「行雲流水」の意味は深い:いろんな意味があるのが人気の理由

座右の銘、書道で用いられる禅語

(こううんりゅうすい)

座右の銘として用いられる禅語「行雲流水」の解説です。

禅語は常に短いですが、深い意味や文脈があります。

「行雲流水」の5つの意味

  1. 直接的な言葉の意味「雲が行き、川が流れている」
  2. 元々の意味「文章は流れるように書くべし」
  3. 禅の文脈での意味「悟りの境地に達したさすらう者。川のように流れ続けるさまは、実に望ましい」
  4. 今日使われる一般的な意味「こだわらない生き方」
  5. 哲学的な視点での意味「万物は流転している」

「行雲流水」は特に意味が多くあり(多義的)、それがまた座右の銘などで広く用いられる人気の理由なのだと思います。

それらを丁寧に辿っていきます。

読み方

「こううんりゅうすい」または「ぎょううんりゅうすい」と読みます。

訓読みすると「行く雲、流れる水」ですがピンと来ないので、音読みが一般的です。

ちなみに訓読みする場合でも文法的に「雲が行き、水が流れる」とは読めません。

直接的な意味

水は川のことで、「雲が行き、川が流れている」というのが直接的な意味です。

風情を表わす言葉として

雲の流れや川の流れには情感があり、「行雲流水」をこうした風流・風情の語として捉えることがまずできるかと思います。

そのままの解釈として

これでは禅語になりませんが、しかし世俗の世界から逃避として茶道を捉えるならば、この風情としての「行雲流水」を含意として掛け軸でも用いても十分よいかと思います。

【参考】流れ続けていくイメージの禅語はこちらから

出典

出典は蘇軾の「謝民師推官に與ふるの書」とされています。

ほかに「宋史 蘇軾伝」とも考えられています。
(「宋史」巻三百三十八 列伝第九十七に、「蘇軾 子過」)

つまり、明確な出典がないものの、人々に愛され続けている言葉といえます。

禅語の出典経路

禅語の出典にはいくつかのパターンがありますが、「行雲流水」はその他古文から取り出したものになります。

  1. 禅書に由来するもの
  2. 詩句から取り出したもの
  3. その他から取り出したもの
いわゆる禅の経典から取り出したものではなく、他の文脈で使われていた言葉を禅の文脈で解釈し直したものになります。

蘇軾の「謝民師推官に與ふるの書」

蘇軾が友達に宛てた手紙です。

原文

大略如行雲流水
(大略は行雲流水の如く)

初無定質
(初めより定質無く)

但常行於所當行
(但だ常に當(まさ)に行くべき所に行き)

常止於所不可不止
(常に止まらざるべからざる所に止まる)

文理自然 姿態横生
(文理自然にして、姿態横生す)

意味

ざっくり言うと(文章というは)流れ行く雲、流れ続ける川の流れに似て、

文章に決まったかたちというものはなく、

ただ必ず至るべき結論への向かって行き、

おさまるべき所におさまって、

文脈は自然で、記述が明確になっていくものだ。

意外!

文章の書き方が原義

文章をいかに書くべきかというのが手紙の内容です。

「雲や川の水のように流れるように文章は書けばよく、きまった形はない。しかしそれでいて自然のままにきちっとおさまるはずだ」と言っています。

禅が解釈する「行雲流水」

禅語として「行雲流水」が用いられている理由は、もちろん文章の書き方をこれに従うためではありません。

文章の書き方ではなく、人の生き方・心のあり方をこれになぞられています。

禅における「雲」と「水」

どのような生き方かを考える前に、禅における「雲」と「水」を見ていきます。

「雲」はさすらう禅僧の象徴

ひたすらに旅する僧や何も持たない乞食は、禅の理想の姿です。

この理想の姿を禅では時に「雲」と見立てることがあります。

「雲」を用いてさすらいを表わす禅語

  1. 臥月眠雲(つきにふし くもにねむる)
  2. 雲悠々水潺々(くもゆうゆう みずせんせん)
  3. 雲無心出岫(くもむしんにしてしゅうをいず)
  4. 雲冉々水漫々(くもぜんぜんみずまんまん)

とくに「雲悠々水潺々」と「雲冉々水漫々」は行雲流水と同じ、「雲」と「水」を組み合わせた言葉で行雲流水を理解するヒントになります。

悠々は「ゆったりと落ち着いたさま」、「潺々」は「浅い水がよどみなく流れるさま」を表わします。

冉々は「物事が徐々に行なわれるさま」、漫々は「広くはてしないさま」を表わし、少し意味が変わってきます。

悟りをさえぎるものとしての「雲」

禅ではまた、「雲」を悟りを遮るものの象徴として用いることもあります。

「無」「去」「外」「開」といった言葉と合わせて使うことで

悟りを遮るものがない状態=悟りの境地

を表わします。

悟りを遮る「雲」の禅語

  1. 雲去青山露(くもさってせいざんあらわる)
  2. 萬里無片雲(ばんりへんうんなし)
  3. 無山不帯雲(やまとしてくもをおびざるはなし)
  4. 雲外一声雁(うんがいいっせいのかり)
  5. 雲開日影新(くもひらきにちえいあらたなり)
  6. 雲外渓声(うんがいけいせい)
  7. 雲外一閑身(うんがいいちかんしん)

分厚い雲を通り過ぎる

この場合、悟りを遮るものが消え去っていくさま、すなわち「無礙 」の境地と意味は重なります。

さらに詳しく

漢字一文字「雲」の解説はこちらをご覧ください。

小まとめ

「行雲」の意味

したがって、「行雲流水」の「行雲」は、

  1. 「さすらうもの・流れ行くもの」
  2. 「悟りの境地」

という二重の意味で理解することができます。

両方重ねると、「悟りの境地に達したさすらう者」という意味になります。

「水」は川

「水」は川や湖の水を意味します。ペットボトルや水道の水ではありません。

特に川を示すことが多い

この場面では「流れる水」と言っているので、「川」を意味していることが分かります。

雨水で洗い流す、風呂の水を流すといった意味ではありません。

川の意味で「水」が用いられている禅語

  1. 水流元入海(みずながれてもとうみにいる)/li>
  2. 吸盡西江水(きゅうじんす さいこうのみず)
  3. 水声山色(すいせいさんしょく)

水は老荘思想の影響で良きもの

禅において水は、老荘思想の影響で良きものとして扱われることが多いです。

「水」を良いものとして捉える老荘の言葉

  1. 上善如水(じょうぜんみずのごとし)
  2. 交淡如水(まじわりはあわきことみずのごとし)
  3. 流水不争先(りゅうすいさきをあらそわず)

ちなみに

「川の流れ」を意味する流水は、禅が好んで度々用いる題材です。

川の意味で「水」が用いられている禅語

  1. 滿城流水香(まんじょうりゅうすいかおる)
  2. 落花隨流水(らっかりゅうすいにしたがう)
  3. 流水寒山路(りゅうすいかんざんのみち)
  4. 竹密不妨流水過(たけみつのして りゅうすいのすぐるをさまたげず)

要約すると「行雲流水」とは

禅の文脈における「行雲流水」は、

悟りの境地に達したさすらう者。
川のように流れ続けるさまは、実に望ましい

ということになります。

省略して

修行僧を意味する「雲水」の元の言葉

一か所に留まらずに旅を続ける禅僧のことを「雲水」と呼びますが、この語源は「行雲流水」とされています。

手紙の書き方が修行僧を意味する言葉に変遷したというのは面白いですね。

何も持たないという理想

禅画でも度々乞食や布袋として、理想の生き方として描かれます。

葛飾北斎『布袋図』
白隠『大燈国師像』

何も持たないという理想

何も持たないという生き方は禅の理想です。

「無」を連発する禅

禅語「無」の解説はこちらをご覧ください。

しかし、雲水たちは何の志もなく、自然にまかせて旅をしているわけではありません。

この点については後述します。

その前に、禅の解釈から離れて、「行雲流水」の一般的な解釈についてみていきましょう。

よく使われる一般的な意味

一般的には「物事に深くこだわることなく、ただ自然の成り行きに身を任せること」の意味で用いられています。

自分の心持ちをこだわりなくさわやかに保つという含意を導出することが多い言葉です。

雲も川も”流れゆく”ものであるという点に着目して、そこから我が身・我が心持ちのあり方に転じて、「細かいことは気にしない、過去は気にしない」という含意を導出することが多いかと思います。

端的にいう

さばさばした心情を表わした言葉として座右の銘として用いることが一般的です。

人に声をかけるならば「ドンマイ、気にするな」といった励ましの意味ということになります。

禅の見方と一般的な解釈はかなりズレる

この「こだわりなく・なりゆきまかせ」というのは、禅の考え方とはかなりズレたものになっています。

どの点がズレているのか、確認していきましょう。

ここが違う!禅の見方と一般的な解釈のズレ

上記の一般的な解釈は、禅の考え方とはかなりズレてきます。

言葉は多義的ですから、一般的な解釈が誤りであるとは言いませんが、明確に禅の言葉の使い方や考え方と違うため、その点をまとめておきます。

禅にはまらない一般的な解釈

  1. 言葉の用い方:物事にこだわらない場合は「風」を用いる。「雲」は流れて、振り払われる存在。
  2. 自然にまかせない:禅では主体的な態度を大切にして「自分」を出発点として考えます。結果を自然に任せるのはその後です。

「モノにこだわらない」の場合は「風」

ただし、禅では「物事に執着しない」という場合には、「雲」ではなく「風」を使うことの方が圧倒的に多いです。

こだわらない「風」に吹かれる禅

物事の執着を捨てたさわやかな気分を表わす禅語がいろいろあります。

  1. 下載清風(あさいせいふう)
  2. 穆如清風(ぼくとして せいふう)
  3. 破襴衫裏包清風(はらんさんりにせいふうをつつむ)
  4. 清風匝地(せいふうそうち)

「雲」は「風」で吹き飛ぶもの

前の項で、「雲」はさえぎるものだと説明しました。

より具体的には「雲」はモノであり、モノは浮かんで消えるはかないものだと禅では考えます。

すなわち、雲=そうした目先の事物には捕らわれない方がよいという文脈で、禅では雲が登場します。

モノは雲のようにはかない存在

モノを雲に喩えた分かりやすい言葉に「白雲無根」があります。

原典の『従容録』を読むと、モノに捕らわれていけないという文脈での「雲=うつろいゆくモノ」のイメージが掴めてきます。

「風」も合わせて出てくるので、分かりやすい一節になっています。

没蹤跡(もつしょうせき)
断消息(しょうそくをたつ)
白雲無根(はくうんこんなし)
清風何色(せいふう なにいろぞ)

『従容録』74則

悟りを邪魔するのが「雲」

禅の文脈では「月」は悟りを意味します。

雲はこれを邪魔する存在であり、風はこれを払う存在です。

「月」の宗教としての禅

禅は「月」は悟りを示す言葉として多用される一方、「太陽」はほとんど強調されません。

  1. 雲破月来池(くもやぶれて つきいけにきたる)
  2. 清風払明月(せいふうめいげつをはらう)
禅において「月」がどのような存在であるかは、こちらをご覧ください。

禅では「自然の成り行きで任せるとは言わない」

禅は徹底自力の宗教で、自分が主体的に動くことが大前提です。

諸国を行脚する禅僧(雲水)は成り行きまかせなわけではありません。

雲水に理想を見出すのは、貧をもろともせず、意を得るためにひたすらに邁進しているからです。

自己啓発的なポジティブな励ましの言葉が多いのも禅語の特長です。

「行雲流水」にお気楽な言葉ではない

臨済宗の開祖である臨済は「自分を信じる」ことをまず第一に据えました。

雲水たちも、こうした前向きな心意気が前提に励むのであり、自力で何かを得ようと旅を続けます。

誰かが何とかしてくれるという他力や、どうにでもなれという自暴自棄とは違います。

決して風の吹くままの気ままな生き方ではありません。

禅語の出典経路

  1. 一以貫之 (いちをもってこれをつらぬく)
  2. 自灯明 (じとうみょう)
  3. 主人公 (しゅじんこう)
  4. 自信 (じぶんをしんじる)

自然と結果はついてくる

何もかも自然にまかせるのはではなく、自ら主体的に取り組み、その上で結果は自然に任せると考えます。

鋭意取り組み、その上で「結果は自ずとついてくる」と考えます。

「行雲流水」=「なすがままに」ではありません。

「結果は後からついてくる」という禅語

  1. 花開蝶自来(はなひらけばおのずからちょうきたる)
  2. 桃李不言 下自成蹊(とうりものいわざれどもしたおのずからみちをなす)
  3. 結果自然成(けっかじねんになる)
  4. 自照列孤明(みずからてらしてこみょうをつらねる)

哲学的な解釈

水は循環する

さて、もう少し検討を深めてみましょう。

雲の流れと川の流れを一句でまとめているところを遠視眼的に見てみると、この雲の流れと川の流れがつながっていることが分かります。

POINT

行雲流水は、ただ水が循環しているだけ

雲は山にぶつかり雨になり地に落ちます。

地に落ちた雨は沢に束ねられ、やがて川になり、海に流れ出ます。

海に出た水は太陽の光に照らされて蒸発して、雲を形成します。

どれほど流れても、また必ず帰ってくる

輪廻というと、仏教哲学的であり、神秘的なもののように思われるかもしれません。

しかし、水か流転し循環していることは、先のとおり私たちの日常のなかで日々起きていることです。

表層ではなく深層を捉える

行く雲や流れる川をみて、その循環を感じることは簡単ではありません。
同様に、生命が生まれ死んでいくということも同様の循環です。
しかし、一つの川や一つの命の前にあって、このような循環という視座を持ちづらいものがあります。

雲も川もつながっている、すべては一つ

雲の流れと川の流れを一句でまとめているところを遠視眼的に見てみると、この雲の流れと川の流れがつながっていることが分かります。

この観点に立つと、雲の流れと川の流れを同一の水の循環として捉えることができ、行雲流水の含意としてすべてに仏性が宿る。すべては一に帰すという仏教の基本的な考え方を得ることができるかと思います。

POINT

大自然に仏性を見出す禅語

この含意を持つ禅語は数多くあります。

例文:行雲流水の如く

一般的な使い方

「行雲流水の如く」といった場合には、心情として過去のことや細かいことを気に留めずに、サラサラと流れる小川のようにキレイさっぱりした心持ちで、という使い方になります。

「行雲流水」の例文:

    いろいろ面倒も多い役回りのはずだが、あの人はいつも行雲流水といった様子で悩んでいる感じが少しもない。

特殊な使い方

少し深みのある使い方としては、「解釈③ 一見異なるものに共通する真理を見出す」や「解釈④ 万物は循環する:輪廻という意味合い」の方が味があるかと思います。

「行雲流水」の例文:

    難解な事件だが、刑事は行雲流水の慧眼で断片的な証拠を継ぎ合わせて犯人を突き止めた。
    小さな善事もやっておくに越したことはない。行雲流水で、必ず巡り巡って自分に帰ってくるものだ。
使用上の注意

この意味でも例文を作ってみましたが、ハイコンテキストな禅文化の要素が強すぎるため、テストではいい点がもらえない可能性があります。

「行雲流水」を英語でするなら

Clouds flow, rivers run.

動詞の選択で悩みますが、2つの動詞は異なる方が味があってよいかと思います。

もう少し詩的な表現があれば、ぜひ教えていただきたいです。

riversもa riverと悩みましたが、とりあえず一般論ということでriversを採っています。

まとめ

行雲流水を色々な角度から見てきました。色々な意味合いで用い方も色々できそうですが、直感的な心地よい響きというのも、この語が好まれる利用だろうと思います。

ハイコンテキストな意味を取らずに風流とするもよし、禅的理解や哲学的考察をするもよし、多面的な一語であります。

心落ち着けて、川のせせらぎを聞きながら、座禅しながら、この語を味わってみてください。

監修者:「日常実践の禅」編集部

日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

参考文献:
『一行物』(芳賀幸四郎、淡交社)
「行雲流水」の出典』(国立国会図書館データベース)
ブックとラック』(桑名市図書館)

画像の一部:
Pixabay

禅問答に挑戦する

多くの禅語は禅問答に由来しています。

興味のある方は挑戦してみてください。

おまけコラム:座右の銘「行雲流水」を実践してみる

「自然」という点に着目して、実践を考えてみたいと思います。

禅の世界に入って、心落ち着けてみれば、自分も一つの流れのなかにある何かに過ぎないことに気づきます。

座右の銘の実践①:自然に触れる

「行雲流水」は、仏教における法のもとで世界全体を貫く法のもとで、世界とともに生きることであることを学びました。

自然のなかに飛び込んで、肌で感じるのが一番手っ取り早くまたそれを自覚的に行わなくても、自然のなかを歩けば、自然とそうなっていきます。

アウトドアを楽しむ

頭を働かせずにただ歩いてみましょう。 考えないほど、雲のように川のようになれるはずです。

【参考】川も雲も流れても山はそのままという禅語はこちらから

座右の銘の実践②:自然を育てる

体感は手を動かすとさらによいと思います。

家庭菜園のように何か植物を育ててみてください。

植物は少し見ないうちに勝手に伸びてきます。

日常生活では掴みづらい長期的な視座が得られます。

自然の偉大さを小さな植木鉢に見出し、そこに大きな空や川を感じてみてください。

座右の銘の実践③:老いを受け入れる

禅の最大テーマは「死」であり、その恐怖の超克が禅の目指すところです。

人は生まれた瞬間から、死が運命づけられていて、死に向かって行進しています。

このように書くと忌み嫌う人もいるかもしれませんが、そういう人は「死」の恐怖と対峙できていないということです。

POINT

老死は自然なこと

これまで見たように雲は雨になり、川になって海になり、また雲になります。

木は育ち実をつけてやがて朽ちますが、実は種になりそのうちに木として成長していきます。

「死」は流転の一時点のものでしかなく、老いは自然の流れです。

逆らわない

老いを嫌うことは、川の流れに逆らうことです。

雲が気持ちよく流れるように、私たちも気持ちよく年を取っていくのが大道です。

これぞ「行雲流水」のあるべき心持ちです。