明珠在掌の意味「大切なのはモノは手の中にすでにある」
原典と前後の意味を両方解説
(みょうじゅたなごころにあり)
明珠在掌は「みょうじゅたなごころにあり」と読みます。原典における意味は「あなたの手の中に明鏡がある」です。今日一般的には「あなたの手の中にあ美しい珠がある」という意味で使われます。
このように2つの意味があり、原文は詩で後者が禅的な解釈と言いたいところですが、この語の出典は原文が碧巌集という禅の教科書的存在の書物のため、そこが少し厄介です。それでは解説していきます。
出典からひも解く
『碧巌集』第97則の頌から:
頌(じゅ)というのは、偈頌(げじゅ)とも言い、本文に添えられた漢詩のことです。
本文に出てくるエピソードを讃える内容がほとんどで、これが解説や理解のヒントになったりします。
原文
(読み下し文)
明珠は掌に在り、功有る者は賞す。
胡漢来たらざれば、全く伎倆無し。
伎倆既に無くして、波旬も途を失う。
瞿曇、瞿曇、我を識る也無。
復た云く、「勘破丁せり」
(意味)
正しく物事を見る眼は自分の手のなかにある、善いものは善いと見極められる。
達磨大師が来て仏法を伝えてくれなければ、こうした真理眼を得られなかっただろう。
仏法があれば、善根を断つ魔王も行き場を失う。
お釈迦さま、お釈迦さま、このようなことでどうでしょう。
それ皆、明らかになってきたぞ。
1つ目の意味「明鏡」
原典では正しく物事を見る眼という意味で、いわば「明鏡」の意味で明珠が用いられています。
自分の中の鏡がしっかりあるから、目の前の正邪などあらゆるものを正確に映すことができるという意味で用いられています。
原文における明珠在掌は、「善悪の正しい判断は自分でできる」という意味で使われています。
原文が励ましてくれるもの
- 難しい状況に際して慌てふためく人に
- 自分では分からないと判断を人に委ねようとする人に
- 自分の判断力や審美眼に自信がない人に
こういう人に対して、「あなたはできるのだ!」と言ってくれる言葉が明珠在掌です。
近い意味の言葉
自分で出来るという点を強調した言葉が、これに当たります。
自灯明
自分の灯で世界を照らせと、明鏡以上に強い光が強調された言葉です。
徹底自力
何事も自分で出来るというのが、禅の基本的な考え方です。
2つ目の意味
しかし、今日、多くの場合はこの原典の文脈を離れた意味で持ちられています。
明珠を「美しい珠」と捉えるという解釈です。
大切なものは手の中にすでにある、という意味合いで用いられます。
大切なものとは、自分そのものにある仏性ということで、人はみな自分が仏なのだから、それを磨こうということになります。
自分自身が宝なのに、誰かを頼ったりどこかに出かけたり、必死で本を読んでみたり。まったく必要ないよという含意があります。
同じ意味合いの言葉
・脚下照顧・看脚下(▶参考記事)
・在眼前(▶参考記事)
・福寿海無量(▶参考記事)
この辺りの禅語を挙げておきます。
珠を落とすな
芳賀幸四郎はこの語の解説で、「月を見て手中の球を落とす」という詩句を紹介しています。
珠を落とすような行為を禅では戒めているのですが、どのようなものがあるか、具体的に見ていきます。
自信を持て
自分自身が仏であることを自分で信じられない状態が自信がない状態です。
臨済はこれを病の元として、弟子たちを励ましています。
自分を頼れ
自己責任で考えないことを禅は嫌います。
何事も自分に由る考えて行動することを「自由」と言います。
本を読むな
文字で何かを学ぶということを禅は認めません。体で感じていくもの・覚えていくことを大切にします。
人に学ばない
人の教えは「クソ」と考えます。自分で考えて、工夫してやっていくことが大切です。
仏にも学ばない、親にも学ばない
人から学ばないということは、仏にも学ばず、親からも学びません。
禅ではこれを「殺す」という強い言葉を使って、人に教えてもらうという甘い考えを突き放します。
「珠」というメタファー
逆に珠を大切にする行為ということを考えると、心を込めて何かを行うことを示唆する言葉と捉えることもできます。
リンゴをゆっくり食べるという方法はこちらから:
同じ意味に集約していく
2つの意味のおさらい
1.「正しい認識は自分でできる」
2.「大切なものは手の中にすでにある」
結局2つの解釈は同じ意味に集約していきます。
つまるところ仏教の教えは、「自分自身が仏である」ということに尽きるからです。
まとめ
ここまで、明珠在掌の意味を確認してきました。
自分ができるという啓蒙の宗教が仏教であり、それを「手の中にある光」というドラマチックな修辞が印象的な言葉です。
ぜひ、この言葉に勇気をもらって、今日一日を明るくお過ごしください。
日常生活のなかにある"禅"文化を探す活動をしています。「心に響く禅語」解説やオンライン座禅会を開催しています。
参考文献:
「一行物」(芳賀幸四郎、淡交社)
画像の一部:https://pixabay.com/
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- 「月」:禅では悟りの喩え
- 「夢」:一切は夢という現実
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浅く禅を学んだことについて
私にとっての禅は、例えば洗練された、そぎ落とされたデザイン美と同義であった。それは茶室の建築様式であり、枯山水であり、精進料理であった。また現代の制作物でも、禅的なものとして例えばアップルのプロダクトデザインなどをそれとして捉えていた。
どちらかというと座禅にはあまり関心がなく、お悩み解決のための瞑想、或いは意義を失った伝統的修行様式くらいに考えていた。京都では妙心寺大心院に泊めてもらうことが何度かあり、早朝の座禅の機会も開かれているが、参加したことはなかった。壮大な伽藍、何もない部屋、静かな夜、美しい庭、素朴な朝食、国内外の宿をともにする人たちとの交流が魅力であった。
仕事を始めて2,3年が経った頃、少し余裕が出たころにふと自分の拠り所を考えることがあり、その一つとして自分の実家が何宗の檀家なのかなどを調べたのが、意識的な臨済宗との遭遇のきっかけである。(恥ずかしながら、それすら知らなかった)そうして臨済宗妙心寺派であることを知った後に、週末に同宗派の寺を訪ねたり、座ったり、泊めてもらったりすることがあった。その時はそれだけであったが、寺で過ごす時間は静かで好きだった。教本を買い、白隠なる重要人物が故郷出身の人であることを知り、地元を離れ東京で働く身として心強い気持ちを覚えた。
そのうちに、渋谷のBUNKAMURAで白隠展を雑誌で知り、実際に展覧会に足を運んだ。若者や外国人など、およそ仏教とは縁遠い層の人たちが多く来館していることに驚いた。当時、国際協力の仕事をしていた私は、世界のあちこちへ出かけていて、一方で救済されるべき?現地の人たちの幸せそうな様子と、救済してあげようという私の高邁さと悲壮さのギャップに違和感を感じていた。タンザニアの遠浅の海を眺めながら、故郷の駿河湾の海を想った。ある種の青年的ヒロイズムの限界だった。白隠の禅画のいちいちの面白さは当時さっぱり分からなかったが、私が惹かれたのは全国を遍歴し会得しながらも、40歳を前にして地元に帰った白隠の生き方、そしてその書画が200年以上の時間を超えて、遠く日本を離れて、多くの人々の心を捉えていることだった。名寺の高僧ではなく、岩次郎で通っている地元に帰る選択をした白隠の生き方。出生の地にあって臨済禅を改革し、育て、広めた白隠。嗚呼、世界中を飛び回るがごとき、幼稚な活躍像は卒業なのか、とその時思った。
その後、私も地元に帰り、少し余裕が出てきたところで、職場の先輩の影響もあり茶道を始めることになった。同じ教室に、高校時代の書道の先生が習いに来ており、そこでその先生から芳賀幸四郎の一行物をいただいた。これがひどく面白い。とんでもなく面白い。連作の同著、続々、又続、続々と次々と買い求め、すっかり芳賀禅語解説の読み味に魅せられてしまった。芳賀幸四郎によって得られた禅語の面白さを、皆と共有できれば幸いである。