動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す

座禅は大切。しかし、それよりも大切なことがある!?

禅の中級者以上の方向けの言葉です。

心を落ち着けて日々を過ごすことや、静かに座ることが習慣化した人に対して、同様かそれ以上に大切なことがあると諭してくれる言葉です。

この語を残した禅僧の生き方そのものを表した言葉としても味わい深い言葉です。

出典

江戸時代中期の禅僧、白隠の書『遠羅天釜』(おらてがま)に出てくる言葉です。

臨済禅の中興の祖と言われています。

鎌倉時代に興隆した後に停滞していた臨済禅を立て直し、その修行体系は現代にまで続く盤石なものとなっています。

博覧強記と呼ばれ、大量の読書に裏打ちされた禅世界を、書や掛け軸というかたちで数多く残しています。

困窮した農民とともに時の政府と争うといった社会活動も行いました。

パワフルで無骨な掛け軸は、白隠の代名詞です。

言葉の意味

動中と静中が対比的な一語です。

静中から意味を確認していきます。

「静中」

静中は「じょうちゅう」と読みます。

「静かに座禅をする」という意味です。

当然ですが、禅では「座禅」がもっとも強調される生活実践の手法です。

「工夫」

工夫は思案すること、試行錯誤することという意味ですが、禅では師から与えられた公案について弟子が考える作業を工夫と言います。

そこから広義にとって、一筋縄ではいかないものを何とかやり遂げることという意味で捉えます。

「動中」

動中とは動いている最中のことです。

禅では、どっかりと腰を下ろして肚の座った様というのがよいこととされます。

この語では、逆に「動中」の方が「静中」に勝ると言っています。

しかも、はるかに勝ると言っている点、印象的です。

解説

この語は、日々の生活や実社会での活動がより重要であると言っています。

日々、ご飯を作り、洗濯をし、様々な日常生活が私たちの基本にあります。

時に宗教・哲学はこうした基本をはるかに超えた高度に形而上学的な議論に向かいます。

禅ではこうした哲学的な議論を戯論(けろん)として退け、ただご飯を食べること、食器を洗うことといった高尚な思索からすると実に卑近な作業を大切にします。

それが私たちの生活の基本であり、つまり生きる基礎であるからです。

実社会での実践を大切にする禅語

  1. 喫茶去(きっさこ)
  2. 洗鉢孟去(はつうをあらいされ)
  3. 着衣喫飯(じゅくえきっぱん)
  4. 且坐喫茶(しゃざきっさ)
  5. 逢茶々遇飯々(ちゃにあえばちゃ めしにあえばめし)
  6. 飢来喫飯寒到添衣(うえきたればはんをきっし かんいらればころもをそう)
  7. 一日作(な)さざれば、一日食らわず

今日の日常を生き抜く

静かな山中の禅院で、穏やかに暮らすことは素晴らしいことです。

実際、禅ではそうした「無事」を最大の平和であり幸福として祝福します。

しかし、この語は、そうした理想はありつつも、人々の暮らし社会のなかで、自分が体得した禅力を働かせよと言っています。

その効果は百千億倍と言っています。

このように実社会を忌避した隠遁生活ではなく、人々の思惑やしがらみのある社会のど真ん中で、矛盾した世界と真っ向対峙して生きることを禅では求めることがあります。

社会を生きた禅の言葉

白隠は様々な書や掛け軸を残していますが、座禅を強調したものはほとんどありません。

白隠自身が座禅よりも、臨済禅立て直しや農民との社会活動、書の執筆など、社会での実践活動に重きを置いていたのかもしれません。

そんな白隠の思想が色濃く表されたこの語は、特に禅の中級者以上には心に刺さります。

座禅が習慣化し、心を落ち着けて暮らせるようになった人に対して、「静かな部屋で座禅をするのも結構だが、実生活、実社会で大いにその力を発揮することが百万倍大事だ」と言っているからです。

実社会での実践を大切にする禅語

  1. 坐一走七(いちにざししちにはしる)
  2. 坐水月道場(すいげつどうじょうにざす)
  3. 行亦禅坐亦禅(ぎょうもまたぜん ざもまたぜん)
  4. 静中動あり 忙中閑あり)
  5. 小隠隠陵藪 大隠隠朝市(しょういんはりんそうにかくれ たいいんはちょうしにまじわる)

まとめ

動中、静中のいずれかというよりも、両方大事と考えるのがよいかと思います。

そのうえで、この語に当たっては動中の重要性をきちっと受け止めるのがよいかと思います。

日々の創意工夫は、沈思よりも手を動かし足を使って気を使って実践していくものだという、大宗教家にして社会活動家の白隠のありがたい教えです。

監修者:「日常実践の禅」編集部

日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。

編集後記

演劇をやっている役者の方の話だ。

良い演技には、心から入るアプローチと体から入るアプローチがあるそうだ。

心から入るアプローチは、いわゆるその人のなりきるというもので一般的な演技手法の理解に沿うものと思うが、これはよくないのだという。

なぜなら、その人の感情になりきることには限界があるから。

例えば、殺人鬼の心というのは、殺人を犯していない役者には理解できず、演じられないということになってしまう。

だから、体から入る。それらしい身体を意識的に表現していくということになる。

これはすなわち自分を客観視していくような作業で、世阿弥はこれを”離見の見”といっているそうである。

だから、このアプローチの場合は感情的であることは悪いことで、没入しないということになる。

自分の体から意図した情報だけを発信していくことになるから、そのためには意図した情報以外の情報を体から出してはいけないということになる。

だから、生理的な動きというものを排していくことになり、呼吸すらも悟らせないように演じるのだそうである。

いわく、演じることは”武士道”に通じる、山岡鉄舟に学んでいるとの話だった。

つまるところ、演じることとは死ぬことであると。臍下丹田に意識を置き、ただしそれにも執着することはない。

吸う気(隙)をみせない。

常在戦場の心持ち。演技とは禅だったのか。 

動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す。 

座って死ぬよりも、演じながら死ぬ方が難しそうだ。

禅至る所にあり。

寺よりむしろ衆生に転がっているような気もする。

在家に達者ありと。

日常生活で実践する

身の回りを片付ける

禅は空理空論を避け、日々の実践を志向します。

身のまわりの片付け・清掃から始めてみてください。

最も始めやすく効果の出る実践方法です。

禅問答に挑戦する

多くの禅語は禅問答に由来しています。

興味のある方は挑戦してみてください。

座禅をする

座禅は最も基本的な”禅”の実践になります。

オンラインで座禅会に参加できる時代になりました。