寂然不動(じゃくねんふどう)の意味
静かで動かないさま。
山のようにどっしりと、座禅するということ。
寂然不動は、静かで動かないさまを示す言葉です。
本質を掴むのにジタバタしないことを禅では大切にします。
そのとき、禅はしばしばそれを山に喩えて、静かに幸せになることを禅は説きます。
具体的には、座禅というアプローチを勧めます。
読み方と意味
まずは読み方と意味からみていきます。
読み方
じゃくねんふどう、と読みます。訓読みすることはありません。
意味
寂然は「ひっそりとして静かなさま」。不動は文字通り、動かないこと。
すなわち、静かで動かないさまを示します。
つまりどういうことか
本質を掴むのにジタバタしないことを禅では大切にします。
「今、ここで自分が幸せであることに気付くこと」が禅の目的です。
どこにも行かななくても慌てなくても大丈夫だと、禅は言葉を変えて教えてくれています。
- 惺惺着(せいせいじゃく)
- 徹底(てってい)
- 当処すなわち蓮華国(とうしょすなわちれんげこく)
- 清光無何処(せいこう いずこにかなからん)
- 遍界不曽蔵(へんかい かつてかくさず)
- 在眼前(がんぜんにあり)
落ち着け!
足を川底にしっかりつけておけ!
天国とはこの地である!
清き光はどこにでもある!
世界は何もあなたに隠したりはしない!
大切なものは目の前にある!
すなわち座禅することと同義
そのために禅では、冷静に深呼吸をすること、つまり座禅というアプローチを勧めます。
ただ、静かに心を落ち着けることが求められます。
そして、静かに座禅をすることを勧めます。
山に喩えることも多い
山は、流れる雲や移ろい行く季節の中で、どっしりと静かに存在しつづけているものの象徴として扱われます。
そのさまは、青山元不動(せいざん もとふどう)のように、山に喩えられることが度々あります。
禅問答に挑戦する
多くの禅語は禅問答に由来しています。
興味のある方は挑戦してみてください。
寂然不動であるために不要なもの
今、ここで自分が幸せであることに気付くために不要なものを考えます。
禅では一般的に幸せに近づけると考えられている幾つかのアプローチを否定します。
モノを買うこと・集めること
禅では、むしろ減らしていくほどよいと考えます。
モノが溢れる生活は、寂然不動とは言えません。
むしろ、モノが少ない生活には、寂然不動という言葉が表すような静けさがあります。
本を読んで勉強すること・人に学ぶこと
知識を増やすことは、やはり寂然不動とはいえず、むしろうるさい作業として禅では嫌われます。
人にあれこれ聞くよりも、自分なりに試行錯誤することの方が、静かで寂然不動的と言えます。
まとめにかえて:静けさには力がある
緻密な作業をする場面では、おしゃべりも理屈も不要です。
植物は静かに成長していきます。
大切なものは羽毛を手に乗せるように、そっと静かにすることで手に入れられるということかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございました。
あなたの静かな幸せを願っております。
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
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突き詰めると、たった一字でも味わい深い意味が生じるのが禅の世界です。
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- 「一」:一とは自分自身のこと
- 「風」:目に見えない、とどまらないもの
- 「月」:禅では悟りの喩え
- 「夢」:一切は夢という現実
- 「無」:無を強調するのは禅の特長
- 「道」:道とはすなわち禅の道
- 「雪」:禅は冬の宗教
- 「心」:何はなくとも心が大切と考えるのが禅
- 「坐」:座禅が“禅”の基本。しかし執着はしない。
- 「雲」:消え去る雲に捕らわれるな
- 「山」:静寂にして不動
- 「花」:何も考えずに生き抜く美しさ
- 「茶」:日常生活のメタファー(たとえ)
- 「水」:老荘の影響を受けて水は良きもの。川を意味する。
- 「喝!」:最も短いアドバイスの言葉
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編集部コラム:静けさの魅力
禅は静けさを貴ぶ。静けさがとても好きだ。なぜだろうか。死とか無とか、どんどん良くない方にいくような言葉も好きだ。例えば生を大事にしない。これは普通とても大事なものだ。
禅の論理でいけば、生も死もどちらもない、それを超えていけというような止揚を用いるからということになるかもしれないが、ただ直観的に私なども静けさは好きである。一般的に好まれる生は、動でありやかましく複雑に変化・運動する存在である。
それはそれとしてとても人々に喜ばれる存在であるけれども、禅はどちらかといえば、老いであり、死であり、静であり、動というよりは不動を重んじる。なぜ、我々は死に近い状態であるともいえる静に惹かれるのだろうか。死にたがっているのだろうか。静は死であり、死は美なのだろうか。
もちろん、この静は物理的な静とは限らない。動中の静であってもよく、むしろその方が得難く重んじられる。すなわち、市中において、喧噪において、日常において、理想的とは言えない取り巻く現実世界の環境のど真ん中にあって、静を得ようと。