぞ。
まずは、「釣月耕雲」がこういう摩訶不思議な世界を表わす語の一つなのだと、理解しておいていただければと思います。
道元の工夫
摩訶不思議な禅の境地を表わす語はいろいろありましたが、「釣月耕雲」では道元がもうひと工夫しています。
「月」は悟り、「雲」はそれをさえぎるもの
禅では山や川など自然のものに意味を託すことがよくあります。
「月」・「雲」も例外ではありません。
「月」は悟りを表わす言葉として、「雲」はそれをさえぎるものの意味で使うことがよくあります。
つまり道元は、こうした禅の文脈での「月」・「雲」を踏まえて、「さえぎるものを遠ざけてようやく得た悟り」をあえて「月を釣り、雲を耕す」と荒唐無稽な表現で重ねて「悟りの境地」の自由さを表現したことになります。
以下の二語は同じ隠喩を持っていることが分かります。そしてその修辞表現が実に多彩であることに気づき、楽しめるようになります。
- 雲破月来池(くもやぶれて つきいけにきたる)
- 清風払明月(せいふうめいげつをはらう)
いずれも美しい秋の叙情に悟りの境地をみる有名な禅語です。
とは言え、悟りの自由な境地を重ねて表した「釣月耕雲」の味わいは格別です。
月
「風」や「水」と組み合わせることも多くあります。
- 月白風清(げっぱくふうせい)
- 水和明月流(みずはめいげつにわしてながれる)
- 掬水月在手(みずきくすれば てにつきあり)
- 水急不流月(みずきゅうにして つきをながさず)
雲
「雲」は悟りをさえぎるものとして用いられることがよくあります。
「無」「去」「外」「開」といった言葉と合わせて使うことで
悟りを遮るものがない状態=悟りの境地
を表わします。
- 雲去青山露(くもさってせいざんあらわる)
- 萬里無片雲(ばんりへんうんなし)
- 無山不帯雲(やまとしてくもをおびざるはなし)
- 雲外一声雁(うんがいいっせいのかり)
- 雲開日影新(くもひらきにちえいあらたなり)
- 雲外渓声(うんがいけいせい)
- 雲外一閑身(うんがいいちかんしん)
「耕」とした道元のセンスは比類がありません。
まだまだある!この詩の鑑賞ポイント
それでは再び、道元の詩に戻ります。
道元のこの詩にはまだまだあります。
自ら行う平易な生活行動として表現している
先の例では大小のモノを表わしたのが多いの対して、道元は「釣る」、「耕す」といった自分が身体的に行う要素が入っています。
要するに悟りの世界が相対的な大小が関係ない絶対的な世界ですから、モノの大小ということを直接的で分かりやすい表現と言えます。
対して道元は単なるモノの傍観者ではなく、それを自分が行うという禅の主体的・身体的要素が加わっています。
当たり前のことを当たり前にやるだけ
道元はそれを魚を釣る・畑を耕すという人間の基本的な生存活動として表現しています。
悟りの境地を、魚を釣る・畑を耕すという日常生活にをつなげています。
「自分で生活すること」を重視する禅の精神も表しています。
このように、道元は深淵な禅の文脈をひとまとめにして、かつ美しい詩的表現にしているところが、この詩がかっこいうポイントです。
実世界における質素さをものともしない
この詩には、面白いもう1つのポイントがあります。
それは、この「月を釣って雲を耕す」という超越的な禅世界を「奥山の雪の夜、ぼろ屋」で体験しているという点です。
充実した内的世界、世俗を超越した高尚な達観に至りつつ、それにふんぞり返るということでもなく、それを世俗の世界のなかでも最も侘しい環境で体感しヨシとするという、これも禅らしい態度です。
そして道元らしい価値感・美的感覚・カッコよさが顕著に現れています。
世間の金や地位、人間関係で心を砕く人々に対して、
「最高の宗教体験・高次の境涯を、世俗的には最も低次にあって味わうことにするよ」
というちょっと憎たらしくなるような達観です。
しかし、それを道元ならではの詩的表現で、
「月でも釣って雲を耕すことにするよ、雪の降る奥山の草庵でね」
と美しくまとめています。
道元の詩的感覚の絶頂を見てとることができます。
物質的なものを軽視する禅
こうした2番目のポイントとして挙げた道元の表現したカッコいい禅の価値観は、他の禅語でもみることができます。
禅は、物質的なものや経済的な豊かさ、見た目の派手さといったものを軽視します。
結果として、いわゆる「わび・さび」の美意識につながっていきます。
虚飾を拒み、素朴に充実を見るという禅の価値観を表わす禅語
こうした価値観を表わす禅語を幾つか紹介します。
禅語は常に短いですが、全体として同じ考え方に元にあることが分かっていただけるかと思います。
破襴衫裏(はらんさんり)に清風を盛る
襴衫(らんさん)は衣服で、破襴衫とはすなわち、擦り切れた服。
その裏地に清風を詰めて颯爽といくさまを表した禅語。(⇒詳しい解説はこちらから)
物外(もつがい)
虚飾を拒み、素朴に充実を見るという禅の価値観を表わしています。
本質来な意味は釣月耕雲と近しい言葉と言えます。(⇒詳しい解説はこちらから)
日常実践を試みる
道元の表した特殊な世界を日常に見出すことは不可能です。
なぜなら、それなりの修行が必要ですし、日常の相対的世界を否定するのが、悟りの絶対的世界だからです。
しかし、道元が示したかっこいい「わび・さび」の世界観は、日常の中で探すことができるかと思います。
実際に探してみよう
こういうものに実際をみることができるかと思います。
- 装飾を配したシンプルな寺社、茶道具などのデザイン
- 簡素な禅語表現(1行2行に大きな意味を込める)
- 質素な食事を大切にいただくこと(道元の確立した食事手法)
- 量を軽視し、一つ一つをしっかりやること(味わう生き方)
あなたも上記なように、身近なものに禅文化、道元の価値観を探してみてください。
月を釣り、雲を耕すような超越的な体験は得るのは大変ですが、最初のきっかけになるはずです。釣り竿やくわを用意するようなものです。
実際にやってみよう
難しいとした超越的体験を得る、一番簡単な方法は座禅をすることです。
月を実際に釣る作業、すなわち悟り(月=悟りでしたね)を得る作業とは、小さな小屋でできることでしたよね。
道元が山小屋すると表現したように、あなたも自宅でやってみてください。
リモート自宅座禅会はこちらから:
禅問答に挑戦する
多くの禅語は禅問答に由来しています。
興味のある方は挑戦してみてください。
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
参考文献:「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)
月の禅語
月にまつわる禅語はこちらから。
おまけ:おススメの禅語
禅の世界に興味を持たれた方は、こちらもチェックしてみてください。
人気の禅語
勇気の出る禅語
人生を応援してくれるのが禅です。
勇気ある生き方を禅は応援しています。
一文字の深い意味
禅語はとても短いため、「月」「雲」以外にも深い意味を持つ一文字が多くあります。
ぜひこちらもチェックしてみてください。
- 「一」:一とは自分自身のこと
- 「風」:目に見えない、とどまらないもの
- 「夢」:一切は夢という現実
- 「無」:無を強調するのは禅の特長
- 「道」:道とはすなわち禅の道
- 「雪」:禅は冬の宗教
- 「心」:何はなくとも心が大切と考えるのが禅
- 「坐」:座禅が“禅”の基本。しかし執着はしない。
- 「山」:静寂にして不動
- 「花」:何も考えずに生き抜く美しさ
- 「茶」:日常生活のメタファー(たとえ)
- 「水」:老荘の影響を受けて水は良きもの。川を意味する。
- 「喝!」:最も短いアドバイスの言葉
- 0字の字
編集部注
「努力」を謳った一語という解釈もある
月を釣るほどの努力、月が出るまで釣るという忍耐と努力を意味する禅語であるという解釈もあります。
- 道元の詩の文脈からは違和感がある
- 道元の他の詩歌にみられる平易で率直な表現からは程遠い修辞的表現になってしまう
- 禅では努力、我慢するような辛抱強さ、刻苦勉励といった苦行を重んじない
しかし、以上の観点から本考察では、この説を採らずに、日常生活の感覚を超越した悟りの世界観という解釈の元、道元の詩全体を説明させていただきました。
「雲耕月釣」とする場合もある
これは好みの問題かもしれません。
私も「柳緑花紅」は逆の方が日本語の通りがよいと思うことがあります。
- 柳はみどり、花はくれない
- 花はくれない、柳はみどり
本稿では、道元の詩の原文を優先し、「釣月耕雲」を採りました。