莫妄想の意味「妄想することなかれ!」
今やっていること以外を考えることはすべて妄想という、今やっていることへの集中を促す禅語
(まくもうぞう)
莫妄想、妄想は意味が分かりますが、莫が漢語に慣れていない人でないと直感的に理解できません。
そのため、意味はもちろん、その含意にたどり着くことができません。
今回もまずを意味を理解し、その背景を辿りながら、最後実践することを考えていみたいと思います。
はじめに
まずは読みかと意味を確認していきます。
その次に解釈、そして実践と続きます。
莫妄想と表裏をなす言葉に、「思無邪」(おもいよこしまなし)があります。
莫妄想の読み方と意味
莫妄想は”まくもうぞう”と読みます。
「妄想すること莫(な)かれ」と読んでも構いません。
訓 読みだと直感的に理解できると思いますが、意味は「妄想するな」という意味です。
妄想とはよそ事
禅でいう妄想とは、よそ事のことを指し、今自分が取り組んでいること以外、すべて妄想ということになります。
「妄(みだ)りに想うこと莫(な)かれ」と嚙み砕くと、考えることがあちこちに散逸してしまうことを止めるべきという意味が分かってきます。
仕事をしていれば仕事のことを考える、料理を作っていれば料理のことを考えるということです。
仕事中に料理のことを考える、料理をしながら仕事のことを考える、こういうよそ事を妄想として禅では嫌います。
莫妄想とマインドフルネス
つまり誇大妄想といった意味の妄想よりも、もっと小さなことも、禅では妄想と考えます。
現実的でない空想的なことを指して、妄想といっているのではないということです。
もちろん、そうした非現実的な思索も禅の嫌うところではありますが、もっと小さな即時即物的でない思考を排するべきと考えるのが禅の徹底主義です。
ご飯を食べているときは、ご飯を食べることに集中するということです。
これはマインドフルネスと同じことを言っているということが分かります。
妄想はマインドフルネス(心を込める)の逆
マインドフルネスは直訳すれば「心がいっぱい」ということですが、どこに対していっぱいなのかということが重要になってきます。
違うコトで頭がいっぱいというのは、マインドフルネスとは全く異なるものです。
“今、ここ”でやっていることに心が満たされている状態が、マインドフルネスです。
”今、ここ”以外はすべて妄想であり、妄想することなかれ!ということですから、マインドフルネスと莫妄想は表裏をなす言葉ということができます。
マインドフルネスは三昧(ざんまい)と同じ
禅が妄想の反対語のように使う言葉に、三昧(ざんまい)という言葉あり、このことを禅では度々用います。
「ゴルフ三昧」について考えてみる
ゴルフ三昧というように、それにどっぷりつかっている状態を意味する言葉ですが、一般的な使われ方とは意味合いが違う点には注意が必要です。
四六時中ゴルフのことばかり考えていて、朝から晩までゴルフをしている生活をゴルフ三昧と言ったりします。
しかし、禅でいうゴルフ三昧は、ゴルフのときはゴルフに集中するという意味でゴルフ三昧という言葉を使います。
1日中ゴルフのことだけ考えていろとは禅は決して言いません。
ゴルフをしているときに違うことを考えている人に、ゴルフに集中しようという意味で「ゴルフ三昧」という言葉を用います。 意味合いとしてはマインドフルネスと同じですね。
英語で言うと
Ward off delusion
莫は「なかれ」ですから、don’tを使ったり、avoidを使ったり、halt(止める)、stop、evade(避ける)、dogdge(かわす)、shed(捨てる), desertなどが考えられると思います。
今回は副詞も使って全体3文字にすること、撃退するなどの強い意味もあり、ward off danger(危険を避ける)、wad of a blow(打ち込まれた太刀を払う)といった使われ方をするward offを採用しました。
「ward off」は、~を遠ざけておくという意味でも使われるようです。
妄想はdelusionを採りましたが、daydream(白昼夢)、fancy(空想)、fantasy、dream(夢想)、visionなどもあるかと思います。
禅が嫌う妄想とは
「今、ここ」にない一切のことについて考えることは妄想であるとして、これを退けるという禅の基本的な考え方を現す言葉としての”莫妄想”を見てきました。
ここではマインドフルネスや三昧の反対のものとして退けられる妄想を、幾つか取り上げてみたいと思います。
衒学:議論しない
抽象的議論、形而上学的議論、議論のための議論を禅は嫌います。
「結局どうするんだ?」「具体的にいうとどういうこと?」と聞かれて即答できないような思索や検討は妄想として扱われます。
実際的であること、実践的であることが大事であると考えるのが禅の哲学の基本原則です。
やってみるという試行錯誤が大切
十分な検討や高尚な議論より、分からないなりにやってみるという試行錯誤を大切にします。
こういう言葉もあるほど、禅は教科書・参考書のお勉強を軽視します。
過去や未来:今しか考えない
「今」を重視する禅は、過去を思い悩むことをよしとしません。
大切な思い出も苦い思い出も、今やっていることに集中すべきと考える禅にとっては、ノイズでしかありません。
そうすれば、過去の栄光にすがることも、やってしまった過ちを悔いることもありません。
その時悩みはなく、ただ没頭している人がいるだけです。そういう境地を禅は目指します。
禅は過去を振り返りませんが、未来も考えません。
先のことを考えて心配したり、不安になったりすることがありません。
なぜなら、今やることに集中しているからです。
(⇒今すぐやれ!という禅語)
二項対立:絶対的な感覚を重視
これは少し難しい考えになるので、ここでは簡単な解説に留めます。
ものごとには長短・大小・美醜・巧拙などの相反する比較対象があるけれども、こんなものはそもそもないと禅では考えます。
例えば、ここに炊飯器があるとして、これよりも機能の古い炊飯器・機能が新しい炊飯器というものが世の中にはあります。
- 使っていないキレイな炊飯器もあれば、使い古した昔の炊飯器もあります。
- 大家族用の大きな炊飯器もあれば、一人暮らし用の小さな炊飯器もあります。
どちらと比べるからで、手元の炊飯器は古くもなり、新しくもなります。
大きくもなり、小さくもなります。
(二項対立で考えないという禅語⇒「両忘」)
大切なことは何か
古い・新しい、大きい・小さいといったそんなことはどうでもよく、それらはすべて妄想であり、重要なことは今・ここでご飯を炊けることであり、温かいご飯を食べられることだと禅では考えます。
不安:何も心配することはない!
過去も未来も考えない禅に不安はありません。
苦しい体験を思い出したり、後悔したりしませんし、先のことを心配して不安になったりしないからです。
今、目の前のことに集中している人に、未来も過去もなく、不安になる暇もありません。
大安心を得よう
禅のテーマに“大安心を得る”ということがあります。
大安心は「だいあんじん」と読みます。大安心は心の平静ということであり、これは長年の座禅・修行によって得られるのではないと考えます。
今ここでやる座禅に集中することで、不安の入り込む余地がなくなることによってその大安心を得ます。
必ずしも座禅である必要はなく、日々の仕事でも家事でもなんでもよいのです。
禅では、それを分解して呼吸すること、歩くこと、食べることなど、最も基礎的なことを“しっかり行うこと”を徹底します。
このように妄想をなくし、心を込めて(マインドフルネスに)何かに没頭することで、不安のない穏やかな心の平静を得ることができると考えます。
妄想を捨てるマインドフルな言葉
妄想を捨て、マインドフルネスを実現する禅の言葉を幾つか紹介したいと思います。
それでは全11禅語、順番に見ていきます。
- 妄想を捨て去る禅のことば 3選
- 目の前の集中せよという禅語 4選
- ありふれた日常を磨き上げろという禅語 4選
1.妄想を捨て去る禅のことば
妄想するな!と言われてもいろいろ考え込んでしまったり、逡巡してしまったりしてしまうことはあるかと思います。
その妄想に対抗する方法として、幾つか禅が珍重して用いる言葉があるので、紹介します。
妄想を捨て去る禅のことば⓵「工夫」
禅問答の際に、答えを考える修行者がいろいろ思案することを工夫といいます。
転じて、創意工夫というように、一回やってみてうまく行かなかったものを、やり方を変えて試してみる、というときに工夫という言葉を使います。
工夫 : うまく行かないプロセスを大切にする、試行錯誤を促す禅語
妄想を捨て去る禅のことば②「冷暖自知」
ヤカンが熱いから気を付けろと子どもに説明するのに、色々言葉で説明するよりも、一度やけどしてしまった方がその危険性を理解するのには早かったりします。
雪を見たことがない人に、その冷たさを説明するのは難しく、雪を持っていって触られる方が早いでしょう。
冷暖自知:
水のつめたさ暖かさは、自分で手を入れて初めて感知できること。悟りが他人から教えられるものではなく、自分で会得するものであることにたとえる。
このように禅では、身体的に自分で感じすること、体得することの重要性を示す言葉として冷暖自知という言葉用い、重視します。
妄想を捨て去る禅のことば③「一日なさざれば、一日食らわず」
偉くなったお坊さんでも、自分のことは自分でやるし、何か役に立つことをしないならば、ご飯はなしにする、というのはこの言葉の意味です。
人に頼んでやってもらうこと、自分は考えるだけで人に命令してやらせることというのを禅は嫌います。
“自分でやること。一人でできること”は最も重要な禅の実践原則の1つです。
その人は自由
なぜなら自分でできるならば、その人は自由自在だからです。
自由自在は禅の目指す理想の境地であり、それは今日実現できると禅では考えます。
自分でご飯を作る、自分で布団を敷く、誰かに頼まないとできないのでは不自由です。
自分でできるならばこれを自由(自ずからに由(よ)る)であると考えます。
2.目の前のことに集中せよという禅語
- 在眼前(眼前に在り)
- 看脚下(脚下を看よ)
- 真佛坐屋裏(真仏、屋裏に坐す)
- 明珠在掌(明珠、手に在り)
「今、ここ」に集中することを促す禅語があります。遠い将来や、遠くどこかに素晴らしいものがあると考えずに、「今、ここで真理を得ることができる」と考えるのが禅の基本になります。
「誰しもが、今日、ここで仏になれる」という強烈なメッセージが禅の本懐です。
3.ありふれたつまらないものを磨き上げろという禅語
目の前にあるものは、ありふれていてつまらないものに思えるかもしれません。
そのままでは使えないものかもしれません。そういう使えなくなったものを工夫して使えるようにするべきというのが禅の教えです。
- 閑古錐(かんこすい):古く先の丸くなった錐
- 無孔笛(むくてき):音の出ない笛
- 沒絃琴(もつげんきん):弦のない琴
- 破草鞋(はぞうあい):破れたわらじ
使えない道具を磨いて使いこなすということは、何ということはない自分を取り巻く環境に積極的に働きかけることで、世界を自分のものにせよという含意があります。
今日、すぐにやってみる
妄想を捨て、それをやってどうなるのかという打算や不安を捨てて、何かに没頭してみましょう。
実践してみよう
例を挙げますが、何でも構いません。
手を使うようなことがいいですが、禅では呼吸とい意識して動作可能な最小の動作の集中を、座禅というかたちで行います。
・料理をする
|誰のためともなく|失敗を恐れずに|ただ美味しく作ることに集中する
・掃除をする
|何のためともなく|面倒とも思わずに|ただキレイにすることに集中する
・座禅をする
|何のためともなく|やってどうなるのかといった疑念を忘れて|ただ呼吸と姿勢維持に集中する
座禅は究極ですが、それ以外でも我れを忘れてただその行為に没頭できることであれば、何でもよいと思います。
考え方としては、それを拡張して、生活全般に渡ってマインドフルネス・三昧(やっていることに集中すること)を拡げていくことが目標です。
そうすれば、妄想や不安のない生活が送れるようになるからです。
禅問答に挑戦する
多くの禅語は禅問答に由来しています。
興味のある方は挑戦してみてください。
莫妄想テスト
妄想していないかどうか、最後に試験をしてみましょう。
言い切れる人は妄想がない状態でOKです。
「不安がない」と言い切ることに不安を感じた人は、心のどこかに妄想があって、言い切ってしまったことの良くない余波を妄想してしまっている可能性があります。
将来のことを案じたり、他人との比較をしてしまっているのかもしれません。
どんな苦境にあってもその状況に存分に取り組んでいるなら、不安を小さくなって消えていってしますはずです。
まとめ
ごちゃごちゃ考えずに、全力で今日を生き抜く。これが莫妄想の本懐です。
開き直り、腹を据えて現実と対峙できれば、晴れ渡った晴天がこれまで以上に美しく感じられ、すがすがしい心持ちで目の前のことに取り組めると思います。
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
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禅語は基本的に短いものが多く、しかしながら意味が深いのが特徴です。
突き詰めると、たった一字でも味わい深い意味が生じるのが禅の世界です。
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コラム:「本来無一物、生まれたときも死ぬときも」
将来どうなろうとも知ったことではありません。
こういうと自暴自棄と捉えてしまう人がいるかもしれませんが、これまで見てきたように先のことではなく、今に集中するということです。
将来のことに関して、全員にとって確定していることは、「誰しもが死ぬ」ということです。
この事実に対峙することは、また別の機会に取り上げたい禅の重要テーマです。
付け加えるなら「誰しもが、何も持たずに死ぬ」ということです。家も財産も思い出も感情も、何も持たずに人は死にます。
禅はこれを厳しい現実として受け取れるのではなく、ただの事実して捉えます。
死と対峙して、初めて“生”が生き生きとしたものになります。